ニュートが血を飲まない

*ジャンタンと話してるベーケス2世
*しんみりしたやつ

 足の踏み場もないほどにごろごろと地下工房に転がっていたパンプキンの数は、ずいぶんと数を減らしていた。もう魔界はすっかり元通りで、新しくランタンを作らなくても良くなったからだ。
 長かったジャンタンの服役はようやく終わりが見えてきた。

 薄明るく辺りを照らす魔界の石炭は、新たな魔界王であるニュートが作り出したものだ。長く工房に閉じこもり、ランタンを作っていたジャンタンには、よく見ると魔界の石炭の差異が分かる。
 前の魔界王のは、形が一定でで有無を言わせぬ風合いを保っていたけれど、ニュートのは、明るくて優しい光である。それで、ちょっとばかりムラッ気がある……。形もあまり均質じゃない。
 果たしてこれから上達するのか、それともずっとこのまんまなのか。残念ながら、ジャンタンには知る術はない。もう二度と、魔界にはやってはこないだろうから。
 フランコールが用意してくれるランタンを持ち、ジャンタンはこれから死海に向かうのだ。
 あの鬼畜王め。何が「救い出して天界に送ってくれる」だよ、自分でやれってことじゃないか……。
 そうは思いながらも、父親に会える喜びで心は弾んでいる。
 会えるだろうか。大丈夫、きっと上手くいく……。
 自分に言い聞かせながら、さいごの仕上げに、工房を見回す。パンプキンが片付くと、こんなに広かったっけ、と改めて思う。部屋の隅っこに転がった、役に立たない石炭の欠片。まだ上手に出来ていない失敗作の欠片。ジャンタンは、ガラス玉と一緒にそっとポケットに忍ばせた。持ち物といったらこれくらい。長いこと過ごしたはずであるのに、本当に持っていきたいものなんて、魔界には数えるくらいしかない。
 魔界には似つかわしくない赤子の泣き声で、不意にジャンタンの荷造りは止まった。カツカツと誰かが降りてくる。新しい吸血鬼の長。ジャンタンにとっては、あまり会いたくない相手だった。
「……それ、どっからさらってきたんですか」
「知らん」
 新たな吸血鬼の長は、赤子を抱えていた。
 そして、心底うんざりしたような顔をしていた。
「俺の子じゃない……」
 ランタンの明かりが揺れていて、地下工房に音もなく長い影が伸びる。
 見送りに来たというのだろうか? いや、まさか。
 ベーケス2世(……今は1世か?)の赤子の支えはなかなか危うく、ジャンタンもさすがに口を出そうと思ったのだが、どうも器用に念力で支えているようだった。わりに上手にあやす姿に、ニュートの世話をしていたというのは本当だったのか、と驚いた。
 いったい、なんで吸血鬼の長が自らこんなことをしているのか……。聞くべきか。聞いたところで、何になるのか。ジャンタンは、これから魔界を去るところだ。
 しかし、ジャンタンが思ったのと真逆に、もういなくなる相手であることが、彼にとっては内心を吐露する理由になったのだろうか。吸血鬼はぞんざいに机に腰掛けると、不意に口を開くのだった。
「ニュートが……血液を飲まん。人間の乳ならなんとか飲むから、人間界から乳母を連れてきてる。ったく、子どもを育ててるんでもないのにな。ああまったく、15年前に逆戻りだ」
「そいつ……さらってきてるの?」
「いや?」
 ベーケス2世の顔に、ニヤリと笑みが浮かんだ。意地悪そうな笑みだった。
「それがちゃあんと、雇ってるのさ! 給金を出して。女の方は何も知らん。ここが魔界だということもな。そうでもしないと……たぶん、ニュートは、乳すらも飲まなくなるからな。はははは!」
「……」
「いろいろ試してみたが。人間の血だけ……人間の血だけ飲むんだ。大蛇の生き血も、青血のジュースも、色々試したんだがな。少しずつ舐めさせて、……。ニュートはどれも生臭くて飲めない、と言って……。手当たり次第に持ってこさせて。これが美味しいと、飲めるというので、確かめたら、そいつが人間の血だったんだなあ。そうしたら、給仕が『生きの良い人間の5年もの』なんて抜かすものだから、ニュートは吐き出して、あっという間にそれからなーんにも飲まなくなった。ったく……」
「それで吸血鬼の長が子守してるわけ……ですか?」
「『生きのいい赤子なら食うかも』、ということにしてある。ああ全く、ニュートには聞かせられん」
「赤ん坊だって、他の誰かに世話させたらいいんじゃない……」
「魔界で部屋に赤子なんて連れてみろ。あっという間に喰われるぞ」
 ニュートとジャンタンは、婚約式の日以来顔を合わせていない。それも、ジャンタンは隅っこからちょっと覗いていただけだった。
「ニュート様、ずっとごはん、食べてないんですか? 血がだめだから?」
「それで生きていけるわけはないだろう? ちょっとずつ……チョコレートに血を混ぜて、こっそり喰わせてやってるのさ」
「……」
 ぽーんと高い高いで放り出された赤子が、状況を知らずにけたけた笑っている。図太い。ニュート様と同じくらい図太いかもしれない。ジャンタンは思った。
「ああ……人間だって人間を喰うのに。どうして血はダメなんだ? じゃあなぜ人間は乳を飲む……生まれたときから共食いしているくせに、どうして血となると、ダメになる? 何がいけないってんだ。なあ?」
 よくないことだから。反射的に思ったけれど、ジャンタンは返答に迷った。
 ケガしてる人がいるから……。苦しむ人がいるから。
 でも、それなら人じゃない生き物の苦痛はどうなるのだろう? 牛や豚は?
 それに、例えば進んで「飲んで下さい」と言われて血を貰ったところで、飲みたくはない。
 魔物というのが、罪深いものなのだろうか……。それとも、吸血鬼という生き物が邪悪なのだろうか。頭の良い父さんなら分かるんだろうか。
「……わかんない」
「あいつが血を吐き戻したとき、心臓に悪かった。まるで、まるで……」

