2世死ぬほど婚約者のこと好きかよ[3]
荒れている。
オフィスの窓には、びゅうびゅうと激しい嵐が吹き付けていた。
電気がなかなか安定せず、フロア一帯、非常用電源に切り替わったり、戻ったりとせわしない。
こんな天気だから、多くのものは自宅待機を命じられており……みたいなことだったらよかったのだが、ただの駒たる俺たちにそんな権利は存在しなかった。
とはいえ、出張中の連中まではさすがに戻ってこれなかったようで、オフィスの人影はいつも以上にまばらである。
天気もひどいが、一番かわいそうなのは副社長である。例の婚約者との顔合わせをする予定だったのだが、さすがにこの天気では天気で飛行機が飛ばなかったらしい。
一張羅でタクシーから降りてきて、ぽたぽたと雨の滴る前髪にハンカチすら当てず、「こんな天気が一番嫌いだ」と吐き捨てた様子には、さすがに同情を禁じ得なかった。
俺たちはベテランだから、こんな事態に備えて寝袋を持っているというわけである。星空の代わりに電灯を眺めながら同僚と天井を見つめている。
「なあ、知ってるか」
「何?」
「ニュート様はさ、代わりに秘蔵っ子の方と会ったんだとさ」
「マジで……?」
「どうしても都合がつかなかったって言って、代わりに秘蔵っ子が連れてかれて。年も近いしってことで、なかなか和気あいあいしてたとか……」
「でも婚約者なんだよな? 副社長の」
「仮には」
「……どっから聞いてくるの、そういう話?」
同僚は黙って、スマートフォンの画面を見せた。SNSかと思ったが、なんと、某国の観光の広報ページだった。
写真で見たあの子は、ベーケスの社長に肩を抱かれ、見知らぬ大人と握手している。和やかな写真に、みんなでご飯を食べました、と、簡潔に書かれていた。こちらの天気の荒れように比べて、外の庭のまぶしそうなことと言ったら……。
「なんだ。じゃあ、そのチビっ子、そっちと結婚させられるの?」
「お前、忘れてないか? 相手のほうが立場が上だよ」
「じゃあ選ぶのはその子ってこと?」
「愛だよ、愛」
同僚はとんとんと胸をたたいた。
「……」
俺の心配は、わが身可愛さ。つまり、自分の身の振り方の心配だけだ。
新しいお坊ちゃんが社長になるんだとしたら、自分の立場はどうなるだろう。
俺は別に副社長のことがトクベツ好きということはない。むしろ若干嫌いというか、苦手というか、まあ、そんなところではある。あいにくと別の人間が上に立ったからといって、出世できるだろうと思うほどおめでたい頭はしていなかった。
一つ有利な点があるとすれば、そう……2世の弱み(?)を握っている。
婚約者のこと好きだろ……実は……。
そう思うたびに、うすら寒い疑念が浮かんでくるのだ。
……本当だろうか……?
トイレからの帰り道、「ガシャン」、と音が聞こえてきた。風が吹き込んでいたから、おお、何か割れたかな、と思って部屋をのぞき込むと、副社長が肩で息をしていた。
ずいぶん暴れたらしい。書類棚は倒れ、ひっくり返った机からは引き出しが飛び出している。押し入り強盗でも入ったのか、というくらい、ものすごい荒れ狂いっぷりである。あの開いた窓から投げ飛ばされてないだろうな、だれか?
見なかったことにしようと思って引き返しかけたところで、副社長のスマートフォンが鳴った。赤いランプが点滅すると、はっとして座りなおした。ひっくり返った椅子に器用に腰かけている。変わり身は見事なもので、そこには今まさにモノに当たっていたような気配はなにひとつなかった。
「ニュート。会えなくてごめんな……。俺も楽しみにしていたんだが、仕事が。……仕事が忙しくて……」
……天候のせいではないのか?
