一番最初に

 勝った。
 次期魔界王ニュートは、ベーケス2世に笑いかけると、吸血鬼になってもいいとうなずいた。
 疑り深い吸血鬼は、今だって勝利を疑いそうになるが、そのたびに手のひらを握り、固い指輪の感触を確かめる。
 魔界王族の婚約指輪。金属はただ冷たくて、手のひらの上で消えてなくなったりはしない。
 この結末のために、次期吸血鬼の長はありとあらゆる努力を惜しまなかったのだ。十五年、いやもっと長いあいだ……魔界の王族に尽くしてきた。幼いころから甲斐甲斐しく世話をし、結婚の約束をとりつけた。
 笑顔を絶やさず、愛想よくふるまい、親切にして、愛だって囁いてみせた。
 正確に言えば、ニュートは、ベーケス2世のプロポーズのことはちっとも思い出してはくれなかったが、それでも、ベーケス2世を思い出し、その手を取ったのだ。
 完全に勝利っ!
 といっても、差し支えないだろう。

 ベーケス1世は、それはそれは喜んだものだった。見事に次期魔界王の伴侶の座を射止めたベーケス2世を祝福してくれた。そのときも、ベーケス2世は無意識に指輪を確かめていた。
 ニュートは俺を選んだ。これからはこの指輪こそが、自分が誰であるか教えてくれる。
(ニュート、待っていろ、今、飛んでいくからな)
 目の前の扉。
 こんどは、じぶんが行く側だ。
 魔物の召喚の任にあたるたび、自分はどうしてこちらに来れないのだろうと唇を噛んだものである。どころか、身勝手に人間界に帰宅する魔物たちを見ているとくびり殺してやりたくもなった……。
 そんな日々とも、もうオサラバである。
 ベーケス2世は扉をくぐる。十五年ぶりの魔界の空気。戻ってきたら、いちばん最初にニュートに触れると決めていた。けなげに婚約者の帰りを待っているニュートをめいっぱい抱きしめるのだ。

「2世ーーーーっ、魔界に戻ってきたんですねーーーー!」
「あ!?」
 城に戻ってすぐ、草むらから犬が飛び出してきた。
 なんとか念力で空を飛び、ウルハムの突進を回避する。勢いあまったウルハムは、そのまま生け垣に突っ込んでいった。
「な、なんでよけるんですか??」
「なんでって、お前……」
 ウルハムはぷるぷると頭を振って、くっついた葉っぱを払い落とす。
 危なかった。うっかり魔界に帰ってきてから一番最初に触れたのがコイツになるところだった。ウルハムは幼なじみではあるが、だからといって、ベーケス2世は旧知にさしたる興味はない。
「だって、久しぶりに2世の匂いがしたから、……もしかしたら魔界に戻ってきてるんじゃないかと思ったんです!」
 申し訳なさそうな顔をしながら、ウルハムはじわじわと距離を詰めようとしている。
(こいつ……)
 一見して無害そうに見えるが、まったく油断ならない。
 さっきだって、かろうじて避けたが、飛び出してくる直前まで気配がまるでなかった。
「久しぶりの再会じゃないですか。ほら、あの、ほらー! あるでしょ、いろいろ……積もる話とか……ほら……人間界でどうしてたかとか……これから何するかとか……」
「……」
「とりあえず、降りてきてください。さすがに僕、空飛ばれたらー……届きませんよ、その高さだったら……」
「……ニュートがいい」
「?」
 ウルハムはぽかんと口を開けた。
「俺はな、今、こっちに帰ってきたばかりなんだ。まだニュートに指一本触れられてないんだぞ! 一番にニュートに触れる。そう決めてるんだ」
「あ……そう。そうですよね。うん。まだなんですね……?」
 婚約者なのに、心を通わせた恋人同士だというのに、ニュートにはまだ指一本触れられていない。
 虚像で魔界にいるあいだ、ベーケス2世はずっとニュートに会いたかった。どんな体温だろうかといつも考えて、さらさらと風にそよぐ髪の毛を見て、どんな感触だろうとずっと考えていた。
 何か言いたそうなウルハムは急に黙った。
 ウルハムはニュートとそれなりに仲が良い。
 ウルハムは小さくて弱っちそうなものなら、たぶん誰でもに目がないのだろう。でも、俺とはちがって特別な相手ではない。
 ニュートを追い回していたのも知っているが、これからは魔界王に対しての礼儀を考え直させるべきだろう。きちんとわきまえさせないとならない。
 何か思案するようなウルハムのしょぼくれた顔を見ていると、自分の勝利を思い出してちょっとだけ気分がよかったりもしたのである。
「わかったらとっとと消えろ。あとにしろ」
「……」
 ベーケス2世が、ニュートを探そうと背を向けたときである。
 なんと、この犬は、引くと見せかけて地面を蹴り、ぐいんと飛びついてきた。
「あっこの!」
 フェイントまでかけてくるとは。そして、足首をつかまれてしまった。とっさに空に逃れようとして一緒につり下がるかたちになる。久々の重力だった。
「なんでそうなる!?」
「な、なんでって、だって逃げるから反射的につい……」
「だから、なんでそうなるんだ」
「……だってほら、久しぶりですし! それにほらー……僕もニュート様に会いたいですし……」
「ああ? お前はずっと会いたいときに会えてただろうが。くそっ、落ちろ!」
「ぐえっ」
 ベーケス2世が指先を地面に向けると、ウルハムは地面に落っこちていった。ベーケス2世がほっと一息ついたのもつかの間、一難去ってまた一難、にぎやかに駆け寄ってくる気配があるのだった。
「ベーケスーーーーっ! ベーーーーケスーー!」
 ゾービナスの声だ。ゾービナスが思い切り駆け寄ってくる。青いリボンがひょこひょこ動いていた。……ゾービナスの背の高さではここまでは届くまい、と、ベーケス2世は考えた。
「次から次へと、なんなんだ。俺は忙しいんだよ。あとでな」
 ベーケス2世が言い捨てて、今度こそ、その場を立ち去ろうとしたときである。
「犬、おすわり!」
「わん……」
 ウルハムを踏み台に、ゾービナスは見事な跳躍を見せた。