 不意に、背筋が冷えるような何かを向けられたのを察して、ジャンタンは息を呑んだ。
 ぴたっと、時が止まったかのようにしんとなった。動いているのは赤ん坊だけだ。どうしたの、というふうにベーケス2世を見ている。指を振ると、作業のために置いてあったナイフが持ち上がる。

「お前は人間だったな、ジャンタン。仲の良い人間の血だったら、あいつも飲むだろうか。飲めるだろうか」
「……」
「それとも、どう思う? 今、俺がお前を殺して、ニュートに喰わせたら。あいつは人に戻ると思うか?」
「……別に、牛を食べたからって牛になるわけじゃないでしょ。あと、僕が死んだら、ニュート様泣きますからね」
「ニュートには帰ったって言うさ」
「ニュート様は、そっちの人になるんでしょ。っていうか、なったっていうか……。……たぶん、ちゃんと、ご飯を食べないとダメですよ」
「……」

 ナイフがからん、と床に落っこちた。
 おっかないのは確かだったが、赤子を持ってすごまれてもな、とジャンタンは思った。図太くなったのだ、自分も。
 ジャンタン、と上からフランコールが呼ぶ声が聞こえる。

「そうだ、僕、そろそろ行かなきゃ」
「いいのか。ニュートに顔を見せていかないのか?」
「ううん。会わないでいくつもりでしたし……そっちから言っておいてよ。ずっと元気でねって」
「……ニュートがもう魔物だから会いたくないのか?」
「違うよ! 決心が鈍っちゃうかもしれないからだよ! だって……」
「……」
 ベーケス2世はじろじろとジャンタンの姿を上から下までにらみつける。それから、露骨に顔をしかめる。ジャンタンの背はずいぶんと伸びるだろう……。
「……やっぱり、会うな。二度と会うな。ニュートに顔を見せるな。そのまま回れ右して帰れ」
「言われなくてもそうするのに。もう、ニュート様を吸血鬼にまでしておいて、よく言うよ……。ねぇ、僕吸血鬼にならないかって言われたら、ゴメンです。死んでも無理だし、ぜーったいヤダね」
 最後だからと言い捨てられた言葉を飲み込むのに時間を要した。ジャンタンはそのすきに、光の方に向かって、地下室を駆け上がっていく。
「……お前、人間の分際で態度までデカくなってないか?」
「ニュート様、ごはん、食べられるようになるといいですねっ!」
 ベーケス2世は何も言わなかった。代わりに、腕の中で赤子が手を振っていた。ばいばい、と。

2022.04.12

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