ショートコント:知らない人たち

*実ベーケス2世
*バス……あるんだろうか……。

 勢いよく自転車をこぐ。耳のそばをつっきる風がぴゅうぴゅうと音を立てている。実に気持ちの良い日だった。ニュートの家の近くのゆるやかな坂は、行くときはおっくうではあるけれど、帰り道は爽快だ。ペダルをこがなくても、風がどこまでも先へと運んでくれる。
「ニュート。ちょっと眠そうだね?」
 デビイに言われて、ニュートは自転車のハンドルを握り直す。さいきんは、夜中に聞こえる謎の声で寝不足気味なのだった。それにこの前は起きたら部屋に赤い扉まであって……あるような夢を見て……。
 そのときだ。
 角を曲がったところで、デビイが何か言った。
 ニュートが「あ」と思ったときには、自転車の車輪が空き缶を踏みつけ、滑ったタイヤが横に逸れる。空中でひっくり返ったニュートは、自分の身体が投げ出される感触を味わっていた。

***

 ぼんやりとした意識の中、ゆっくりと目を開ける。
 視界に飛び込んできたのは、白い天井だ。
 どうやら、ここは病院で、事故に遭ったらしい……と、ニュートはおぼろげに記憶をたぐり寄せる。というか、たんに自転車でコケただけなんだけれども……。
「ニュート!」
「ニュートちゃま!」
 ベッドのわきにいた二人が、同時にギュッとニュートの手を握りしめる。片方は左手を、片方は右手を。
 ニュートはひどく困惑した。
「ニュート! 心配したぞ! 俺の婚約者が……事故に遭ったと聞いてな。いてもたってもいられず、駆けつけてきたのだ! ああ、無事でよかった」
「そうですわよ! ニュートちゃま! わたしたち、とお~~~~っても、心配しましたのよ!」
 片方は赤いマントを羽織った男の人である。オールバックの髪の毛をしっかり撫でつけている。
 もう片方は、……とても可愛い女の子だった。ふわっとしたウェーブのかかった金髪。動くたびに、ふわりと甘い匂いがした。
 けれども……。
 誰なのだろうか、この人たちは。
 ニュートの困惑を察してか、二人は同時に息を呑んだ。
「そんな! ニュートちゃま。もしかして」
「記憶喪失……なのか!? 事故のせいで?」
 ……?
 そうなのかな……。
 婚約者だなんて、ニュートには全く覚えがないのだった。

 いや、記憶ははっきりしている……ような気がするのだけれども。うーん、いや、でも、どうなんだろうか……。
 でもなんか、ええ? そうなんだろうか?
 お医者さんも、困惑していた。「どちらが婚約者の方なんですか?」という医師の言葉に、二人は、「どーっちも」、と声をそろえてにっこり笑った。ええ……? と困惑するお医者さんと一緒に、ニュートも首を傾げた。
「で、……ニュート。どっちと結婚する? いいか、ニュート、結婚はひとりとしかできないんだ」
 どちらと言われても……。
 誰なのか、分からない。
 ニュートが答えると、スーツの男は心底悔しそうな顔をする。
「なんだと!? くそっ、記憶喪失のせいで……」
 記憶喪失のせいなのだろうか?
 残念ながら、記憶が失われているかどうかは記憶が失われている本人にはわからない。あるものはいいが、ないものは証明できない。悪魔の証明である。頭を打って記憶がすっぱ抜けたと言われれば、「そういうことも、あるかもね」と思うしかないのだ。
「そうだ、ニュートちゃま。これをご覧になってくださいまし!」
 女の子がぱっとノートを広げた。そこには見慣れない文字が並んでいる。
「これはー、お人形遊びしたときでー、ニュートちゃまと一緒に、おそろいのドレスを着て……」
「抜け駆けはずるいぞ! ゾービナス。思い出せ、ニュート。お前がまだよちよち歩いてた頃、結婚の約束をしただろう!? ほら、棺桶もあるんだ……」
 棺桶?
 ニュートが床をみると、なにやら立派な棺桶が床に寝そべっていた。見舞いの花を持たされたニュートは、「いいからちょっと寝てみるんだ」とおそろしいことを言われた。病院から、埋葬まで一直線である。
 助けて欲しい。医者の様子をうかがい見ると、医者は不自然に虚空を見つめていた。男に睨まれると、身動きがとれないようなのだ。
「あ、ちょっと、ベーケスったら!」
「どうだ。思い出したか?」
 男が指を振ると、あっという間にニュートは棺桶の中だ。ぎい……と、棺桶の扉が閉まりかける。押し込められて怖かったが、やたら寝心地は良い。
「ベーケス! ニュートちゃまに乱暴するなですわ」
「ぎゃあぎゃあうるさい。で、ニュート、思い出したか?」
 何を? というのが正直なところだ。
「ニュートっ! ニュートったら! ……あれ、何してるの?」
 病室に飛び込んできたのは、ちゃんと覚えがある幼なじみだった。ニュートは泣きたくなるほど安心した。そして、いや、何をしているんだろう、と、ニュートは自分でも思った。初対面の男に棺桶に押し込められているのだ。
「ニュート。心配したんだよ。とってもとっても、心配したんだよ! ああ、よかった、ケガが大したことなくて」
 ……。
 自分が自転車でこけて、デビイが助けようとしたところで……。飛び込んできた幼なじみがバスに轢かれそうになっていた気がしたのだが、気のせいだったのだろう。
 デビイは傷一つ負っていない。
「……? ニュート? この人たちは?」
 知らない、とニュートは答えると、二人がいっせいに抗議の声を上げる。
「あ、そうなんだ?」

