おいしい血液

とりあえずベーケス2世呼び

「ニュート、そいつは血を吸うやつだぞ」
 魔界の植物は、ニュートにとっては不気味にうつるものらしかった。最初は中庭にやってきても立ちすくんでいるだけだったニュートのやつだったが、日に日におそれもうすれてきたらしい。口の形をした奇妙な花を興味津々にながめていたニュートは、即座に指を引っ込め、ベーケス2世のほうに避難してきた。
 コイツは、目の前に吸血鬼がいることを忘れているのではないか……。ベーケス2世は思ったが、口には出さなかった。そのときはまだベーケス2世は虚像の身で、ニュートの血を吸うなんてことはできなかった。……ニュートはそのことをまだ知らなかったけれど。

 ◆◆◆

「ほーら、ニュート、高い高ーい!」
 もう、ベーケス2世は虚像ではない。ニュートと真に結婚の約束を結び、魔界に戻ってきたのであった。
 ベーケス2世はニュートを抱え上げた。
 膝の下に手を差し込んで無理に持ちあげたから、重心のバランスを崩して、こちらに倒れてくるほかない。
 ニュートがじぶんの腕の中に降ってくる。何の迷いもなく、全身の体重を預けてくる。
 そのまま芝生に倒れこむと、青臭い草の匂いが鼻孔をくすぐる。
 ニュートはなんの危険も感じていないらしい。ベーケス2世は、「愚かだなあ」、と思うほか、上手い言葉を見つけることができなかった。ずっと愚かなままでいいのに、とも思った。
 名前を呼ぶと、ニュートはじっとベーケス2世をのぞきこんでくる。
「なんだ。もうおこちゃまじゃないって? わかってるよ。そんなこと。あれだけ小さかったニュートも、もうすぐ立派に魔界王だものなあ。それで……俺と結婚するんだものな……。なあ、もうすぐ大人のニュートはどんな遊びをするんだ? 何がしたい?」
 頬をつつきながらちょっとからかってやると、ニュートの頬にはさっと赤みがさした。皮膚の下で、血液が流れている。……喉が鳴った。
「お前は羽のように軽いなあ。で……ニュート……ちょっと俺に教えてほしいんだが……ニュート、お前、実際のところ、体重はどのくらいある?」
 ニュートは怒って、そんなの教えられない! と、ベーケス2世のゆるい拘束を押しのけようとした。
 けれども、それでもちっとも本気ではない。少し力を入れて抱きしめるだけで捕まえたままでいられるのだった。
「なあ、ニュート。俺はぜんぶ知りたいんだ。ニュートのことならなんでも知りたい。ずっと、十五年間ずーっとニュートのことだけ考えてたんだ。いいだろ、ニュート。誰にも言わないから……な?」
 辛抱強くニュートを口説いていると、根負けしたニュートがそっーと耳打ちしてくれた。
「そうか~!」
 ベーケス2世はにこにこしながら、数字を頭の中で繰り返す。
「……そうかあ、うん!」
 ニュートが不思議そうな顔をしている。ベーケス2世はそっとニュートの手を取ると牙を突き立てた。
 あたたかい血液が喉を潤していく。
 ニュートの血は、この上なく甘い……。
 ニュートは無種族だから、身体のつくりは人とそう大差はない。人の血液は、一説によると体重の十二分の一~十四分の一ほどだ。そこから安全に飲めるのがどのくらいかというと……。
 つまり、ベーケス2世は、体重どうこうよりもニュートから何口飲んでも大丈夫かを知りたかった。もちろん、空っぽにするはずもないのだが、ちゃんと底があるということを数えておくと、少しは冷静になれる気がしたのだ。ニュートには限りがある。そこまで飲んだらおしまいだ。はっきりしたおそれは、いくらかは沸騰する頭は冷える。
 一口、二口……。
 いずれにせよ今日はここまで、と決めていて、ベーケス2世は、ニュートの二の腕から牙を引っこ抜いた。離れるまでは心臓の音が近かったのに、そういうことには離れてから音が遠ざかったことで気がつく。
「ニュート……。痛くないか?」
 ぽけーっとしていたニュートは、ねむそうに、だいじょうぶ、と答える。ハンカチで押さえてやると、ニュートは美味しかったか聞いた。なんと言ったらいいものか迷う。それから無邪気に言うのだ、これで足りるのかと。
 答えられない。
 このままだと、本気でニュートを吸血鬼にする前に、喰い殺しかねない……。