 ◆◆◆

「……っ」
「そ、そんなに怒ることないじゃないですか」
 ゾービナスに飛びつかれ、マントをつかまれ、地面に引きずり下ろされたベーケス2世は、昔なじみ二人にもみくちゃにされてしまったのだった。
 髪を乱され、服をしわにされ、一番にニュートに触れられなかったことに、すっかり意気消沈していた。
「ニュートに嫌われる……ニュートに、嫌われる……!」
「ニュートちゃまはこんなことで怒ったりしませんわー!」
「そうですよ、2世。僕たち幼なじみだし、ニュート様、優しいですよ……」
「お前らにニュートの何がわかる?」
 ベーケス2世は声を荒らげた。
「俺とニュートは互いに純潔を誓い合った仲だっ! ずっと、お互いだけしか知らないんだぞ。お前らに推し量れるものじゃない……」
「でも、あのー、2世、言いにくいんですけど、ほらあれ……」
「あ?」
「やめてってば、もうー!」
 聞き覚えのある声がして、ベーケス2世が振り向くと、ニュートが、あろうことかジャンタンをもみくちゃにしていた。ジャンタンの帽子をじぶんで被り、ぐいぐいとジャンタンの頭を後ろから抱きしめている。それから湖に向かって身を乗り出し、マーメルンに触ろうとして尾でひっぱたかれている。
「暑苦しい! 泣くな! 寄るな! カスニュート!」
「僕たちが天界に行くからって、おおげさですよ……もう! ……いつもの三倍くらいしつこい!」
「いつも……!?」
「ニュートちゃまーっ!」
 ぴょーんと飛びつくゾービナスを制止することもできずに、ベーケス2世はその場に固まっているしかなかった。
「あ、ほら、来たよ、ほら、保護者の人。なんか……行った方がいいんじゃない……ですか?」
 ベーケス2世をみたニュートは、これまでにないくらい表情を明るくして、ベーケス2世の名前を呼んだ。それだけで心が弾んだ。けれども、安堵と一緒に、じわじわ怒りがわいてくる。
「ニュートの……ニュートの裏切者ーーーー!」
 ベーケス2世はしばらく機嫌を損ね、ニュートは彼をなだめるのにかなり苦労したのだった。

2022.10.12

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