虚像を覚えた

結婚後/ベーケス2世呼び

 ついに……。
 魔界王ニュートは感動に打ち震えながら、床の上に倒れている自分のすがたを見下ろしていた。
 ようやく、ようやく、できるようになった。
 念力で「虚像」を出すことができた。
 元無種族のポンコツ魔界王は、吸血鬼になってもポンコツだった。念力を使おうにも、そよ風のような強さしかない。
 ベーケス2世は、そよぐカーテンのビロードを見つめながらしばらく押し黙っていた。それから、「まあ、……ニュートは魔界の石炭を出せるから……」とフォローしてくれたのだった。
 彼は、強力な念力をたやすく使いこなしているから、たいへんだといっても、食器をのっけたままテーブルクロスを引っこ抜くのと同じくらいのものだろうと思っていたのだ。
 全くそんなことはなかった。ベーケス2世はすごかった。
 それにしても、だ。倒れている自分を見下ろすというのはとても奇妙な感覚だ。しげしげと眺めてみると、魔界王の割には実に「ふつう」である。冠がなかったら、みんな、魔界王だって分かってくれるだろうか。えいや、と身体から飛び出してしまったものだから、ポーズもまた行き倒れみたいになっている。せめてと思って、仰向けにして両手をおなかの前で組み合わせさせてみる……。念力だけで生活するのは、なかなか難しく、ものは、じぶんの身体ですらも、思うとおりに動いてくれなかった。ニュートは、なんとか倒れているじぶんの格好を、突発的な犯行から見立て殺人くらいにまで持ち込むことができた。
……アーメン。
 吸血鬼としては不適切きわまりない。
 ともかく、ニュートは虚像を出せるようになった。これで、好きな時に愛しい伴侶のもとに飛んでいける。
 きっとベーケス2世も喜んでくれるはずだ。ニュート、えらいぞ、と褒めてくれるベーケス2世の顔が浮かんだ。
 強ければ強い方がいいに決まっている。ことさら、ここ、魔界では。

 肉体の重さがない分、空を飛ぶのには苦労しないが、それでも動くのは難しい。油断するとすぐに感覚が途切れて、飛びすぎたりひっくり返ってしまう。
 このすがた、思っていたほど自由ではない。
 これでよく魔界でベーケス2世は違和感なく過ごせていたものだとニュートはすっかりベーケス2世を見直していた。
 ニュートはこの残念な念力の強度でも辛い思いをしたことがない。伴侶のベーケス2世は、ニュートをちっとも責めなかった。できないことは仕方がない、ニュートはいてくれるだけでいい、と言い切って、それよりも石炭を出すのに疲れてはいないか、つらくはないかと気にしてくれるのだ。
 ニュートは一族からも、他の魔物からも、おおっぴらに侮られたことはない。それは、きっと、伴侶が見えないところで心を砕いてくれているからに違いない。
 ベーケス2世はどこかな、と、ニュートは空を飛びながら、窓をのぞき込んでいく。
 フランコールが目を丸くして、洗濯物のかごをひっくりかえした。ニュート様、お上手ですね、と、手を振っている。これが虚像だと知ったら、フランコールもさぞかし驚くことだろう。遠くなので返事はできないが、ニュートは笑って手を振った。城のどこかにはいる伴侶のすがたを探す。
 書庫を過ぎ、廊下を過ぎ……ベーケス2世は執務室にいた。難しそうな顔で書類をにらんでいたが、カーテンをそよがせるとすぐにこちらに気がついてくれた。相手がニュートだとわかると、ぱっと笑顔になった。
「おおー! ニュート! どうしたんだ。ずいぶんスムーズに飛べるようになったな。なんだ、俺の顔を見に来てくれたのか?」
 ベーケス2世は喜んで窓を開けてくれた。
「俺もちょうど、ニュートのことを考えていたぞ! 休憩にするか? それとも何か用が……」
 手を伸ばし、ニュートの手をつかまえようとしたベーケス2世の手は、空を切る。
 どうだ、とニュートは得意になる。
 ベーケス2世はその場で固まった。感動で動けないらしかった。これで、ベーケス2世の苦労は減るはずだ。
――とてもとても頑張ったけれど、ちょっと疲れてしまった。
……。
「ニュ……」
 ベーケス2世の言葉が途切れた。見たこともないような、難しい顔をしている。
「……お前は……」
 めいっぱい感激してくれるのは嬉しいが、思ってたのと少し違う。
「俺が……お前に魔界王になれって言ったからか? 俺が……お前に。だってそんな……やっと……やっとこうやって会えたのに。俺は十五年、ずっと……お前に触れられる日を待っていたのに! それなのにたったの……」
 声が震えている。
 そこでようやく、ニュートはなんだかベーケス2世の様子がおかしいことに気が付いたのだ。
 何かを誤解している。
 どうやら、ベーケス2世は、前魔界王のように、石炭の生成のしすぎでニュートが透けはじめたのではないかと勘違いしているようだ。
 違うよ、とニュートが否定すると、ベーケス2世は唇の端をゆがませて嗤った。
「違う? 何も違わない。俺がそうしろって言ったんだ。俺が魔界王になれって言ったんだ。俺がお前にがんばれって……」
 そんなことは言われてないし、ニュートが魔界王になったのはベーケス2世とは関係がない。ニュートが何を言っても、ベーケス2世は聞いてくれなかった。
「ニュート、いったん石炭を作るのはやめよう。俺が、ぜんぶ、何とかする。大丈夫、大丈夫、触れられなくても……俺はお前のことをちゃんと覚えてるから。触れなくても……触れなくても……」
 ベーケス2世は、不意にニュートを抱きしめる。たぶん、手首をつかまれているらしいのだが、空気を読んだ方がいいんだろうか。虚像はどうやって動かせばいいのだろうか。そもそも、誤解を解くのが先なのではないだろうか。
 どうしたらいいのか分からないまま、とりあえず空気を読んで動きを合わせておくと、そのまま口づけられた。ぽたりとしずくが落っこちて、ニュートを通り抜けていった。
 ベーケス2世が泣いている。
 後頭部を抱き寄せるしぐさで、噛みつくようにキスをされる。

