ぜんぶ念に出る

 ぺっくし、……とニュートが軽いくしゃみをすると、机の上に置いてあったグラスが景気よくぱあんとはじけ飛んでしまった。
 ニュートはしゅんと項垂れた。やってしまった。念力バーストである……。
 ベーケス2世と結婚して、吸血鬼になったニュートは、彼と同じように「念力」を使えるようになったのだけれど、これは見た目ほど便利ではないのだった。
 ちょっと力加減を間違えると、思いもよらぬほうにはたらいて、ものを落としたり、壊したりしてしまう。手足が増えるくらいの便利さを想定していたが、なんだか、目には見えない余計なマントを羽織っていて、知らない間に引っかけてしまう、……みたいな感じなのである。
 ベーケス2世は、暴れる魔物だって自在にねじ伏せるのに。
 割れたグラスの中には、飲みかけの血液が入っていたので、あたりはスプラッター映画みたいになった。毛足の長いカーペットには、べっとりと血がしみついてしまっていた。
 使用人を呼べば掃除はしてもらえるが、あんまり失敗は見せたくはない。表面上はにこやかだけれど、冷え冷えとした目がこわいのだった。
 できればフランコールがいいなあ、と思うのだけれど、城にはずいぶん吸血鬼が増えていたし、彼女もいろいろと忙しそうにしている。
 とりあえず、グラスを片付けようと思って念力で戸棚をあけ、ほうきとちりとりを持ってこようとした……ものの、やはり思い通りには動かなかった。
 それに、これは結構くたびれるのだ。
 念力が使えたからって、いいことがあるんだろうか。
 これで、寒い朝、布団に入ったままおやつを持ってきたりとか、できると思っていたのに……。それから、仕事中でも思念を飛ばして、こっそりベーケス2世の顔を見に行けないかな、と思っていたりもしたのだった。
 しかたない、直接片づけるか、と、ニュートが割れたグラスに近寄ると、ぴしりと身体が動かなくなった。それから、ゆっくりと掃除用具が動き出した。ひゅんと飛んできた布切れがあっという間に血液を吸い上げていく。
「ほら、証拠は消してやったぞ」
 ベーケス2世の赤い目がこちらを見ていた。

 ◆◆◆

 ふうっ、と、ベーケス2世はため息をついた。
「ニュート、素手でガラスを触ったら危ないだろう……」
 すいと指を動かすと、掃除用具が行儀良く元の位置にもどる。
 改めて、ベーケス2世はすごいのだとニュートは思う。すいすいとなんでもやってのけてしまうから、簡単そうに見えたのかもしれない。
 つくづく念力を使うのがこんなに難しいとは思っていなかった。
「ニュート」
 ベーケス2世は目を細めて、それからにっこりと笑みを見せた。ぱっと支配の力が消えて、ニュートは動けるようになる。支えを失って倒れそうなところを、捕まえられて立たせてもらった。
「お前は、吸血鬼になったばかりだからなあ。そんなものだろ? いずれ上達するさ。安心しろ、ニュートには俺がいるからな。伴侶たる俺が……いつだって助けてやるぞ!」
 今日は一日、会えてなくて寂しかったというと、ベーケス2世は「俺もだ!」と高らかに言った。
「虚像で会いに来ようかと思ったくらいさ。でも、実体の俺がいいだろう?」
 ベーケス2世は、ニュートをマントでぐるぐるくるむようにすると、髪の毛をわしゃわしゃっとかき混ぜる。それから、優しくなでつけてくれた。
 好きな時間だ。
「ああ、そうだ。ニュート、今日はな、お前にお土産を持ってきたのだ。……ほら、チョコレートだ!」
 やった、と思ってベーケス2世を見る。ポケットから何か出てくるかと思ったが、違った。大きな紙袋が上から降ってきた。
 ニュートが息をつくまもなく、ベーケス2世は、机の上に色とりどりの包みを並べていく。……どこにしまってたのかというくらいどんどん出てくる。聖誕祭の日の朝みたいな賑やかさだ。
「使用人から聞いたぞ。お前……このごろあまり血を飲んでないのだろう? 吸血鬼になったばかりで、まだなれないんだろうが、それじゃあ、力もうまく使えんぞ。だから、たくさん用意させたんだ! チョコレートならニュートも好きだろう!」
 ありがとう、と、ニュートはにっこり笑った。机を埋め尽くしそうなこれらは、ぜんぶ、ニュートのものなのだ!
「ほら、ニュート、どれがいい? これはな、有名な菓子職人とかいうやつので、見た目がきれい! で、これは俺が普段たまに食べるやつ。一応、……まあ、普通の板チョコと……こんなところか? どうだ?」
 きらきらと期待を込めた視線でプレゼントを見ているニュートに、ベーケス2世はうなずいた。
「……いいか、ニュート。念力というのはだな」
 ベーケス2世が指を振ると、チョコレートの包みがほどけて、一粒がふわふわと浮いていった。それで、ニュートの目の前に来る。
 そのまま口でぱくりとやろうとすると、チョコレートはつうっと逃げたのだった。
 ひどい。ニュートがベーケス2世をにらむと、ベーケス2世は、笑って人差し指で口の中に押し込み直してくれた。
「念力はな。つまるところ、思念だ。思う力だ。こう、意識を集中させて、念じてみるのだ、ニュート! とにかく、全身全霊で、そのことだけを考えるのだ。チョコレートのことを考えろ。そうしたら、いつか、マントがなくたって飛べるんだぞ、ニュート? ほら……ニュートが一番欲しいのはどれだ? ニュートは、どのチョコレートが好きなんだ?」
 ニュートが「えいっ」と思い切り念じてみると、ばさばさとベーケス2世のマントが揺れる。
「…………」
 気が散るので、視界に入らないでほしい。
「どうやら、お前は俺のことで頭がいっぱいみたいだなあー!」
 そんなことはない。
 ベーケス2世がふんっと笑った。
 念力……ではなくて手のひらで引き寄せられ、それから、ベーケス2世は額をコツンと合わせてきたのだが、ニュートは、心持ち強く押しのけておいた。
 キスのほうがいい。
 細い割には思いの外しっかりしていて、押しのけられやしなかったけれど。

2022.03.11

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