ファーストニュートインプレッション

*挨拶前、ウルハム遭遇if

(ううーん……?)
 小さないきものが、床の上でぴるぴる震えている。僕に押さえつけられて、身動きがとれないでいる。
 小さいといっても、地下工房でカボチャを彫っているジャンタンよりはまあまあ大きい。それでも僕よりはずっと小さい。簡単に押さえつけられてしまうくらいには……。
 とりあえず、どう見ても暗殺者ではなさそうだ。
 腕をつかんで、ぱたっと表向きにひっくり返して顔を覗き込んでみる。おびえきった目がこちらを見返してくる。反撃もなし。
 僕は、いったいどうしたらいいだろう?
 この子を捕まえたのに理由はなかった。逃げようとしたから追いかけたまでだ。
 というのも、城の廊下を散歩していたら、このいきものが、おっかなびっくり廊下を歩いていて……なんだろう、誰だろうと思ったのだけれど、その気配は、こっちに気がつくやいなや、一目散に逃げ出したのだ。
 逃げられたら本能的に追いかけてしまうものだ。もちろん、自分よりも弱そうだったら、という場合に限るけど……。
 捕まえてから、新魔界の手先だとか、なにやら暗殺者だとか、そういう可能性もあったなと思った。
 そうじゃないなら、どうして僕から逃げたんだろう?
 拘束を緩めると、未知でやわな、よく分からないいきものは、ぱっと起き上がって逃げようとした。意外としたたかだな、と思った。拘束を緩めたのは、もちろん、そうしてもすぐに捕まえられると判断したからだ。服のすそを引っ張ると、つんのめって転びそうになったので慌てて支えてやる。小さないきものは、きゅっと身を縮こめて目を閉じた。身を固くして、震えて、それだけだった。
 きっと、僕とこのいきものは、おなじことを思っている。
 どうしたらいい?
 遊びで捕まえた蝶々のやり場に困るように、僕は、この存在を持て余し始めていた。

◆◆◆

「そっか。実は、僕もきたばっかりなんだよね……。あ、でも、きみよりは道は分かると思うよ」
 おびえるこの子をなだめすかして、なんとか事情を聞き出したところによると……魔界にやってきたばっかりで、城で迷ってしまったらしかった。
「僕? 僕はね。ちょっと散歩してたんだ。寝れなくて。これからの仕事を思うと気が重くてさ……はあ……」
 そうなんだ、と、すこし安心した声がした。小さな声は、ずいぶん下から聞こえて、身をかがめないと聞き漏らしてしまいそうだった。この子の歩幅は自分よりもずーっと狭いから、ゆっくり歩いてあげることにする。
 ほんとうにじぶんを食べないのか。食べたりしないのか。
 おそるおそる聞いてくるその子に、僕は、「食べないよ」、と答えた。
 どこに行けばいいか部屋に戻れるのか分からない……と、途方に暮れているいきものは、明らかにべそをかいているのに、かたくなに「泣いてない」と言い張っていた。もしかしたら、暗いから分からないと思っているのかもしれない。
 僕は「そっか」と返事しつつも、なんとなくそわそわしていたのだった。
 人間のジャンタンはともかく……お城の魔物の中ではじぶんが一番意気地なしと思っていたけれど、この子は僕より弱く見える。
 その気になれば、牙も爪もなしで、首をべきっと折ることができそうだ。……もちろん、そんなことをする気は、ない。でも、出会っていたのが他の魔物だったら、そうなっちゃったかもなあ~……と思ったまでだ。
 うん。そうされてたかも。有無をいわさないで、がぶっと食べられちゃってたかもしれない。
 だから、この子を見つけたのが、僕で良かった。
「ところであ、あの、きみ、さ。人間に化けるの上手だね……? 耳もなんだかまあるいし……人間にしか見えないよ。どこの一族?」
 魔女一族みたい……、と返事が返ってくる。自分のことなのに、自信がなさそうだ。
「みたい、って? ああ、ずっと、人間界で暮らしてたんだね。へぇ。なら、そっか。きみ、小さいもんね。でも、それはそれでたいへんだったでしょ……。いろいろさ……。その上急に魔界に放り込まれるんだから……。あ、生まれは魔界なの?」
 また、「らしい」という返事だ。
 記憶がないほど小さかったころのことらしい。
 それじゃあ、この子が魔界にいたのは魔界が荒廃する前だから……すくなくとも十五歳くらいかな、と思った。意外だ。いや、そのくらいかも……。どうも、人狼の仲間は大きいから、相場がよくわからなくなる。
 それから、なるほど、親の気配がないわけだ。
 魔女一族だというのなら、見た目がこうでも、魔術を扱えるのかもしれない……ひそかに、ちょっと面白くなくなった……ときだった。廊下に飛び出してきた何かの影におどろいたその子は、わあっと悲鳴を上げて、ぎゅううっと僕に抱きついてきたのだった。
 え、何。柔らかい。
「あの、こわくないよ? ただ、ヘロウィップが通っただけだよ。ほら……この子、女の子だから、牙もないし。単に、飛ぶウサギだよ?」
 ね、と見せると、その子は、僕に抱きついたままおそるおそるヘロウィップに手を伸ばす。威嚇され、ひゅっと小さく叫んで僕の後ろに回り込んで、ぷるぷる震えて僕を離さない。
 その瞬間、僕は確信してしまったのだった。
 この子、ウサギより、弱い。
 僕よりずーっと、ずーっと、弱い。

