船上のバベル

利きナナシ小説大会に寄稿したものです。
主催の710さん、ありがとうございました!

*原作未登場のキャラクターの登場
*軽度の暴力表現
*HANOIへの抑圧・差別表現

 暗闇の上、揺蕩う船は揺れる。
 曇り空で月明かりのない空の下。一隻の船が浮いている。中型の船体の大きさとは裏腹、夜の海に飲み込まれた船は、ずいぶんと頼りなく、寄る辺がないように思われた。

 AM 3:00。

 ぼろきれのような毛布を被ってHANOIは呻いた。
 シンプルに寒い。
 寝返りを打ってからだの向きを変えると、隣の毛布がもぬけの殻であることに気がついた。またか、と、雑務用HANOIは思った。あーあ、またいなくなってる。夜起き出して、体力をなくして、困るのは自分自身なのに……。
 また連帯責任をとらされるだろうか。いや……そうでなくたって、船長が理由もなく怒り出すのはしょっちゅうだったけれど。ごろりと寝っ転がってどうしようか考える。放っておこう。しかし、体の向きをぐるりと反転させると、意見もまた変わった。
 少なくとも打擲の口実を与えるわけにはいかない。
 キュリオは、きっとまたどこかで包装の新聞紙でも読みふけっているのだろう。
……読めやしないくせに。
 こういうのを活字中毒とでもいうのだろうが。〝ことば〟ならなんでも知りたがり、新聞の包みや、チョコレートの紙に執着した。

 非常時のための、備え付けの懐中電灯を持って、雑務用HANOIは彼を――キュリオを追いかける。
 積み荷の上げ下ろしには目を光らせる船長も、夜中まで彼らを見張らせることはない。抜け出したとして海の上、どこにも逃れようがないからだ。

 キュリオはすぐに見つかった。廊下の壁にへばりついていた。
 この船の雑務用HANOIはくたびれていてどれもこれもそっくりであるけれど、キュリオだけはちがう。ガラスのような右目にはヒビが入っていて、それが、明かりの乏しい夜の中、道標のように、あるいは誘蛾灯のように光っていた。
 キュリオはこちらを気にせず、じい、と、非常灯のしたの船内の地図を見つめていた。キュリオははいつくばったまま、指先で地図の凹凸をなぞって、かすかに微笑みを浮かべている。
……点字を読んでいるのだ。
 もしもまっとうな雇い主なのだったら、母国語の本でもむさぼるように読んだのだろうが。修理もされずに見限られたHANOIの雇い主の性根なんて知る由もない。
 まるで自分とは別の生き物みたいだ、とHANOIは思った。そうだ、だからコイツは〝キュリオ〟だ。
 おそらく、キュリオは初期不良で返品され、ここへやってきたHANOIだ。
 いや、この性質がもとからだったのか、それともこき使われるうちにどこかおかしくなったのか、雑務用HANOIは知らない。

「キュリオ、戻ろう」
 ことばは通じないから、腕を掴むことにする。

 そのときだった。ぎい、と扉が開いた。キュリオも、雑務用HANOIも固まった。
 技術用HANOIが、エンジンルームを点検しに来たのだ。とはいえこの技師もこき使われるHANOIには同情的だ。助けてくれることはないけれども、咳払いをして、持ち場に戻れと暗に示した。
 キュリオの手を引いて戻る。
 不意に、動きを止め、天井を指さすと――もちろんそこには空なんてものはない。ただ鉄の天井があるだけだった。けれども、キュリオの瞳は、なぜか、夜空のように輝いている。
 キュリオは無邪気に微笑んで、つぶやく。

〝あれはPolaris〟

 意味をとれない異国のことばであるはずだった。けれども、それは、彼にはハッキリと聞こえた。透き通った意味だけが、文脈を超えて。
「やめろよ」

 もとの場所に戻ると、同じような雑務用HANOIが大勢寝そべっていて、またこの群れの中に戻ることでほっとした。

 キュリオを引きずっていって寝床に戻ると、名のない雑務用HANOIは泥のように眠った。ハッキリと聞こえた、なんと言っているか。ことばの響きは分からなくても、意味するところを読み取った。ジェスチャーゲームみたいに、言語を超えて通じあう瞬間がある。
「やめてよ」
 忘れてしまいたい。……北の空で動かない星を、母国語でなんて呼ぶかなんてことは。
 自分たちは、プリインストールされたコモンセンスによって、予めいろいろなことを知っている。新聞の読み方。空の星。

