磯井麗慈は何故映画館のアンケートなどという退屈なものを記入し、提出しようという気になったのか

「おわったー……」
 音羽探偵事務所にて。
 報告書をまとめ終えた阿藤春樹は、ぐいと天井に向かって背を伸ばした。正確には、このあとドキュメントを見直して提出という工程があるのだが、一段落はついたところだ。
 壁に掛かった時計を見上げる。時間にして、定時少し前といったところだろうか?
 明日の調査のためにちょっと下調べをしてから帰ってもいいし、このまま帰路についてもよい。
 幸いにも、今日は体調に何の問題もない日だった。虚弱に生まれついた春樹にとって、そこそこ貴重な一日だった。
 コーヒーカップを持ち上げて一口飲むと、不意に私用のスマートフォンに着信があるのに気がついた。
 SMSとは珍しい。通知欄をスワイプすると、意外にも、それは磯井実光からだった。
 磯井実光。
 彼との関係を一言で語るのは難しい。
「至高天研究所」での事件を通じて知り合った、阿藤にとって、かけがえのない人物だ。
 何かあったときの緊急連絡用にということで、以前、番号を交換していた。そのときはメールアドレスやその他の連絡手段はやりとりしなかったので、SMSという手段をとったのだろう。もっと手っ取り早くというなら、麗慈にはもう少し連絡手段を教えている……。
 何かあったのかと勘繰る前に、メッセージの要約が目に入っていた。
『たいした用じゃないけど、今日は時間があるか?』
 あるわけねぇだろ、今日も明日も仕事だよ。
 言い返してやりたくなったが、続けて2件目が入っていた。
『いま日本に来てる。明日朝イチの飛行機で帰る。麗慈と映画を見に行こうと思ってる。急だけど来るか? 場所は……』
「……」

 車を飛ばし、春樹はなんとか約束の時間に間に合った。もっとも約束というほどのことはなく、返答は『間に合ったら行きます。期待しないでください』というものだった。
 実光が小さく手をあげた。
 映画館のあるデパートの入口には、磯井実光と磯井麗慈がいた。日本の、この時期にしては少し寒そうな格好をしている。
「うわっ、ほんとに来た……」
 当の本人たちも、急な誘いにやってくるとは思っていなかったらしい。
「当日アポなしとは。移動にどれだけ時間がかかると思ってんですか。まったく……」
「ドモ。急にお呼びたてしてしまってスミマセン」
 麗慈はぺこっと頭を下げる。
「あー、いや。いいけどね?」 
「俺に対する態度と違わない?」
「ははは」
「っと。今ちょうどコマーシャルが始まったくらいか。割と余裕だったな。あ、チケットは買ってある。横に3つの席」
「ヨコニミッツ」
「そっス」
 同行者であれば横並びになるのが普通だが、わざわざ口にしたことで、言外に微妙な緊張が走る。
 目をそらす実光。
 探偵たる春樹の洞察力は、へらりと笑う様子に、〝俺の隣を選んだっていいが、嫌だったら実は傷つくので、選択は任せる〟という意図をくみ取ってしまった。
(いやいや、普通、麗慈が真ん中では?)
(それでいいと思うが?)
 視線だけのやりとりをしていると、「あの」と麗慈が口を開いた。
「春樹さん、晩御飯まだでしょう。何か買ってきますよ。何食べます?」
 いらない、という選択肢はないらしい。
「えーっと、じゃあホットコーヒー……小さいの、と、ポテト……」
「ポテトのみ? 主食は?」
「ポテトは主食」
 ほんの僅か、麗慈の視線が阿藤の目線ちょっと上にずれたのは「どうして食べてないくせにこの身長が?」というものだった気がするが……麗慈は素直にこくんと頷いてカウンターへと向かっていった。
「えーっ……と、喜んでるんですか、あれ?」
「ダイジョウブだと思うけどなー。どうだろうわかんない……」
「おい」
 春樹はあえて席の番号を見ないでチケットを抜いた。実光はまたへらりと笑った。
「……で、ハリウッドのアクション映画ですか」
「ロマンス系だとほら、身内だと気まずいだろ? ひよってハリウッド系のアクション映画にしちゃった……どうだろうなー、いやー、わからん」
「あれ、お二人はしょっちゅう行かれるのでは?」
「たまに行かないでもないけど二人で来るのは滅多にないよ」
「素直に食事とかにすればよかったんじゃないですか?」
「間が持つと思うか?」
「……」
 最悪黙って座ってればいいわけだから気が楽だろ? と、言っている。
 この人はほんとうにどうしようもない、……でも、思考回路は似ている。認めたくはないが……内容にはおおむね同意する。
 せめて、年の近い信濃がいてくれたら気が楽なのだが。二人が何もしゃべらないでいる気まずい沈黙を過ごしていると、麗慈が両手にトレイを抱えて戻ってきた。でかいポップコーンを抱えて。