◆◆◆

 この子が飛び出して迷子になったら困るから、手をつないであげることにする。その子はちょっとためらっていたけれど、ちゃんとその都度その場に立ち止まって、よくないよ、こうするんだよ、と、暗に教えてあげたら分かってくれた。
 よしよし。もしもおっかない魔物に襲われて、見当違いの方向に逃げ出してしまったら大変だ。
 もしもこの子がひとりで迷子になったら、それこそ困ってしまうだろうから……。
 この子は爪も立派じゃなくて、手の平もふにふに柔らかかった。戦ったことがなさそうな傷のない手。きっと、魔術も上手くないんだろう……。思った通り、一族の代表なんかでもないというのだ。
 ほんとは泣いているのに、意地を張って泣いてないって言う子。
 ヘロウィップが怖くっても、僕に「怖くないよ」って言われたら触ろうとする子。それで、びっくりしちゃう子。
「やっぱりさ、きみみたいな子が魔界の再建をするのは、大変じゃないかな。もうちょっと再建が進んで、ましになってきてから戻ってきたら……? いや、ううん、きっと頼まれたんだよね、無理に……」
 僕みたいに……。
 白状すると、僕はもうだいぶその子が好きだった。もしもうっかりはぐれたら、ちゃんと探してあげよう、と思っているくらいに好きだった。
 僕は、僕よりも臆病なその子に、頼られて嬉しくてたまらなかった。
 でも、その子は僕と違った。ちょっと泣きそうな顔をして、それからふるふると首を横に振った。
 自分にしかできないらしいから、がんばる、と、小さい声で答える。
 けなげに頑張る姿に、僕は、なんだか胸を打たれたのだった。
(こんなに小さいのになあ……)
 余計に大丈夫かなあ、という気持ちになってくる。だって強くて勇敢な魔物は尊敬されるけど、弱くて勇敢な魔物はすぐ死んでしまうから……。さわっと頭を撫でると、ちょっとびくっとしたけど、受け入れてくれた。ふわふわだった。
 守ってあげたいな、と思った。
「人間界といえば、次期魔界王様も人間界で暮らしてたんだってね。……あの魔界王様の子どもだから、きっとすっごくいばりんぼだろうな。……その事をかんがえるだけでいやになっちゃう」
 ぴたっと、その子が歩くのが止まった。僕は慌ててフォローした。
「……あ、そうだよね。きみは魔女一族だものね。ごめん。魔界王も次期魔界王様も、きみの親戚、だものね……。あの、客室はこっちだよ。もう一人で大丈夫?」
 そう言いながらも、この子を一人にしておいてだいじょうぶだろうか、と不安になってくる。
「……どうしよう。大丈夫じゃないと思うんだけど、えーと……」
 僕が言いかけたときだった。ぎゅうっと裾をつかまれる。やっぱり、だいじょうぶじゃないんだ。
 僕はその子が言い出すのをちゃんと待ってあげる。一言一句、聞き逃さないように耳を澄ませる……。
「え? トイレ……? トイレの場所?」
 その子は涙目で頷いた。
 もともと、トイレに行きたいというので部屋を出てきたのだけれども、迷ってしまったということだ。恥ずかしくって言い出せなかった、って。そういえばさっきからそわそわしていた。ちゃんと気がついてあげられればよかった。
「うん。まかせてよ。ひとりじゃ怖いでしょ? 一緒に行こうか。このお城はとっても広いもんね」
 なるべく優しい声でいうと、こんどはその子から手をつないでくれる。嬉しかった。ガリアンを包むときみたいに、やさしくやさしく握り返す。やさしく、そっと。