 この場所がどこであるのか知ることに意味はあるのだろうか。この感情に名前が付くことに意味はあるのだろうか。不愉快の原因をたんに腹が減ったと同定するコトに意味はあるのだろうか。知ったところでなんにもならないのに、それをことばで切り分けるコトに何か意味はあるのだろうか。
 彼は、ボンヤリした世界のままに生きたい。ことばによって、分けないでくれ、この群れの中から。

 自分はたんなる道具だ、と言い聞かせてみる。集団に混じり合ってしまえと念じた。どろどろに溶けて誰でも良くなる。
 完璧な歯車になって、明日も同じように働く。それだけが望みだった。

〝あれはPolaris〟

――そしてここはね。

 夢の中で、容赦なくキュリオが話しかけてくる。そしてここはね、僕たちがいる世界というのはね。ほんとうにひどい世界に違いないよ。

◆◆◆

「крыса(ネズミども)」

 船長の声に、HANOIたちは荷下ろしの手を止めた。
 HANOIは総勢で五十名ほど。そのほとんどは雑務用HANOIだった。

 船長はなにか喚き散らし、手近なHANOIを乱暴に引っ張った。……棚からチョコレートを取るときと同じだ。一番近かったから、という理由にすぎない。なぜなら彼らは同じパイのように、どれひとつとして違いはない。
 ひとりのHANOIはぐらりと揺れ、横腹を蹴り飛ばされる音だけが船倉に響いていた。

 〝ネズミ〟、と、HANOIたちは呼ばれている。
 この船において、〝人びと〟には数えられないという意味だ。

 HANOIたちのなかにネズミの意味――〝すばしっこくてちょろちょろとした薄汚い生き物〟の辞書的な意味を理解するものはいないだろう。
 彼らが理解するのは、数単語。おそらくは犬に対する命令形の数とそう変わるまい。

 ことばは思考の道具だ。それは人を人たらしめる。ことばなくして、ものを考えることはできない。
 国を持たないHANOIにも、決まって母国語というものがある。それに加えて、HANOIたちは用途に応じて必要な知識やことばをインストールされる。
 けれどもこの船が欲していたのは単純な労働力だけだった。引き取ってきたHANOIたちの記憶を初期化し、言語設定はてんでばらばら、めったに使わない言語にする。
 私語を禁じられた彼らのことばは次第に色あせて、枯れる。

 嵐が去るように暴力は終わる。

 薄明かりの中、一体が積み荷の陶器をくるんだ新聞紙を見つめていた。向きはさかさだ。一定の規則で並ぶ模様と、カンマとピリオド。この模様の隙間が奏でる調べを知らない。
 いや。
 たったひとりだけ、それを知っているHANOIがいた。言葉が分からなくても、きらめく好奇心の瞳から、何を言いたいかわかった。

 キュリオ。

 この世界の中で、彼だけが違っていた。
 思い出したのか、覚えていたのか、新たに学習したのか。
 彼のことを正直馬鹿だと思っていたのだけれど、きっと、彼は驚くほど頭が良かった。たどたどしくもことばを覚えた。投げ捨てられた新聞紙から、世界のことを知り始める。
 この世界に、〝船の上〟以上に、この場所を表わす名前があるだなんて今まで考えたことがなかったし、知りたくはない。

 彼はキュリオ。

 キュリオはある日、船長と話すと出て行って、それから戻ってこない。どぼん、と何かが海に落ちた音が響いて、それからはもとのように静寂が戻った。
 もとのように、とは違うかも知れない。与えられた希望を奪われるのは、それよりもひどいものだから。

 Curiosity(好奇心)は死んだ。生まれて実を結ぶ前に、燃える意欲は冬の海に消えた。

 キュリオ。

 彼は名乗った。
 雑務用HANOIは、空いた毛布の中に幻を見る。

 はじめ、〝わたし〟も〝あなた〟もここにはなかった。あるのはぼやけたかたまりだけだった。名前で切り分けられてから、取り返しが付かなくなった。HANOIは、ちぎって手の平にかくまっておいた新聞紙のかけらをぐしゃりと握りつぶした。