 ◆◆◆

 ベーケス2世だって、本当は、ニュートから血をもらうつもりはなかった。
 ニュートが懲りずに魔界の植物に近づいて、転んで、茨にひっかかって膝をすりむいて――。
 ケガ自体は大したことはなかったのだが、真っ赤な血がぱたぱたと散ったのが目に焼き付いていた。気がついたら、ベーケス2世はニュートに口をつけて、血を貪っていたのだった。
 念力で支えるのが間に合わなくて、それで――それで。我に返ると、たっぷり血を飲んだあとだった。
 ちゃんと、助けてやろうと思っていたのに。
 あたりには鮮血がわずかに散っていた。太ももには、余計な牙の跡がある。慌ててニュートを揺さぶり起こすと、ニュートはこともなげに起きた。
 もういいのかと尋ねてきて、またどうしようもなくなった。再び傷口に口をつける。
――ニュートの血は、やたら美味しかった。
 あのときは、腹が空いていた。
 魔界に戻ってきてから、ニュートと実体で一緒にいられるのが嬉しくて仕方なかった。食事の時間すら惜しみ、いられる限りはずっと一緒にいたかった。ニュートの前で血を飲むのはなんだか気が引けた。ニュートがもうすっかり魔界になじんでいて、さしてびっくりしないとしても、だ。
 けれども、一度味を知ってしまってからは、どんなに腹を満たしておいてもだめだった。飲んでおけばちょっとはマシにはなるが、こらえきれない衝動が喉を枯らし、何を飲んでも満たされない。気がつけばニュートを言いくるめて、強引に口をつけているのだった。
 ニュートがケガをした時の感情は鮮やかに覚えている。
 真っ赤な血がぱたぱたと散っているのを見て、ベーケス2世は憤りに駆られた。地面に散る血を見て怒りを覚えた。
 けれど、ニュートが心配だったからではないのだ。
「あれは俺のだ」と思ったのだった。
 何度もニュートを喰らう夢を見てうなされるし、寝なくてもあの味ばかり反芻している。
 ベーケス2世は、とりあえず、開き直ってニュートからちまちま吸血することにしたのだった。
 これは、今のところ上手くいっている。
「ニュート、ご飯は? ……もう食べたか? まだか? まだなら何か腹に入れておいてほしいんだが……」
 厨房で受け取った焼きたての菓子を持って、ニュートの部屋を訪れる。ニュートは菓子に喜んで、それから、ふわふわ視線をさまよわせて、恥ずかしそうにうなずいた。
 血をもらうなら、ちゃんと食べてもらってからのほうがいい。しっかり食事をとったか確認するのが、「血をもらっていいか」という合図になりつつある。
 なんだか食べ物で釣っているようで後ろめたくなった。
「……別に俺はニュートの血が目当てってわけじゃないんだぞ! ただ……ただ一緒にいるとどうしても……腹が空いて……」
 ちょっと悩んだりためらったりしつつも最終的にはおとなしく言うことを聞くニュートの様子は、正直いってたまらなかった。
 いや、でも、もうちょっと抵抗してくれたらいいのに、とも、ベーケス2世は思うのだった。
 あの時、無理やり血を吸ってしまったとき、起きたニュートと目が合って、嫌われたかと思ったとき、本当に血の凍るような寒さを感じた。泣いてくれたら。もしも泣いてくれたら……嫌がってくれたら、たぶんできないのに。そうしたら、棺に引っ込んでいられるのに……。
 いられるだろうか? でも泣かせるよりはいい……。
 二の腕から口を離すと、刺さった牙が名残惜しそうにゆっくり抜ける。へこんだ皮膚が、弾力でゆっくり元に戻っていく。指の腹でさすると色が戻ってきた。
「ニュート、お前は……泣かないんだなあ」
 ニュートは目をつむっていて、もう終わったかと聞いた。
 ニュートは基本的には弱虫で、転んだだけですぐ泣くようなやつだ。それなのによくつきあってくれるものだ。内心はいやがってないのだろうか? 人間はこんなことしないと思っていやしないだろうか。
 もう一口飲みたい、と、心の中では物足りなさを感じながらも、ベーケス2世はこらえて袖のボタンを留めてやった。
「ニュート、さいきんこの服をよく着てるよなあ。……。……」
 気がつかなきゃよかった。
 よく思い返してみたら、ニュートは、吸血されやすいような服を着ている。袖が膨らんでいてまくりやすかったり、噛みあとをちゃんと隠せるようなものを羽織っていたりするのだった。さすがに都合よく考えすぎだろうかと思ったら、ニュートがなぜか言葉に詰まってそっぽを向いていた。
 不意に、手順をすっとばして、このまま首筋に噛みついて吸血鬼にしたくなった。
 ベーケス2世はニュートに水の入ったコップを渡す。ニュートの細い喉が水をこくこく素直に飲み干す。
 椅子に腰掛けて、ベーケス2世はニュートがコップをからにするのを見ていた。
 自分に悪意があったらコイツは何回死んでるだろう。想像の上で何回か殺している……。
「本当はな、ニュート。何があるかわからないから……父上には、式まではあんまり会うなと言われてるんだ。本当は、……本当は会わん方がいいんだろうけどなあ……」
 でも、一緒にいたいのだ。いくら会っても満足することがない。ずっと足りない。
 しおらしくうなだれたニュートは、わかった、と静かに言った。あまりにあっさりしていたので、身勝手ながら腹が立った。その程度か! ああ、噛みついてやりたい―と思ってどのみち頭が沸騰するとそういうことばかりになる。
 わかった。夜、部屋の窓の鍵を開けておくから。
 ニュートが言った。話がなんにもつながっていない。
 しかし、じぶんのほうも「おう……」と返してしまっていたのだった。

