スイートホーム

伴侶のニュートに家出されるベーケス2世
とりあえず移譲後ってことでベーケス2世は吸血鬼の長
(息子出てくるから……)

 ある日のことである。
 吸血鬼の長が仕事を終えて自室に戻ってくると、寝台で寝ているはずの愛しい伴侶のすがたはどこにもなかった。影もかたちもない。トイレにでも起き出したのかと思ったが、シーツにぬくもりはない。
 どころか、シーツにはしわ一つなく、寝台が使われた形跡もなかった。
 いぶかしむ吸血鬼の長は、机の上の紙片を目にとめる。
 そこにはこう書かれていた。

『探さないでください。
ニュート』

 家出だ。
――吸血鬼の長は、思わず紙片を握りつぶした。ひっくり返して読んでも見たが、それ以上のことは書いていない。
 まごうことなき家出である。
 そんなことをされる心当たりはといえば――十分すぎるくらいにあった。
 魔界の荒廃を期に、長いこと人間界で幼少期を過ごしたニュートは、ことあるごとに「人間界に戻りたい」と主張していたのであった。
 許すわけにはいかなかった。
 結婚当初は「再建したばかりの魔界がもっと落ち着いてきたら」で言いくるめ、次に「世継ぎができたら」でごまかし、その次には「2世がもっと大きくなったら……」と言いつくろい……とにかく、吸血鬼の長は、ニュートが人間界に行くことを断固として阻止! してきたのだ。
 ほかのことなら何だって叶えてやった。贈り物をこまめに贈ったし、愛をささやき、吸血鬼の身でありながらキスも惜しまず……そう、なんだってやってきたのだ。
 ただし、吸血鬼の長は、ニュートを人間界にやる気だけはさらさらなかった。痺れを切らし、いつになったら自分は人間界に戻れるのかと詰め寄ったニュートに、吸血鬼の長は言い放った。
「だってニュート、もう7年だぞ? いいかげん、お前の養い親だって引っ越してるさ!」

 ニュートの養い親は、まごうことなき人間だった。
 吸血鬼の長は伴侶の両親に会ったことはなかったし、どのような人物なのかは知らない。けれども、ニュートを見ていれば想像はついた。
 あれだけニュートをほやほやに育てたのだから、気弱で、善良で、まっとうな……そういう人物に決まっていた。
 ニュートが魔界から人間界に移り住み、養い親に引き取られたのは、それなりに大きくなってからのことらしい。ニュートの両親は、ニュートと血のつながりのないことは知っていただろう。
 けれども、自分たちが何を育てていたのかまでは知らなかったはずだ。まさか、魔界の次期魔界王だとは夢にも思わなかっただろう。
 連れ出したニュートの代わりに、前魔界王はいくらかの財宝を届けさせたはずだ。
 身代金を要求するでもない! むしろ、支払ってやったのだ。
……しかし、善良なニュートの親なら、きっと、そんなのでは納得しないだろう。人間界で、いつまでもニュートを待っているに決まっている。
 ずっとかわいがっていた我が子が、吸血鬼と結婚したと知ったら……。そして自分も吸血鬼になったと知ったら、どうするだろう?
 きっと、取り戻しに来る。ニュートを説得して、連れて帰って、閉じ込めて、二度と家から出さない。
 自分ならそうする。
 自分の子を金で売るような親だったらよかったのに。そういう人間は、掃いて捨てるほどいるはずだ。そんな環境だったら、ニュートだって多少は魔物らしく育っただろう。
……あのまま自分が魔界にいられて、ニュートを教育する機会があれば、もっと魔界王にふさわしいように養育した。
 そうしたら……。
 ニュートは今と同じように笑いかけてくれただろうか。吸血鬼の長は思考をやめた。考えても仕方のないことだった。
 次期魔界王を育てたことを、栄誉にこそ思ったっていい。相手は卑しい人間だが、ニュートを育て上げたことに感謝だってしてやってもいい。
 でも、返せない。
……おなじ事をされたら決して許さないだろうが、そこは、ニュートが次期魔界王である以上、あきらめろと言うほかない。
 ニュートはもう自分のものだ。吸血鬼にだってなったのだ。
 だから、もう、自分のものだ。