(★4つくらい?)
 映画は前評判通り。可もなく不可もなくといったところだった。
 面白かったは面白かった。あくびが出るほどの駄作ではない。良いところもあった。悪くない。ただ、誰かを誘ってもう一度来ようとまでは思わない。次に見るのは、良くて地上波に放送されたときに、片手間にだらだらという感じか。
「最後、ド派手に爆発したな。すっごい金がかかってそう」
「んで、どうでした?」
 見上げてくる麗慈に、春樹は正直に言うか迷った。そこに気を使うこともないだろうと思い、正直に述べることにした。
「うーん、そこそこ」
「っすね」
(今のは「ですよね?」のニュアンスだったよな)
 麗慈の表情の変化は乏しいのだが、別に大きくは外してもいないはずだ。
 急な誘いだったが、この奇妙な集いが嫌なわけじゃないと念押ししようか……春樹は迷ってやめた。実光がいたので、なんだか癪だったというのもある。
「俺はそこそこだったんですけど、作家としては面白さがあったりするんですか?」
「なんでも見ておくものよ。文筆業としては。俺もそこそこだなーって思った。ま、楽しかったよ」
(おっと)
 最後のフォローは、もしかするとこの場へのフォローかもしれない。やはりへらりと笑うので真意は読めなかった。
 なかなかの時間を過ごしたと思うのだが、「また来ような」、と言う手札は、三人全員持ち合わせてはいないようだ。
 入り口近く、ゴミを回収ボックスに捨てた麗慈が、不意に机に置いてあった紙切れをぺらりと拾い上げた。
「あの、ちょっと待たせます」
「アンケート書くんだ?」
「書いたら次回のポップコーン無料券貰えるそうっすよ」
「へえ」
 結構そういうの書くんだな、と思って春樹が同行者を見ると、実光のほうもちょっとひきつった顔をしている。
(え、毎度じゃないんですか)
(いやあ……えっ、珍しいよ。……なんて書いてる?)
(さすがに覗き込むのは悪いでしょ)
 そうは言いつつ、ボールペンのがりがりなぞる軌跡を目で追ってしまう。麗慈のことだから、イタリア語かもしれない。
 もちろん、後ろから腕の動きを見て、何が書いてあるかを見て取るのは無理だ。
(くっそつまんなかったって書いてあったらどうしよう……)
(……いやあ……)
 麗慈は割合にすぐアンケートを書き上げて、スタッフへと渡した。そうして、とことこと二人のもとへと戻って来るのだった。
「ども、終わりました」
「また来るの?」
「ザンネンながらしばらくはあっちで忙しくしてるんで。この映画館には来ません。なので、引換券は春樹さんが使ってください」
「え、」
「いらなかったら人にあげてくれてもいいんで」
「えっ、いや、ありがとう」
 思わず受け取ってはしまったが、またこの映画館に来るだろうか。逡巡する春樹に、麗慈は眉をわずかに下げた。
「あ、いえ。これはほんとに忖度ナシで、誰かにあげてもいいですよ。捨ててくれてもいいですし」
「いやいやいや流石に捨てはしないよ。うっかり忘れて、有効期限切れちゃったりはするかもだけど……」
「それでもいいです」
 そう言って、1色刷りのクーポンを押し付けてくるのだった。
「良かったな?」
「なんなんですかね?」
「まあ愛情表現の一種? では? あると思うが……」
「はしゃいでるんですかね?」
 実光はぐるぐるとみつあみをいじっていたが、「あ」と呟いてなにも言わなくなった。
「なんですか、その反応」
「ええとね」
「実光さん」
 麗慈がとがめるように言ったので、実光はそれ以上何か言うことはなかった。