 ◆◆◆

 ベーケス2世はもうあきらめた。腹をくくることにしたのだった。
 自分が呼んだら、ニュートはぜったいにこっちに来てしまう。もうこれは仕方ないものとして……。それで、自分もニュートが欲しい。
 ……どうしようもない。
「……ニュート、渡したいものがあるんだが……」
 ベーケス2世はいったん席を外して、荷物を抱えて戻ってきた。厳重にシーツに包んでぐるぐる巻きにしたそれを、念力でぽいっとぶん投げた。ニュートにこれなに、と聞かれる前に、ぱーっと退散するのだった。
(まあ、今夜は大丈夫だろう……)
 こんなときに備えて、ベーケス2世は一計を案じていた。ニュートに投げて渡したのは十字架だった。吸血鬼にとってはいやなものである。死ぬほど憎いし触りたくはないが、アレさえ渡しておけば、とにかく勢いあまって喰い殺してしまうことはないはずだ。
 吸血鬼の能力を封じられてしまえば、吸血したくなることもない……と思う。こちらからしたら抵抗する手段がなくなるわけで、どんなことをされるか不安ではあるが、相手はニュートだし。ちょっとなぶられたところでせいぜいニュートだ。……たかがしれている。
 たかだかニュートだし。
 ただ、空を飛べなくなって落っこちても無様なので、窓にはかけるなとは言ってあった。

 ニュートの部屋の窓をノックすると、すぐに窓は開いて、ベーケス2世はまとわりつく風と一緒に、部屋に勢いよく部屋に招かれた。
「ニュート、お前なあ……そうやってすぐ鍵を開けるもんじゃないぞ……俺だからよいけどな!」
 本当に、いつも、誰かにとられてしまうんじゃないかと気が気ではない。でも、それも今日だけは考えなくていい!
 2世だ、と、ベーケス2世だ、とニュートは嬉しそうに言って抱きついてくる。
 寝る支度をしているから、ニュートは当然のように薄着だった。むき出しの鎖骨に喉が鳴った。おいでおいで、とニュートが広いベッドの横を叩いて、隣に来るように促していて、ちょっと気が抜けた。悩みなんてないような憎らしい顔だ。ベーケス2世は上着を脱いで招待にあずかる。手のひらを握りこまれて、薄い袖の上から、治りかけの浅い牙の跡が見えた。
 腹はじゅうぶんに満たしてきたのにまだ足りない。
 でも、今日はアレがある。口に出すにもおぞましいアレが。
――アレがあれば、ほんとうは血は欲しくないのだと証明できる。
 わざわざ顔を見つけて会いに行くのも、一緒にいたいだけだとちゃんと示せる。
 不愉快極まりなくはあるのだが、アレのせいでちょっと気分が悪くなってもいい。何も考えずに、ただ一緒にいたい。ニュートのいうようにオヤスミのキスとやらをしてやって、血なんてくれなくても、わがままを何でもかなえてやるのだ。手をつないで寝て、それで、ニュートより後に寝るのだ。昔みたいに、蹴りだした毛布をかけなおしてやりたい。それでもって、それでもって、明日は起きたら一番にニュートの顔を見るのだ。
「ニュート、……ニュート、昼間渡したアレは持ってるよな?」
 考えただけで寒気がする。ベーケス2世はぶるりと震えた。
 ニュートはにっこり笑って言うのだ。
――中身間違ってたみたいだったから捨てた。
「ニュート、馬鹿! お前……馬鹿! ニュート……お前~~~~!」
 吸血鬼の悲鳴など意にも介さず、ニュートは恋人を抱きしめるのだった……。