 魔界王の失踪を知られるわけにはいかない。魔界王は、急病で臥せっていることにした。
 吸血鬼の長は念のために息子にも話を聞いてみたが、2世は何も知らないと証言した。うそではないだろう。その割には何か言いたそうにしていたが、余計なことは言い返してこなかった。

 吸血鬼の長は、そうして、厳しい緘口令を敷いた。
 ベーケス一族をはじめ、吸血鬼一族はアテにならない。すでに跡継ぎがいる今、元無種族の魔界王などとっとと始末してしまえという派閥もあるのだ。弱みを見せるわけにもいかないし、これ幸いとばかりに、ニュートに追っ手がかかるのは避けたい。
 いや……もしかしたらもう……。
 蹴り飛ばした椅子が地面に倒れる音で我に返った。
 落ち着け。そんなはずはない……。
 ニュート付きのフランコールは、ニュートがいなくなったと聞いても、そうですか、とだけ言って、平然と仕事をこなしている。
 明らかに何か知っている。
 わざわざ見舞いにやってこようとする犬をひっきりなしに追い返しながら、吸血鬼の長は情報を集めていた。
 ゾービナス……は常に城にいるわけでもないから、ともかく。あのニュートの幼なじみの姿も城から消えていた。
「まさか……」
 駆け落ちでもしたというのだろうか?
 そもそも、あの幼なじみとかいうやつはいったい何者なのか。魔界に来て長いが、未だに結論は出ない。魔竜一族ではないかと疑ったこともあったが、テューポンを滅ぼし、魔界を再建してもなお好き好んでニュートといる……。
 わからない。ただ者ではないのはたしかだ。こんなことになるくらいなら、嫌われてでもいいから、ニュートに黙って始末するべきだった。
 はやく追いかけて殺さないと……。そうしたら、ニュートだってきっと目を覚ます……。
 そうじゃなかったらどうする? デビイの方を愛していると言ったら……。
 いや、そもそも、あのフランコールがこんな裏切りを良しとするだろうか。それとも、じぶんは、それくらいひどいことをしたのだろうか。
……ニュートは、どこへいったのだろう。
 思い至らなかった。
 人間界の扉には厳重に見張りが立っている。ニュートがそこを通ったという話は聞かない。そもそも、魔界王を簡単に通すはずがない。
 なら、どこへ? 魔界のどこかか……。