「ちょっと、2世! ゾービナス! って、何してるんですか? 病院では静かにしないと……っ!」
 昔の思い出やニュートの扱いやらで言い争いが始まり、収集がつかなくなってきた頃である。続いてまた現れたのは、やっぱり見覚えのない人物だった。大きな身体を丸めている、ちょっと気弱そうな男である。じぶんは、うっかりこの人のことも忘れてしまったんだろうか……。
「いやいや、はじめまして。ですよ。ええとー……こんにちは」
 こっちのお兄さんは、腰をかがめて、ニュートに目線を合わせてくれた。それからへらっと笑った。良かった、話が通じそうな人だ、とニュートはちょっと安心した。
「ふんだ。人間のルールなんて知りませんもーん」
「そうだ。ウルハム……。俺も従う気はないな」
「……。あのう、どこまで聞いてます……?」
 婚約者だって聞いたけど、知らない人で……。
 そう言うと、ウルハムと呼ばれたお兄さんホンキで気の毒そうな顔をした。
「ええとですね。ニュート様を連れて行かなきゃいけないっていうか……ニュート様のお父上がー、呼んでいるんです……つまりその、実の、っていうか……」
 父が?
「ニュート、お父さん、いたの?」
 デビイが目を丸くする。
 ニュートの暮らしているのは、ほんとうの家族ではないのだ。……でも、ニュートは養い親に、ほんとうの両親のことは聞いていなかった。
「うーん。肉親が事故に遭ったって言って、誘拐する例はあるけどさ。事故に遭った方を連れていくのは聞いたことないなあ……」
「すっごく詐欺っぽい……ですよねー。ええと。その気持ちはすごくわかるんですけど、とりあえず来てもらえないかな、と思うんですけど……」
 ニュートはちょっと考えたが、頷くことにした。
「え、いいんですか!?」
「え。行くの、ニュート?」
「だよな!」
「ですわよね!」
 と、両側からがっしり掴まれる。
「ニュートったら、ホンキ?」
 怖かったが、ほんとうの両親にはちょっと会いたい。
 それに、この人は、そう悪い人には見えない……。
「よ、よかったあー! さすがに誘拐とか、ねえ……。僕もいやですし……」
 断ってたら誘拐されていたのか?
 遅まきながら、ニュートのアンテナに何かが引っかかった気がする。でも、もう、遅かった。
「……ううん、人には見えないっていうか。なんていうか……あはは」
 小脇に抱えられながら、ニュートは自分の判断に疑問を持ち始めていた。後ろでは自称婚約者二人がぎゃあぎゃあとわめいている。
「……ニュート、誘拐されやすすぎない? なんかもう。うん、ぼく、ニュートがしんぱーい」
「あの、ニュート様だけでいいんですけど……」
「いいからいいから、気にしないで」
 と、デビイは、とうぜんの調子でついてくるようだったので、ニュートはほっとした。

 それから、ニュートがほんとうは無種族なんだとか、次期魔界王だとか判明するのはまた別の話である。

2022.03.14

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