 ◆◆◆

 無事に婚約式が執り行われたのであるから、ニュートは死ななかったということになる。
 ベーケス2世は婚約式の間、ちっとも嬉しそうな顔をしていなかったような気がする。緊張していたんだろうか……、と、ニュートはくらくらした頭で思っていた。何度かもう血はあげたはずなのに。
 差し出した首筋は、痺れるように痛かった。とはいえ、自分で望んだことなので後悔はない。
 ベーケス2世が部屋から使用人を追い出し……、とたん、ぱたんとひとりでに扉が閉まった。それは別に不思議ではないが、なんだろう、と目線をやった隙に、ニュートはひょいと抱き上げられた。
「やっ、た~~~~~~!」
 ベーケス2世はニュートを持ち上げると、そのままくるくる回っていた。
「ははは。やった! ついに俺はニュートと結婚したぞ! やった! やった、はははは……」
 伴侶は静かに喜んでいたらしかった。
 ざまあみろ、だとか、なかなか物騒なことを言いながら、ベーケス2世はニュートを放り投げた。ニュートが厳粛に抗議すると、ニイっと笑った。ニュートのよく知っている、ニコニコのベーケス2世。
 ベーケス2世はニュートを器用にもベッドにぽーんと放り投げ、それから自分も飛びこんできた。ベーケス2世の両手がニュートの頬を包む。ニュートはまたしてもしずしずと遺憾の意を伝えたが、ベーケス2世はニュートをかえりみなかった。
「ニュート! ニュート、ああー俺はニュートに選ばれたんだ。ニュートと結婚したんだなあ。なあ、ニュート、俺に牙を見せておくれ! 吸血鬼の牙を……」
 ベーケス2世はニュートのほっぺに親指を挟んでひっかけてきた。それからきらきらした目でじいっと見入っている。うんうん、と数えていて、「もっととがってくるのはまだまだこれからかな!」と言う……ちょっとやめて欲しかったが、声を出すにもこの状態だとかなりつらいのだ。 そのときだった。
 不意に、口の中に鉄さびの味が広がった。ニュートの牙がぷつっと皮膚を裂く感触があった。ニュートの牙に、ベーケス2世が指を押しつけたのだ。ニュートは驚いてやめようとしたが、そのまま固定されて牙が沈んでいく。このまま喋ると深々と刺さってしまう……。ニュートにできることといえば、困惑した目で伴侶を見るくらいだった。やめて、と目で訴えると、ベーケス2世はにっこり笑った。分かってくれていないのかもしれない。
「なあ、ニュート、吸血鬼の血は美味しくはないだろう? 俺たちはもう仲間だから、血を分け合った家族だから……、俺の血はお前には美味しくはないんだよ。ははは。とはいえ、これからのコトを考えたら、血には慣れておかないとな……」
 ベーケス2世は、ぽたぽたと口の中に血だまりを作ってから指を引っこ抜く。そのまま滑っていった指先が血の跡を残しながらニュートの唇をなぞった。
 飲め、と、口の動きだけでベーケス2世は命じた。ニュートは涙目で首を横に振った。
 いらない。
 血は、ほんとうにほとんど味がしなかったし、むしろ苦いくらいで、飲みたいものではない。けれども顎を持ち上げられて鼻をつままれると、息ができずに飲むしかなかった。
 美味しくない。苦い。
 ニュートの感想に、ベーケス2世はにっこり笑った。
 ひどい、あんまりだ。
 ニュートがつい威厳を忘れていつものように抗議すると、ベーケス2世は目だけで笑って、こんどはちゃんとチョコレートをくれた。それがとびきり美味しかったので、ニュートはちょっと許してやるか……という気持ちになりかける。気持ちになりかけただけでじっさい許したわけではない。そこのところを間違えないで欲しい……とチョコレートを味わいながら念を押すと、「わかったわかった」とテキトーな返事が返ってきた。
「ごめんな、ニュート。お前が俺に牙を許してくれたように、俺もお前のイチバンがよかったんだ。お前の吸血鬼としての、イチバン最初の……ああ、でも、まずかったよなあ。ニュート。最初の食事が美味しいものじゃなくて悪かった。これからはその牙でちゃんと、食うことになれないとならない……。だが、心配するな! ニュートが狩りをする必要はない。これからずっとお前の口に入る血は俺が用意してやる。いろいろあるぞ……! いろいろ用意させような……まずはなにから……」
 ケガの手当が先だ。
 ニュートはベーケス2世の手をつかむと、手当のために布を押し当ててやった。
 わざとケガをして喜ぶくらい、虚像じゃないのが嬉しいのか。
 ニュートが呆れていると、別にお前ほどは痛くはないよ、と、ベーケス2世は言うのだった。
「お前には分からんだろうな。ニュート。俺はお前が吸血鬼になっても、まだ、ちゃんと触りたいと思ってるんだ。魔界王の伴侶になってもちゃんと触りたいと思っている。今だってこうして……」
 言っていることがよくわからなくて、ニュートは首をかしげる。
「なあ、ニュート。わからないか? 俺はな、お前を食べたいと思ってたわけじゃないんだ……! ニュート、俺はずっとニュートが好きだったんだ。ちゃんと、ちゃんと……獲物じゃないニュートが好きだったんだ。ああ、もう、俺は、お前の持っているものはなにもかも欲しくはないよ。全部貰ってしまったから。でも、一緒にいる……一緒にいるんだ。これからはずっと……一緒にいような」
 ベーケス2世は、ニュートの首筋にキスを落とした。今度のは牙を伴わない、唇がかすめていくだけのものだ。噛み跡をついばまれ、くすぐったいよ、とニュートは困って、たぶん彼も笑い返してくれるはずだったのだが、不意に動きが止まった。冥界の底から、呻くような声が聞こえた。
「……なぜだ? 魔女一族の生まれだからか?」
 ニュートが聞き返すと、ベーケス2世は「なんでもない」と笑った。いつも通りの笑みだった。けれどもベーケス2世は、自分の牙で自分の手首を裂いた。それからニュートの口を塞いだ。
 先ほどとは比べものにならないくらいの勢いだったので、とっさに払いのけようとしたが、ベーケス2世は血液を口に含むと、こんどは雛鳥に与えるように優しく口移ししてくるのだった。
「もっと交じれば、そのうちちゃんと同じになるだろ。俺はニュートを……ちゃんと……愛していて、だから……」
 差し出された傷跡は、目に見えて痛々しいものだった。どうしてわざとにケガをするのか、とニュートはベーケス2世を睨んだ。ベーケス2世はそれに答えずに、やはりにっこり笑って言うのだった。
「ニュート、お前の血を誰にもやるなよ?」