「……何をやっていらっしゃいますの?」
 何か手がかりはないかと、私室の引き出しをひっくり返していると、掃除用具を携えたフランコールが立っていた。
「俺の部屋だぞ。……俺の部屋でもある」
 フランコールはため息をついて、高い位置にあるシャンデリアを背伸びだけで掃除し始めた。
「きみは……」
 言いながら、フランコールとはずいぶん久しぶりに話すな、と吸血鬼は思った。
「きみは、ニュートの行き先を知っているんだろう?」
「ええ、もちろん、存じておりますわ。そうでなかったらのんきに掃除なんてしていられません」
「言い逃れもナシか?」
「魔界王様にお仕えできることは、わたくしの誇りです」
 忠臣だ。感心の代わりに舌打ちが漏れた。……吸血鬼一族は頼れない。ほかの一族も頼れない。けれどもシュタイン一族は、本当に信頼できる一族なのだ。
「魔界はまだ再建したばかりなんだぞ。……何か知らないか?」
「その聞き方では、思い出せることはありませんわ」
 身をかがめていると余計にだが、フランコールの表情は見えない。
「……ニュートに何かあったらどうする?」
「まだ、たった3日ですわよ」
「魔界が滅びるのに十分だな」
「ひとの幸福も顧みない魔界なんて滅びてしまえばいいんですわ」
「……フランコール」
 ずい、とはたきを突きつけられる……かと思うとため息をつかれた。
「あなたがニュート様をほったらかしてばかりいるからいけないんです」
「ほったらかすっつったって、仕事だぞ。俺は人間界のことなんて知らない! 戻りたいなんて……」
「……」
「戻りたいなんて言われても、知らない」
 そうだ。
 ニュートはずっと戻りたいというのだ。
 7年経っても。
 きっと、何年経っても。
 ニュートの生まれた場所はここなのに。いつだって、懐かしそうに話すのだ。毛糸で帽子を編んでくれた、だとか、お誕生日には好物を用意してくれた、だとか。休みの日はどこへ連れて行ってくれただとか。吸血鬼の長のことはほとんどきれいさっぱり忘れたくせに、養い親との思い出は、いくらでも尽きないほど話すのだ。
 吸血鬼の長は、それを黙って聞いているしかなかった。
「今更帰せって言われたって、もう帰せない」
「今更、帰るとお思いで? 子どもだっていらっしゃるのよ」
「そうだ、もう子どもがいる。もう力を受け継ぐ子もいる。帰りたいと言われたら……」
「……」
「言わない……かも知れないが。言われなくてもいやだ。比べられたくない」
「あらあら……」
「どこにいるんだ?」
「……」
 フランコールはまた口をつぐんだ。なかなか強情だ。ムリヤリに口を割らせるのは簡単なことではないだろう。
「まさか、人間界じゃないのか? でも、人間界以外にあいつが行きそうな場所なんて……」
「……」
 フランコールの顔を見て、吸血鬼の長は一つ、思いついてしまった。
 どこにも行けない者たちのさまよう、世界の狭間。
 ジャンタンの父親がさまよっていた、魂がさまようだけの真っ暗な空間……。
「死海か?」
 フランコールは手で口元を覆った。
 まさか、行くとは思えない。けれども、あの幼なじみにそそのかされたなら、ニュートはあてつけに行くかもしれない。ニュートのことだから……ちょっと行ってくるつもりで戻ってこれなくなった可能性はある。
 だとしたら、とんでもなく愚かだ……。
 迎えに行ってやらないと、と、かつてのベーケス2世は思った。
「……あなたが行くんですの? 直接?」
 そう言われてから、外套を羽織りだしていた吸血鬼の長は気が付いた。虚像で行くという手もあるのだ。そうすれば、少なくとも自分の身に危険は及ばない。
「……念力だと捕まえられない」
「ほかに理由は?」
「ない」
「そうですか」
 ふと、ピーピー泣いているニュートの様子が浮かんだ。出られなくなって、どうしようもなくなって、暗い中でひとりでいるのだろうか。
 吸血鬼の長は壁からランタンを一つ取り上げ、すすを拭った。
「まあ。そうですわね。冷静ではありませんわね……。ニュート様が死海に行くとして、わたくしがお止めしないとでもお思いで?」
「違うのか? ……それじゃあ、ニュートは、どこに……」
「そうですわね……。心配しなくとも、もうそろそろ帰ってらっしゃるのではないかしら?」
「そんなに悠長なことを言ってる場合じゃ……」
 ただいま、と聞き覚えのある声がする。
 お世話係のフランコールの方がニュートに詳しいのだと、吸血鬼の長は認めざるを得ないだろう。おかえりなさいませ、とフランコールは平然とお辞儀をする。
 部屋にニュートが入ってきた。
「ニュート! お前……っ」
 あまりにもあっさり戻ってきたニュートは、フランコールに駆け寄り、にっこり笑って、お土産だ、と、何かを渡していた。
「ニュート! どこに行ってたんだ!? こら、ニュート」
 吸血鬼の長が呼んでも、ニュートは、つーんと顔をそむけるばかりだ。
「お前、俺が、俺がどれだけ……」
 フランコールの持っている包みには『天界まんじゅう』と書いてある。
 天界? 魔界王が? よく見ると、ニュートはちょっと日に焼けている。……吸血鬼のくせに。
「心配した?」
 デビイの声。急に現れたかのような角度から声をかけられ、ベーケス2世はびくっとした。
「とにかく、無事で良かったー! ……待て。俺を置いて旅行?」
 ニュートは何か言いたげな目で吸血鬼の長を見ていたが、何か言いたげにつんと顔を逸らした。この仕草、どこかで見たな、と思って、それから思い出す。……2世と同じだ。
「二人で? おい、ニュート。待ちなさい、ニュート! どういうことだ!?」

 あとには、フランコールとデビイが残されることになった。
「ゾービナスも一緒と聞いておりましたけれど……ですわよね?」
「うん、そうだよ?」
「お二人は……仲直りできるかしら?」
「……まあ、たまにはいいんじゃない? ケンカしたほうが……」

2022.11.09

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