2世死ぬほど婚約者のこと好きかよ[1]

「おい、なんだ。この数字は。何のつもりだ? ……寝ぼけてるのか?」
 今日も今日とて、2世の一喝がオフィスに響きわたっていた。
「いったいいつになったら成果を上げられるんだ? お前は……」
 吊しあげられている奴は、それらしい言い訳を述べ続けていた。競合がどうとか、予算がどうとか……。非を認めたらオシマイだから、それはそれは必死である。それに対して副社長が良い顔をするわけもなく、追求は厳しいものになっていく。ほかの連中はちゃんとやっているぞ、と。
 ……かなりピリピリした空気ではあるが、社内の人間は誰も気にしはしなかった。ベーケス社ではこれが日常なのだ。せいぜい自分に火の粉が飛んでこないように、と、思っているだけだ。わが社が数字に厳しいのは、所属する者たちなら誰もが知っていることである。副社長がしびれを切らして怒鳴りかけたその時、ちょうど、副社長のスマートフォンに着信があった。副社長はちらりと画面を見て、急に興味を失ったように「もう行け」と言った。「次はクビだ」と言い添えて。

「……あいつ、命拾いしたなあ」
 と、同僚が言う。
 俺はしみじみと頷いた。
 ベーケス社は名だたる大企業のひとつだが、徹底した成果主義でもある。勤めているだけでもある程度の地位が保証されるが、ささやかなミス一つ許されず、また、ノルマはかなり厳しいのだ。
 お説教で済むのは、かなり運が良いといえる。……まあ、次、成果をあげられなければどうなるかは知らないが。
「副社長のあの目はなあ、おっかないよなあ……」
「だよなあ。俺だったら睨まれたら頭真っ白になって、なんも言えなくなるよ。社長とまるきり同じだもんな」
 2世こと副社長。ベーケス2世。社長とはあまり似ていないけれども、あの鋭い目つきだけは、もう、本人と言っても過言ではない……。
 副社長も副社長だが、社長はこれに輪をかけて苛烈だった。うっすらとした冷笑、指先一つで生命が飛ぶ。コレは比喩でもなんでもなくて、実際、姿を消すヤツも多かった。
「まあ、生き延びるために必死にもなるよな」
 熾烈な生存競争が強いられているのは、何も我々一般社員だけではない。副社長にしたってそうだという話である。
 なんでも、副社長には兄弟がごろごろいて、最も優秀なものが一族の跡を継ぐのだとか……。
「なあ、知ってるか、副社長がさ」
「うん?」
「結婚するんだって、近々」
「え? マジで?」
 こういうところが、ここで生き抜いている者の強さだろうか。同僚は、この濁流を飄々とかわしながらのらりくらりと存在している。得体のしれないやつだった。
「ほら、あの電話の相手って婚約者だよ。スマートフォンの光り方が違うもん。赤かったろ」
 ……そういえば、と思い返してみると、あの副社長が、わざわざ席を外して電話に出ていたくらいである……。普段なら、大事な商談だろうとなんだろうと、相手からかけなおさせる、そんな人だった。
「……じゃ、相手は玉の輿かあ」
「いやいやいや、副社長の方が玉の輿だよ」
「え?」
「相手が、もっと上、もっと上。なんか、もうすんごい、政治系のあれ……」
「ははあ?」
 名だたるベーケス一族の、さらに上……。
 世の中には、自分のようなエリートですら想像のつかない世界があるものだ……と、俺は途方もない山をふもとから眺めるような気持ちになった。崖の下に落っこちなければいい。
「じゃあ、完全な政略結婚ってワケかあ」
「抜け目ないよなあ、副社長」
「やっぱり美人なのかね。……婚約者っていくつ?」
「たしか15とか、6? だって」
 頭の中で思い描いていた限りの美人が、急に、大人しそうな世間知らずのお嬢さんに変わった。
「家の方針で、普通の学校に通ってるらしい」
「普通の学校って……」
「そりゃもう、庶民と変わらないんだって。そのへんの学校だよ。いろいろあったろ、いろいろ。上の方の争いがさ。あぶないからってんで、その辺の家に預けられてさ。普通に、平凡に」
『そのあたり』の事情については、俺たちみんな身をもって知っている。会社を立て直すのに十五年。いろいろ苦い思いもした。
「上手くいくのかね。副社長と……」
 同僚は、「そういえば」から始めたくせに、やたら『婚約者』に詳しかった。いったい、どこから情報を仕入れてくるのか……。
「あれさ。あの電話、ついてったらさ、取り繕ったような甘い声で、『愛してるぞ!』って喋ってるのが聞こえるぞ」
「……」
「おもしれぇだろ?」
「いや……」
 副社長が甘い声で恋人に愛を告げているところは、正直全く想像がつかない。あの人が人をなぶるとき以外に、にこりとでも笑みを浮かべたことがあっただろうか?
 まだ猫の鳴き真似でもするほうがいくらか想像がつくというものである。
「それが。前に副社長にさ、どんな人か聞いたらさ。自慢げに教えてくれたけど、やたら情報が薄いんだよ。で、なんかさあ。調べてみたら……婚約者と最後に会ったのが、ぜんぜん、もう、立ったか立たないかの幼児の頃だって! ははは!」
 俺は思う。
 コイツはもしかして俺が思っている以上に2世が嫌いなんだろうか。