◆◆◆

 空になった毛布を見て、ああ、もう彼はいないんだった、と雑務用は思った。けれどもなんとなくまたあの地図の下に行けば会えるような気がして、彼はそっと寝床を抜け出した。貨物室の扉の前で立ち止まる。
 船長が誰かと話している。
 美しく派手な女がいて、蠱惑的に微笑んでいた。

「ごきげんよう、〝ネズミ〟ちゃんたちは元気?」
「ごきげんようございます、マダム」
「ねぇ、ご存じ? ……明日、この船に、コーラル・ブラウンが乗るらしいのよ」
「誰です、そいつは」
「HANOI保護施設の人権家ですって」
「……それはまた、暇なことです」

 さして用心されている、というふうでもない。
 ネズミが言葉を解するとは思っていないから、彼らは、HANOIのまえで平気で企みを話すものだった。HANOIたちを除けば、ここは秘密の会話には最適だ。貨物室。女の身につけているもののはしばしから金の匂いがする。おそらくはスポンサーめいた存在だ。
 ああ、考えるのをやめなくてはならないのに、と、雑務用は思った。あまり違うことを考えると歯車にはなれないぞ。
 影が揺れた。

「それで、ちょっとばかり脅して差し上げたのですけれど、いかがかしら?」
「ま、気が付かんでしょうよ。船の上にどんな国のHANOIがどう乗っていようが、怪しまれるってことはない。それなりのHANOIはそれなりに扱っているんです。
問題は〝ネズミ〟らですがね、客室と荷運びのスペースはぜんぜん違いますし、所詮こいつらはネズミにすぎない」
「そうかしら」

 女の視線が、こちらを向いた。ひやりとした。しかし彼らが見ているのは、船倉に寝っ転がったHANOIたちだ。

「なんだか、ときどきこいつらは、人間のことばを分かっているような気がするの」
「やれやれ。つぎの港あたりでまた初期化しますかね」

……ぞわりとした。
 ネズミと呼ばれたものたちの底には、懐かしい言語のかけらが眠っていた。
 一度でもあふれ出した言葉を奪うことはできない。
 その雑務用が聞き取れたのはほんの僅か、残された時間はそう多くはないというニュアンスだけだった。電子ロックを解除して、二人は去って行く。右上、右上、左下、真ん中。視線で追っていた。中央。右、右、上。忘れないように口の中で何度も繰り返す。
 船上の歌い声に合わせて、キュリオと一緒にステップを踏んだ日があった。
 ほんとうだろうか、今となっては、夢の中だったかもしれない。

 振り返る。仲間のHANOIたちは、泥みたいに眠っている。あれに混じって、何もかも忘れて寝たい。そうしよう。……けれども彼のつまさきが何かを蹴った。それは地面に落っこちていたガラスの欠片だった。

〝あれはPolaris〟

 鮮明にあの日の光景が浮かび上がる。
 キュリオ。
「僕は、キュリオ」
 彼は――キュリオの名を借りた雑務用は、ガラスの欠片を握りしめた。力を込めると、切れた手の平が乾いた鉄さびの血を流した。

◆◆◆

 貨客船『グラント・コルネリア』。奇しくもHANOIの生みの親と同じコーネリア博士の名を冠した船は、巨大とはいわないまでもそれなりの風格をたたえていた。
 コーラルは手すりを頼りに、急な連絡橋の階段をのぼった。潮風が彼の短い髪をぱたぱたと揺らしていた。
 海は、なんとなく陸よりも下の方にある、というイメージがあったのだけれど……船は高いところにあるから、乗り込むときは高いところからになるのだった。一時的な接続のための可動式の鉄橋はとても頑丈ではあったけれど、それでもどうしてかバランスのおさまりが悪いような心地にはなるのだ。
 白く染まった息がぷかぷかと飛んでいった。
 夜だ。全て塗りつぶしそうな夜がとっぷりと眼下に広がっていた。