◆◆◆

 人間界の話をあれこれ話しているうちに、目的地にはあっという間についてしまった。
「トイレ、この奥だけど……。一人で怖いでしょ。……あの、ついていってあげようか?」
 この子は、弱いくせにちょっぴり強がりだ。ここまでで大丈夫、ありがとう、と言って立ち止まる。ものすごく強がっているのがわかる。
「あのね、危ないと思うんだ。そのトイレさ、暗いし。落ちたらすごく大変だから……深いし、ひとりじゃとうてい、はいあがれないと思うな……」
 その子の動きはぴたっと止まって、ちょっと考えて……申し訳なさそうに、せめて扉の前まで着いてきてくれないだろうか……と、すなおに頼んできた。
 もちろん、いい。そうするために忠告したのだ。
 そこにいてね、いてねと言われて、用を足すまで、いるかどうか何度もノックされて、僕も同じだけ返してやった。
 葉巻の先から、煙がたゆたっていく。僕はすっかり決めていた。
 この子のことは、できる限り自分が守ってあげよう、と……。

「ええと、客間に戻ればいいんだよね? え? 違うの……? 部屋がわからない?」
 とぼとぼと不安げに着いてきていたその子は、城の一角で不意に反応した。こっち! と言って手を引っ張ろうとする。
 その子が、もともといた場所に近いほうだ。
「あ、ちょっと、そっちは行ったらだめだよ。偉い人の部屋のあるところで……下手に立ち入ると、殺されちゃうよ。さっきも僕がいなかったら、あぶなかったんだよ、ねぇ……。たまたま僕だったから安全で……」
 言い聞かせても、聞いてくれない。また泣きそうな様子で「こっちの部屋」、と言い張る。これはだめだ。話にならない……。せめて、明るくなるまで、いったん僕の部屋で保護しよう……と、その子を抱え上げたときだ。
「ニュート様!」
 そこへ、フランがばたばた走ってきたのだった。
「……え、ニュート様?」
 ニュート様っていったら、次期魔界王の名前だ。
 思わず手を離した僕からするっと降りて、ニュート様はフランコールのスカートをぎゅっとつかんだ。

◆◆◆

 僕と、ニュート様との出会いはそんなところだった。
 トイレに行きたかったけど、フランコールは寝ていると思っていたから、起こすのが申し訳なかったんだって、あとから教えてくれた。
……ほんとうに、あの日に会ったのが僕でよかった。次期魔界王になにかあったらたいへんだ。
 それに、僕はニュート様のことがすっかり好きになってしまったのだった。ニュート様は、次期魔界王として、威厳を身につけてなんとか立派な魔界王として振る舞おうとしているけれど、弱くて……小さくて……。
 たまらなく可愛い。
 すっかり魔物の群れになじんだニュート様は僕の部屋に入り浸り、ガリアンと戯れている。
 きっとああやって出会ったのは運命に違いない……と、僕はひそかに思っているのだった。
 僕はやっぱり、本当は臆病で、結構頑張り屋さんのニュート様の頭を撫でる。ニュート様が次期魔界王だと分かったあとでも、僕はやっぱり思っている。
 この子のことは、できる限り自分が守ってあげよう、って……。
 この子は僕のものだって、僕はもうすっかり思っている。

2022.11.29

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