***

 ヘトヘトになりながら仕事を終わらせ、さて帰ろうかと思ったところで、唐突に鳴き声が聞こえた。
「ニュートー! 愛してるぞ!」
 猫のじゃない。よりにもよって、愛のささやきのほうだった。あまりに快活で明朗な声が聞こえてきて部屋を間違ったかと思ったくらいだ。
 しかし、間違いようもなく見事に副社長の声なのである。
 聞き覚えしかない声であるのに、テンションだけが全く理解不能なほどに高いのだ。うわずった声は説教のときの激高にたしかに似てはいるのだが、そうはいっても態度が違いすぎた。
「はは。遅くにすまん。声が聞きたくてなー。……ご飯、食べたか? そうかー。食べたか。何を食べたんだ? 写真でもいいから送ってくれないか? ほら。お前がちゃんと食べてるって分かったら、俺も、……。うん、俺は食べてるぞ? ああ、ほんとだ、ほんと! そりゃあもう、豪華なもんさ」
 と言いながら、副社長はチョコレートバーをやる気なく囓っていたのだった。
「なんなら画像でも送ってやろうか……。いらない? ははは。そう。うん、またな……。うん、俺も愛してるよ……」
 あまりに普段と違うもんだから、これぞ政略結婚か……と、若干引いている自分がいた。地位の為なら、なりふり構わず子供相手にも下手に出る。
 ……ベーケスの跡取りともなると、そんな貪欲さがないとやっていられないのかもしれない。
 そんなことを考えていると、副社長はスマートフォンを置き、ふーっと息をつき、盛大に机に突っ伏したのだった。アレは気力とか体力を使うことだろう、と、俺は勝手に同情を寄せる。副社長に、プライベートはもはや存在しない。
 それから……何か操作している。しばらくすると、ぱっとノートパソコンのデスクチップいっぱいに一枚の写真が映し出された。人の写真だ。
 想像したお嬢様とか、お坊ちゃんとかとはずいぶん違う。植木鉢を抱えた、可愛らしい感じの子供だった。元気いっぱい、という感じで、にっこり笑っていた。
 なんだか、思っていたすがたとは違う。
「ニュート……」
 無心で、2世がマウスカーソルを動かしている。
「……会いたい……」

……撫でてる。
 頭を撫でている。 
 マウスカーソルで頭を撫でている。

 副社長、婚約者のこと死ぬほど好きじゃねぇか。

 ぐすん、とやたら涙ぐんだ声まで聞こえてきて、もう、なんだか見てはいけないものを見てしまっているような気がして、俺は逃げ帰るように会社をあとにした。

2022.03.16

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