 ◆◆◆

 現魔界王の「血」はきわめて厳重に管理されている。
 それはもちろん、血筋のことも含むのだが、物理的に身体を流れる血液についても、異例の厳しさで扱われていた。
 現魔界王の身体に一筋でも傷をつけたらもちろん処刑ものだが、なぜだか、血についても厳重に管理されているのだ。その血を拭った布でさえも、きちんと取り扱わなくてはならない。何人かの立ち合いのもとに燃やし、吸血鬼の長に残らず報告しなくてはならない。
 このことによって、まことしやかにささやかれているひとつの噂があった。
 つまり、現魔界王の血はとんでもなく美味しいんじゃないか――と。
 もっともらしいウワサだが、そんなことは、ない。
 これはとある消息筋から仕入れた情報であるが、「転んですりむいたときに膝を舐めたことがあるが、とくに甘くはなかった」ということである。……どうなればそういう状況が生じるのかについては不明だが、少なくとも内容は確かだと思われる……。
 おそらくは希少価値のある生物の、どのくらいしかとれない部位、みたいなところから生じたウワサであるのだろう。無種族の血は無種族の血であって、吸血鬼になったからといっても、さしたる違いはない。
 全く、「普通」である。
 真実を知る者は、ほかにも何人かいるのだ。そう申し上げようものなら、口にしたことがバレるために、誰も言えないでいる。
 それにしてもなぜ、ベーケスの長はそこまで厳重に血液を管理しているのか……。それについては、今後の調査が待たれるところである。

2022.06.17

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