 ◆◆◆

 というところで、ニュートは起きた。
 起きたというか、びっくりしたせいか実体にもどったのだ。
 ニュートの実体は、心配そうなフランコールに見守られていたのだった。ちゃんとソファーの上に寝かされた上、タオルケットを掛けられている。
「ニュート様。様子がおかしいと思っていたのですが、ついに虚像が出せるようになられたんですね。特訓の成果ですわね! でも、ニュート様。びっくりさせないでくださいませ。わたくし、少々肝を冷やしましたわ。こうしてお身体が無防備になるのはよくありませんわ。あの人も心配されますわよ」
 ……。
 虚像って長く出しておくのはたいへんなんだな……とニュートは思い知った。
 できればこのまま二度寝して、夢オチということにしてしまいたい。
 ベーケス2世からしてみたら、目の前にいたニュートがぱっと消えてしまったわけで、それはもう、ものすごくびっくりしているころではないだろうか。
 まさか、消えてしまったと思われているだろうか?
 早く戻ってあげないと、取り返しのつかないことになる気がする。それでも、心配してもらうのがうれしかったりはしたのだった。
 ベーケス2世が泣いていた。ニュートのために!

 ◆◆◆

 水差しを引き寄せようとして、今は念力が使えないのを思い出した。
 それから、ニュートはしばらくのあいだ、ベーケス2世に首から十字架を下げさせられ、いっさいの吸血鬼の活動を封じられてしまったのだった。
 吸血鬼にしたら厳罰なのかもしれないが、元無種族のニュートにはなんてことのない罰である。 ただ単に、歩いて、手に持って、コップに注げばいいだけだ。……ちょっとめんどくさくはあるかもしれない。
 真っ赤な目を真っ赤に泣きはらしたベーケス2世はちょっと珍しかった。なんだか得をしたような気分ではあったので、差し引きでよしとしよう。
「ニュート」
 機嫌を損ねた伴侶は、しばらく単語でしかしゃべってくれなくなった。
 虚像は、よほどの必要がなければ使ってはいけないことにきめられてしまった。最低でも、ニュートの実体が、ベーケス2世の実体のそばにいるときでないといけない。
 そんなときに、わざわざ虚像を使おうとは思わない。
 せっかく覚えたのに、ただくたびれただけになるとは……。魔界王ならぜひ持っておきたい、第二形態というものを考えていたのに……。つまりは、倒されたと思ったらそれは虚像で、といったような……。
「ニュート!」
 考え事をしていたら、ベーケス2世に強く呼ばれた。
 呼ばれたら即ベーケス2世のところにいかないと、ベーケス2世はたいへんに機嫌を損ねるが、ニュートが十字架を身に着けているせいで、念力で引っ張ることもできない。
 ニュートはわざわざ立ち上がって、じぶんの意思でベーケス2世のところに行かなくてはならないのだ。
 ベーケス2世はしばらくニュートの頬をぐにぐにとやるとよし、と満足そうに言ったが、手は放してはくれない。
 これはもしかすると照れ隠しなのかもしれない。さてどうだろう。平時のベーケス2世ときたら、じぶんの本心をちっとも見せてはくれないのだ……。

2022.10.02

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