二行ぽっち

 それはまだ、ニュートが魔界に来たばかりのころ。まだ、魔界はもとより世界のことがぜんぜん分かっていなくて、それゆえに、世界はずっと単純だったころのはなしだ。
「うーん、ニュートちゃまにはちょおっと丈が……短い、かしら? 待ってくださいましね! ヒールのある靴と合わせてー…」
 ニュートがゾービナスと衣装を交換してはしゃいでいた。
 いいなあ、俺はずっとこの洋服だものなあ、と、ベーケス2世は廊下の椅子に寝っ転がってそれを見ている。
 ぱたぱたと駆けていく足音が聞こえる。けれども、ゾービナスが勢いよくドアを開けたときの振動なんかはまるでないから、やはりつまらん、と思うのだった。
 目を閉じてもあまり良いことはないので、ベーケス2世は、目を開けてニュートの動きを追った。
 待たされているあいだ……。ニュートは、ふと、机の上に置いてあったゾービナスのノートに気がついたようだ。ペンをもって近寄って、なにかさらさらと書き込んでいる。
 はてさて、一体何と書いたのだろうか?
 ベーケス2世はちょっと気になって、2人が去った後に衣装室に立ち寄った。
 読んでいいのか、とちょっと気がとがめたが、こんなところに置いておくやつが悪い。

『――――
――――』

「……読めん」
 見慣れない文字は、おそらくニュートの人間界の文字だろう。
 ちょっとしたイタズラのつもりらしい。
 果たしてたった二行ぐらいの、それが意味するところは一体何だろうか。
 好きとか? 愛してるとか?
 はたまた、……ゾンビに対する嘲りだったりするのであろうか。
「ニュートはそんな子じゃないよ?」
 不意にデビイに話しかけられ、ベーケス2世は、ぱっと身を離した。「当たり前だ」と返したが、心を読まれたようで薄気味悪い。
 ニュートが何を考えているのか、ベーケス2世にはさっぱりわからなかったから。

 一体何が書いてあったんだろうか……。
 あれから、ベーケス2世はずっと気になっていた。
 一緒に過ごすにつれて、ニュートのことが少しずつ分かってきたように思われる。思っていた以上に、なんというか、なかなか日当たりの良い性格をしている。
 たぶん、悪いことは書いてないだろう……。
 じゃあなんだ。やっぱり、好きとか? 愛してるとか?
 婚約者としては、それはちょっと面白くなかった。
「ま! わたしーのノートにラクガキ! しーてありますわー」
 ゾービナスがノートを眺めて、いぶかしんでいる。単純なゾンビ文字の中、ニュートの走り書きが埋もれている。ニュートはその頃、知らなかったのだ。魔界の文字のことも。ゾンビたちが使うゾンビ文字のことも……、ゾービナスが人間界の文字を読めないということも。
「なんでしょう? この模様」
 ゾービナスは、ニュートの書いた文字を、文字とも認識していないようだ。
 ベーケス2世はちょっと知りたかった。なんて書いてあるのか。だから、それとなく聞いてみた。
「ほら、なんて書いてあるか聞いてみたらどうだ? デビイとか……」
「うーん。いまはいいですー。あ! そうだ、ニュートちゃまに! リボン!」
 ゾービナスはつれない。ぱっとノートを放置して去って行ってしまう。ゾービナスはそのことをすっかり忘れてしまったようで、走り書きは埋もれる。
 知る機会はやってこないのだろうと思われた。ベーケス2世は文字らしきものの並びを暗記しようとして、やめた。
……誰か宛のメッセージがどうだなんて、知らない方がよいのかも、と。

 ベーケス2世は、ノートのことを、頭の片隅の引き出しに押し込めていた。それを引っ張り出す羽目になったのは、ウルハムのせいだ。
「ゾービナスが? 文字を?」
「うん。ゾンビ文字じゃなくて、魔界文字です。教えてますー」
 ウルハムは図体に似合わず、読書なんてのをするのだ。身体がデカい分、あきらかに普通じゃ多い量を一度に運ぶ。
「それで、今日は簡単な絵本をですね」
「忘れるだろう?」
「まあー、おんなじところばっかやってますね。はは……。でも、そのぶんビシバシ! 厳しく教えてますよー」
 無駄だよなあ、と、ベーケス2世は思った。三日、四日で全て忘れるゾンビにモノを教えるなんて、なんたる非効率だろうか。
「なんだ、にやにやして」
「2世から話しかけてくるの、珍しいですね」
「……」
 ベーケス2世は閉口した。こいつは自分が優位に立つ気配を察すると急にウキウキしだすのである。
「……ニュートが」
「あ、やっぱりニュート様関連」
「ゾービナスのノートに走り書きしてた。人間界の文字で……」
「へぇ。2世、気になるんですか?」
「読めないだろ、人間界の文字は。習ってるのは魔界文字なんだろ?」
「……まあ、そうですねー」