「足、踏み外さないで下さいよ」

 コーラルは怪訝な顔をしたナナシに肘でつつかれた。

 どうして彼らが船に乗っているのか。
 それを説明するためには、時を一月ほど遡ることになる。

「もしもしマブダチかい?」
「切るぞ」
「まって、その不機嫌そうな声はナナシだね! もう10年の付き合いなのに! 僕たちだってマブダチじゃないか。そうなると君の返事はこうなるべきだ。『やあ、何? アダムス?』」

 HANOI教の教祖アダムスとコーラルはとても親しい。だからこうやって突然電話がかかってくることもさほど珍しくはない。それはTOWER事件を生き抜いた戦友だからでもあり、HANOIの為に戦う同志だからでもある。

「……施設長サマならゴキゲンで風呂入ってるよ」
「それは何よりだ。用件を話していいかな。だってさ、君たちどっちに伝えても同じじゃないかい? おんなじようなもんだし。なんか最近ますますさあ、似てきたよ、君達ったら」

 わざわざ料理の手を止めて、ハンバーグをまとめるためにビニールの手袋までしていたナナシは本当にそのまま電話を切ろうかと思った。電話越しにも器用にナナシの剣呑を察したアダムスは声のトーンを数段と真面目なものに変えた。

「いや、結構真面目な話なんだけどね……。旅行に来る気、ないかい? 実は、『HANOIZM』の懸賞で当たっちゃってね!」
「あ? 旅行? ……こっちは忙しいんだよ」
「うーん。まあ、忙しいだろうけどね。君達の仕事の一環だと思って欲しいんだ。これにはチョットばかり、ワケありでね」
「そのワケってのは?」
「言えないんだ、それが!」

 それでナナシが電話を切らなかったのは、仮にもHANOI教の教祖である彼への義理と、ひとえにナナシの忍耐力のなせる技だ。
「講演で忙しい」と断ったはいいものの、その予定がキャンセルになり、偶然にもスケジュールがあいたことまでアダムスの仕業と思っているわけじゃない。
 ただ、何やらワケがあるのは確かだった。
 旅行の準備を整えるやいなや、HANOI保護施設には差出人不明の手紙が届いたのだ。
 そこには、「コルネリアには乗るな」と、真っ赤な文字で書かれていた。



「後で合流するとはいえ……二人を連れてこなくて、悪いことしたね」

 はじめ、メリーティカとクレヨンは久々の旅行に乗り気だった。
 アダムスの話は要領を得ないものの、予定が空いたことだし……ということで、四人分の手続きを整えてはいたのだ。しかし、脅迫状が来たことで、直前になってコーラルとナナシは方針を変えた。二人を連れていくのは危ないと。
「朝の便にした」と偽って、二人に黙ってこそこそと家を出た。船のチケットをキャンセルして、一日遅れではあるが飛行機の手筈を整えてある。怒るだろうが、それはしょうがない。何もなければないで、すごく謝ろうという作戦である。むこう一ヶ月は針のむしろを覚悟しておかねばならないが、彼女たちの安全に比べたら安いモノだ。

「それにしても雑務用の多いこと多いこと。
……アンタ、あの中に俺が混じってたらちゃんと分かります?」

 荷下ろしのために、蟻のように働いている雑務用たち。コーラルの目には夜の闇に紛れてそれはわからなかったし、HANOIが雑務用だともまた分からなかった。闇に紛れているいちばん小さなうごめきが、まとまってまた数人になる。数秒して、瞬きでもする間にその塊がバラけてしまうと、もはや追うことはできなそうだった。

「ナナシのことはわかるよ」
「へえ、本当に?」
「うん。うーん……分かるよ」
「……外したらスネ蹴りますからね。こっから突き落としてやりますから」
「おっかないな」