そういえば、と、ふと思う。もし危ないな、と思ったんなら、俺たちが会社に泊まっているみたいに前日から入るなりすればいいのだ。飛行機の遅れは運が悪かったにしろ、なにか裏の意図を感じないでもない。
例えばお気に入りのほうを結婚相手に……とか、そういうことである。
「俺は……俺はもう諦めるよ」
ぎょっとした。
副社長の立場からいえば、婚約を『諦める』という選択肢はないはずだった。一体何を考えているのか、俺には分からなかった。
「うん、だからニュート……いや、お前の結婚式には出るが? ……そう、だって見たいだろ、15年間……ずっと……」
思わぬ展開になってきた。
一方的に話を切り上げると、副社長は持っていたスマートフォンを床にぶん投げた。バキ……っという音がしたが、それが俺の足元に転がってきた。
盗み聞きなんてするんじゃなかった。
隠れようとしたが間に合わず、顔を合わせる羽目になった。一瞬だけきつい目でこちらをにらんだのだが、それよりもロック画面に映し出された画面で、気の毒そうなくらい悲痛な顔になった。……あの写真が入ってたんだろうか。それに、ヒビが入ったのを気にしたんだろうか。
すべては俺の勝手な想像に過ぎない。
また着信があった。出ないことを選択したようだった。
「ご飯を食べました」のページを再度見る。あの子は、偉そうな大人たちに囲まれてあいまいに笑っていた。あの子は副社長にもご飯を食べましたって写真を送ったのだろうか。
一連のことを同僚に話すと、同僚は相手の電話番号を覚えているか、と尋ねた。俺がそらんじてみせると、ふうん、と言って嗤った。
「俺は副社長がきらいだけど、社長はもっと死ねばいいのにと思ってるよ」
俺はあっけにとられて同僚の顔を見た。な、なんてこというんだ、こいつ……。
***
あるかなしか、というくらいの昼休みである。
コンビニから戻ってくると、警備員に止められながらも、振り切ってぐんぐんとこちらに来る影が見えた。
おや、子犬かなにかか。それにしてはやけに大きいのだった。それに、いつもなら血も涙もないような警備の連中がなんだか不自然なほどに慌てているのだ。
その姿を見て、俺はぎょっとした。
あの子だ。副社長の婚約者だ。
要するにものすごく、偉い人(の子ども)なのだ。
それは、とても必死そうで、写真や、映像で見るよりもずっと小さく見えた。
息を切らしたあの子が、手に赤い薔薇を持っているのを見たときである。
俺は、ああ、と思った。
これから何が起こるのか、なんとなくぜんぶ分かってしまったのだ。
「ニュート!」
しばらくすると、副社長が現れる。振り乱した髪も、ちょっとだけ切らした息は、果たして本当のものだっただろうか。
いや、知っていたのだろう。知っていたはずだ。……きっと、あの子がここに来ることは……。
これもたぶんきっと、ぜんぶ、きっと、丁寧に舞台に整えられた演出に過ぎないのだ。
「ニュート、……どうした? 直接会いに来るなんて」
その子は、しばらく息を呑んで副社長の顔を見つめていた。それから……意を決したように、胸元からベルベットの小箱を取り出す。ほら、答え合わせなんて必要ないくらいベッタベタな展開じゃないか。
結婚してください、と、上ずった声で言って、子供には不釣り合いな小箱を突き出した。
それから、もう本当に、笑っちゃうくらい真っ赤な花を、差し出す。
結婚してください。ずっと一緒にいてください!
きゅっと目を閉じて、返事を待っている。
単なる演奏記号みたいな、この間は一体何のための間だ?
ブレス、息継ぎ。ただの沈黙。
「ニュート、ありがとう……っ! 俺を選んでくれたんだな!」
感じ入った様子の副社長が前に進んだ。
おおー、とまばらな拍手があがって、あたりは祝福の空気に包まれる。同僚がぬるい拍手をしていた。
ああ、なんか、いかにもお遊戯会っぽいというか。
……どこか白々しくて、劇みたいだった。
断れると思うのか、この人が。
この状況で、断るという手があると思っているんだろうか。
返事を聞いたその子は目を見張って、ほんとうに嬉しいという様子で涙ぐんでいた。
「ほら、ニュート、ハンカチ!」
……きっと、あの子は愛されて育ったんだろうなあ、と思った。
それはきっとあんな子のホンキなんてのは、俺たちは歯牙にもかけてないからだ。めいっぱいに輝く純情は、いつかすり切れて色あせてしまうと知っている。
いつか思い知るんだ。そんなにきれいな世界じゃないって。
俺たちは感情ですら数字に換算して読んで、どういうメリットがあるか考えるのだ。
その子は、きゅっと目を閉じて、顔を真っ赤にして、ぱっと両手を広げる。たかだかハグ。可愛いものだ。いっそキスでもなんでもしてやればいいのに。……それなのに、副社長はなぜかうろたえる。
それから、ばたばたと使いのものたちみたいな人たちが駆け込んできて、慌ててその子を引き剥がす。それで、その一瞬を逃した。
副社長はああ、もったいなかったー、というように大げさな身振りをした。
「ニュート。俺はお前を、大事に、一生ダイジにするからな……」
はてさて、盛大な婚約式が行われて、狡猾な副社長は次期社長の座を約束されたことになった。
我が社の行く末も、副社長も安泰というところに落ち着いた。めでたし、めでたしである。
「何ヶ月もつと思う?」
「どうかなあ。あの人のことだから、利用価値があるうちは手放せないだろうし。まあ、上手くやるんじゃないか?」
副社長は、終始上機嫌で、婚約指輪を牽制のために見せびらかして歩いている。あの子の手を引いて、仲睦まじく中庭を歩いている姿が見える。
この同僚が、ニュート様に連絡をとってやったんだろうか? いや、きっとそんなことはない。もっと大きな力が働いているような気がする。
ベーケスの2世はいったいどこまで知っていたのだろうか?
副社長は、果たして、あの子にハグのひとつもしてやったのだろうか。
「愛している」と言っているんだろうか……。
実際に愛しているかどうかなんてくっそどうでもいいことである。
ところで、副社長、いや、ベーケスの次期社長は、枯れかけた薔薇をずーっととっておいているのを、俺は知っている。誰にも見えないような自分のデスクの隣に、ひっそりと。誰にも見せないように大切にとってあるのだ。
数ヶ月もしたら、枯れてなくなってしまうものだろうけれども。
2022.03.16
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