***

「ってことがあったんだけどな?」
 それから1か月と少しが経った、何でもない昼。
 音羽塁と職場近くの蕎麦屋にやってきた春樹は、麗慈からもらったポップコーンの引換券を、財布に入れていたのをふと思い出したのであった。
 塁は静かに春樹の話を聞いていた。
 その間に二人前の蕎麦が運ばれてきたので、会話は中断される。しばらく無言で食べたり、仕事の話をしていたりしたが、不意に、食べ終わった塁がその出来事に言及したのだった。
「それで、券はどうした?」
「あ、ポップコーン券? ここにある。どうしようかな。ちょっと遠い映画館だからめったにいかねぇし。塁もいらねぇよな? あー。信濃あたりにあげようかな?」
「たしか彼はやってない映画を求めて市外にもいくと言っていたな。いいのではないか」
「人からの貰いものをあげるのは気が引けるけど。いいよって言ってたしな。あれは、たぶんほんとに〝いいよ〟なんだと思うんだけど……なんだろう? いやー、実は〝兄さん〟って呼ばれてねぇんだよな。いっかいだけ。嫌われて……はねぇと思うんだけど」
「彼は……景品目当てではなかったし、春樹に券をあげることにも思い入れもないということだったんだろう?」
「うーん……」
 蕎麦屋は、そば湯とか、温かい茶が出てくることが多いのがありがたい。今回はそば湯のほうだ。一口飲んで、箸を割りながら、春樹は考える。
「あげる行為自体が嬉しいのであって、あとはそっちの裁量だから、あげたプレゼントはどうしてくれてもいいよ、ってことかもしれねぇなとは思ったんだけど、イマイチ腑に落ちねぇんだよな。それにしては……。嬉しそうだった気がする」
 塁はもうとっくにそばを半分ほど平らげていた。
「あーうーん、気のせいかも。嬉しそうだって思ったんだけど気のせいだったかな? なんでわざわざアンケートなんて答えたんだろうな」
「ふむ……分からないか?」
 塁の瞳が眼鏡の奥できらりと輝いていた。
「分かったみたいな顔してると思ったよ」
「まあ、ある程度の見当はついた。先に断っておくと、これは国語の問題だから、当たっているかどうかは当人にしかわからんだろう」
「国語の問題て」
「……では、少し考えてみようか」
「ほう?」
「春樹、お前が初めてできた友人と初めて映画館に一緒に行くとしよう」
「つまりは塁と」
「ああ、事実そうだったな?」
 塁は口の端を少し持ち上げた。付き合いの長い春樹には、それがじゅうぶんな破顔だとわかる。
「友人と映画館に行くのは嬉しいことだ。そうだろう? 今回の事例では複数人だったから、複数名の友人としてくれてもいい。失敗するかもしれないと不安には思うかもしれないが、おそらく、おおむねは楽しいという感情が頭を占めるだろう」
「そうだな……楽しいよな。何が好きなんだろうって考えて、趣味が一緒だったら嬉しい。あるいは、背伸びして難しい映画を選んだりするかも?」
「うむ。友人と映画館に行くのはとても楽しいことだ。一緒に同じ映像を見て、同じ体験をする。そのほかにも、誰かが友人の分までチケットを複数枚買ったり、食べ物を注文したりするような何気ないことが楽しいかもしれない」
「分かるよ」
「ヒントは、書類というのは……自分が何者であるか客観的に他者に雄弁に語る重要な証拠ということだ。そのアンケートも、おそらくは記念だったのだろう」
「記念?」
「書くことが目的だったんだ」
 書くこと、書くことかと春樹は逡巡する。
「じぶんの名前を書くのが好きとか? でもその割には実光さんも珍しいことだって思ってたみたいだったしな」
「割と近い」
「〝一緒にこれて楽しかったです〟って書いたのか? でも自由記述欄には何も書いてなかっ……あ」
「目当てはおそらく別の回答だ。気が付いたようだが、まあ、種明かしをしようか」
 その瞬間、塁は完璧に名探偵の顔をしていた。
「つまり、同行者について、誰と来たか書く欄があったのだろう。彼は、多分そこで、『家族』と記入したんだろう。記念にな。他者に対してどういうくくりなのか、ちょっとアンケートで名乗ってみせたわけだ」
「塁……お前ってホントさ」
「まあ、嫌われてないから、次の映画か何かは誘ってみたらどうだ、〝兄さん〟」
 そうするよ、と、阿藤は言った。

2020.06.23

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