恋は瞑目

*ベーケス2世+スケルナイト(不仲)

 ここにある太陽は、いったいどんなものだろうか。

 曇り空からまみえる僅かな明かりが、生い茂るツタの隙間からすこしばかり降りそそいでいる。風はない。故にざわめく植物の音もない。薄暗い昼。
 それでもまだ、その場所はベーケス2世にとっては明るい。少なくとも棺(はこ)の中よりは。

 庭仕事はきらいじゃなかった。無心に作業していると、少しは気が紛れる。けれど、今日は、ざあざあと打つ雨の音がいやだ。
 そのくせ、晴れているのがいやだった。
 感覚としてはじめじめとした湿気を厭いながら、ベーケス2世は枯れた庭に水をやる……十分かどうかは、湿った土の色でしか分からない。
 フランコールが肥料を埋めておいたらしく、花壇には、浅く掘り返された跡がある。畝の不揃いが気になってスコップを持ち上げたが、それは目測よりもずいぶんと軽く、勢い良く浮いた。

 ……人の住む世界の太陽は、いったいどれほどのものだろう。人間界にいながらロクに見たこともない。

「ベーケス2世!」
 彼を呼ぶ声が聞こえた。ニュートの声。
 ベーケス2世はさっと笑みを浮かべる。
 次期魔界王。――ニュートがこちらにやってくる。
 見慣れているはずのそのすがたに、ベーケス2世は違和感を覚えた。
 理由は二つ。
 一つには、その場所だ。ニュートが、普段ならひとりでは気味悪がって近づかないはずのところ……目玉がぎょろりとしたように見える植物に覆われた一角から、茂みをくぐりぬけてやってきたことである。
 それから、もう一つは……ニュートの靴のかかとが、地面に這うように生えている花を踏んだことだった。
 ベーケス2世のすがたを認めたニュートは、いつもと変わらぬ足音を響かせ走り寄ってきて、いつものとおりに彼の名を呼んだ。……靴底で、クローバーの花を踏みにじりながら。
 普段と寸分のかわりもないすがた。
 ……おなじ声。
「……どうしたんだ。転んでも知らないぞ、ニュート」
 ベーケス2世が注意深くなければ、気にもとめなかったに違いない。けれども、魔界で生き抜くためには、まぬけでいる暇はひと時もない。
 ニュートは首をかしげると、上目づかいにベーケス2世を見上げる。
――スケルナイトはどこかな、知らない?
「ああ。なんだ? 俺を呼んでおいて、スケルナイトか? 湖のほうにいたな……」
 ベーケス2世は慎重に距離を測って、それからじっとニュートを見つめる。……変わらない。
「それよりも。な。ニュート、俺がこの前やったドレスがあったろう? ツタのやつだ。……着ないのか? 気に入らなかったか? あれはな、俺が……お前に似合うと思って調達したんだ」
 ううん、と、ニュートは首を横にふる。
 汚したくないから、大事な時に着ることにした。
「……そうか! 楽しみにしてるからな」
 ベーケス2世はいっそう笑顔を浮かべる。
 ……そいつを、お前に、やったことはない。

 いつもありがとう、大好きだよ。
 無邪気な声でそう言うと、『そいつ』はたかたかと駆けていった。
 想像しなかったわけではないのだ。
 念力で、あのまがいものの細い首筋を締め上げて吊り下げるさまを。か弱い声が小さくなっていくだろう。それを地面にたたきつける様を、ベーケス2世は思い描いた。実行に移すことも出来る。見えなくなるまで手をふって、結局はなにもせずにゆっくりとおろす。
「……俺も好きだよ、ニュート」
 ベーケス2世はつぶやいた。婚約者に贈るために用意しておいた薔薇を、そっと後ろ手に隠しながら……。

***

(妨害工作を軒並みムダにされるのには、新魔界も業腹といったところかな。もっとも、自分から死にに行ってくれるんだから、楽なもんだな)
 ベーケス2世ことの顛末を確かめに来たのは、じぶんの目的のために必要だったからではあるが、好奇心もわずかにあった。ニュートのニセモノがあのすがたで事を起こすようなら何か考えるわけだが、標的が『彼』のようだったから泳がせておいた。どうでもいい。事実、スケルナイトは湖のほうに歩いて行ったのをベーケス2世は覚えている。
 スケルナイトが、姿形だけはそっくりの器にどう反応するのか興味があった。

 湖のほうから、歌声が聞こえる。
 セイレーンの歌う、美しい歌。
 腹が立つほどに美しい容貌をもつ男は、微笑みをたたえながら、湖のほとりに座ってセイレーンを眺めていた。……湖の中、セイレーンは何かを食い漁っている。
 辺りにはおびただしい血痕が散らばっていた。もちろん、闖入者のものだろう。スケルナイトは傷一つ負ってはいない。
「……ひどいもんだな」
 ベーケス2世は嘲笑った。
 湖もまた、真っ赤に染まっている。先ほど見たのとおなじドレスの切れ端が湖に浮いていた。
「早いな、もう殺したのか」
「おや……何をです?」
 間違いでもしたら、腹の底から嗤ってやろうと思ったのに……。別に、スケルナイトが欺かれ、喰い殺されるのもまたかまわなかった。まあ、さすがに死ぬとは思っていない。不意打ちがうまく行ったとしても勝てないだろう。この男は、鬼神と呼ばれるだけはある。
 こうして見えないところでいったい何人の暗殺者を始末していることだろう。そしてそれを、ニュートは知らないだろう……。
「ああ、あなたが言っているのは、まさか、あれですか? あの、ニセモノとも呼ぶに値しない、……あれ。単なる化け物。あの。ほころびだらけの偽物ですか! ははは。俺の前で、卑しくもあの方のお姿を取るとは……! は、ははは、はははっ」
 スケルナイトが力任せに放り込んだ小石が、湖の水面を揺らした。歌声は途切れ、セイレーンが一目散に逃げていった。水面に映ったスケルナイトの顔が波打ち、ゆらゆらと揺れて骸骨をむき出しにする。
「よくもまあ、そんなに残酷な真似ができるもんだな」
「……残酷?」
「ああ、だってそうだろう?」
 ベーケス2世は嘲笑った。
「あれだって、見た目はあいつそっくりだったのに! 声だって同じだったのに。お前は、それを殺すのを、全くためらわないわけだ。〝愛しの姫様〟とやらと同じやつを、手にかけることを! 少しも。ためらいもしない。いや、さすが、騎士様だ」
「何をおっしゃいます? あれは紛い物。あれに心はありませんよ。ああ、あなたは。見分けがつかなかったんでしょうな。……わざわざ追いかけてきたからには、よっぽど、自信がなかったのでしょう」
「……どの口が……」
「ははははは! いや、魔物にはわからんでしょうね。愛が理解できないから。うわべしか見ていないから! 魔物と、ああ! だから。魔物と、ニュート様を見分けることすらできない! ははは!」
 湖の中から、人間の悲鳴じみた叫び声が聞こえて、ベーケス2世は思わず振り返った。それはニュートに似てもいない、単なる魔竜の断末魔だ。けれども、「助けて」、と言った気がして。
 狂ったやつにしか、見えないものがあるのだろうか。
 それとも自分が欠けているのか。
 ばしゃん、と、湖面のくらやみに何かが沈んでいった。スケルナイトはもうなにも見ていない。眉一つたりとて動かさなかった。
 あの偽物のニュートの瞳は――たしかに、本物と寸分たがわなかった。見た目では、少なくとも、そう見えた。

2022.03.15

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