「これ、文章ですわ! 人間界の文章!」
 突然だった。ゾービナスがそんなことを言い出すものだから、ベーケス2世は驚いた。ノートを読んでいたゾービナスが急に、立ち上がったのだ。
 あれから、一ヶ月くらい経っている。
 まず、人間界の文字だって分かったのに驚いた。習っているのは魔界文字なのに……。
「うん。それに、ニュートちゃまの筆跡ですわ~」
「……なんて書いてあるんだ?」
「さあ~!? 読めませんもの! おほほ! 私、読書ってイヤ!」

「忘れないんでしょうね。根本的なところで……」
 同じような本をまたひょいひょいと持ち上げながら、ウルハムが言った。
「たまーに思うんですよね。忘れるっていってもさ、頭のどこかには残ってるんじゃないかって。思い出せないだけで」
「違わないだろう」
「かもしれませんけれど」
「教えてやらないのか?」
「辞書が使えますよ。使おうと思えば」
 ウルハムはさらっと言った。
「……」
「あのね。2世。文章っていうのはね、読まれる時があるもんです。タイミングっていうのかなあ。なんかね、読まれるべき時を待つっていうか。あとで読もうと思ってた本がね、でもずーっと忘れてた本が、すっと目に入るようなときがあるもんですよ」
 したり顔で頷くのが、まるで教師らしい様子で、しかもそれがなんだかサマになっている気がするので、ベーケス2世は若干癪だった。
「で、全部読みもしないくせに本を運んでるのか?」
「ははは。あ、2世ってどんな本を……」
 ウルハムを無視して、ベーケス2世は自分のための本を引っ張り出す。左から順番。読みたい本があるわけではない。
「……。2世も、お勉強します? 人間界の言葉ー」
「いらん」
「あ、そう……」
 先生面をしていたウルハムがちょっと露骨にがっかりした。
 忘れるのに。自分たちの思い出すらも危ういようなゾンビに、そんなものが分かる日が来るだろうか。

 ゾービナスのノートは日々増えて、ニュートの一文は途中に埋まってしまっている。ただの汚れと無視する日も多いのだった。
 惜しいときがあっても、それ以上進まない。何日経っても……。
 ただ、同じように悲鳴を上げる事がある。
「きゃあ! これ、文章ですわ! 人間界の文章!」
 そこまでが一週間前と同じ。
 でも、調べるまでにはいかないのだ。あとで調べよう、と決意しても、次の瞬間には忘れてしまうらしくって、どうにもそこから進まない。いつかは、読まれるべきときがくるとウルハムは言う。ベーケス2世は信じられなかった。不確かなものは何一つ。
「……」
『偶然にも』ぱさっとノートが落っこちる。ページがするすると開いていく。
「あれ? これ、何かしらー。ラクガキ? ううん、文字……! 文字ですわ!」
 そこまでは、五日前と同じだった。
「……」
「ええと、こういうときは」
 辞書を使え。
 言おうとして、やめる。念じるだけだ。それで諦めたのが昨日のことだ。けれども、今日はまたちょっと違う。念じたとおりに、ゾービナスは書棚をあさり始める。
 渡してやろうかな。ベーケス2世はちょっと思った。……でも、それは余計なことかな、と思うのだった。『文章っていうのはね、読まれる時があるもんです』。別にウルハムの言葉を真に受けたわけではないけれども。
 人間、の文字で指が止まった。
 お前だって、ゾンビだ。人間がきらいなくせに……。
 しかしゾービナスは迷わず辞書を抜き取った。
 真剣にノートとにらめっこして辞書を引く様子は真剣そのものだ。
 静かに、何やら書き写していた。
 しばらくすると、ゾービナスはぱっと顔を上げた。通り過ぎていくニュートに飛びつくのだった。
「ニュートちゃまー、私もうれしいです!!! わたしもー! ニュートちゃまに会えてうれしいです!」

 落っこちたノートを拾いながら、ベーケス2世は書き取られた文字をなぞる。辞書をめくって、答え合わせをする。そうしないとなんだか気になって仕方がなかった。

『会えてうれしいな!
これからよろしくね』

 ああ、なんて素っ気なくてつまらない一文だろう。時間を割く価値なんてちっともなかった。どうせこれだって、3、4日もすれば忘れるのに……。
 ため息が一つ。
 心の片隅で、ああ、いいなあ。よかったな、と思っている。

2021.03.28

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