 どうやら、それは照れ隠しだった。

「ナナシ、僕はね……」
「俺は良かったんですよ。アンタが行く場所ならどこでもお供するって言ったでしょうに」

 コーラルの謝罪のことばを、ナナシが予め遮った。

「……ありがとう」
「まあ、何が起こると決まったわけでもないですしね。案外何もないんじゃないすか?」

 後ろめたさを二人で分け合い、コーラルとナナシはコルネリア号に乗りこんだ。

「船旅って、なんか、初めてかもしれないね」
「わざわざ時間のかかる交通手段使うことなんてめったにないですからね」

 船はくっきりと層に分かれている。一等客室と二等客室、そして三等客室は、部屋というよりも雑魚寝をするためのスペースだった。
 豪華な部屋を取っているのはほとんどが裕福そうな人間で、下等の客室に寝っ転がっているのは出稼ぎらしいHANOIと人間が半々。
 人間は、親子連れか熟年の夫婦が多かった。ごく稀に若い男女。女性と女性……。
 一方で乗組員はといえば、明らかにHANOIが多かった。それにしても、階級を示す腕章をつけているのは人間ばかりである。

「船は、世界の縮図だね」

 数々の武功を上げながらも一等兵止まりだった友人を思い出しながら、コーラルは言った。

◆◆◆

(あれ、だれかがベンチにお人形を忘れてる)
 少女はフェリーターミナルに寝かせてある美しい人形に視線を奪われた。青色の髪の毛は、少しだけ蛍光灯の光を透かしている。今は夜だったが、それは、空の色によく似ている。

「ティカ!」

 名を呼ばれた瞬間、精巧な等身大の人形は、ゆっくりと起き上がった。緑色の髪をしたHANOIがぱたぱたと駆け寄ってくる。うん、と背伸びをする姿を見ても、少女はまだそれが人形だと思った。完璧な容姿だったのみならず、仕草もまた絵に描いたように美しかった。
 実際、メリーティカは愛玩用HANOIであったのだが。

「ティカ、チケット、買えたよ!」
「ありがとう」
「でもね、一枚だけしか買えるしなかった」
「そう。それでも私たち、よくやったわ。……まったく。おかげで出航ぎりぎりになっちゃった。プランBね」

 楽しみの家族旅行に置いて行かれた二人は、それはもう怒りを通り越してあきれたものである。机の上には、飛行機で来るようにとチケットが置いてあった。到底納得できるものではなかった。
 クレヨンがソワソワとして、一晩中起きていなかったらどうなっていたことか!
 ナナシとコーラルが部屋にいないことに気がついたメリーティカとクレヨンは、お小遣いをかき集め、ヒッチハイクでここにきた。うっかりものの家族に置いて行かれたと言ったが、間違いではないだろう。事実だ。許しがたいことに、置いていったのだ。あえて。

「お金は、降りるときにコーラルに払ってもらおうね。……タクシーってそれでいいよね?」

 ふたりは、自分たちが置いていかれた理由は、じゅうぶんにわかっている。シュレッダーにかけられた何らかの赤い塗料が付いた紙。何が書いてあったかはさておき、察するに十分だ。それでも、置いて行かれる方が心配だし、そのほうがずっといやだった。

「コーラルにたっぷり文句をいってやろうね」
「うん。……でも、ティカ、だいじょぶ? クレヨン、重いよ」
「だいじょうぶ、女の子はね。困ってたら手伝ってもらえるものよ。わたし、そういうののプロなの。荷物の中身は、ホテルに送っておいたし……」

 まかせて、とメリーティカは胸を張る。

 なんの企みだろうか。首をひねる少女の前で、またたくまに二人は化粧室に消える。
 それから、お人形さんと大きなスーツケースが出てきた。
 女の子は、困った風にきょろきょろとして、スタッフがそれに気がついた。重そうなスーツケースを手に取ると、エスカレーターの向こうに消えてゆく。それから、少女は――こちらを振り返って(一方的に絵画を鑑賞するような気持ちであったから、ほんとうにびっくりした)手を振り、ゲートの向こうに消えていった。あまりのことにびっくりしていると、「帰るよ」と少女の家族が手を取った。

(でも、あれ……もう一人はどこにいったんだろう?)

◆◆◆

 なんとか、〝みんな〟がいることを誰かに伝えないと。
 彼――キュリオはそっと船倉を抜け出していた。
 ところが、誰に、どうやって、というのはよくわからない。……キュリオが戻ってこなかった以上、船の人間はあてにはならない。
 彼が考えたのは、人気の多い場所に行くことだった。暗闇の中、見回りの領分を越えて――旅客のいるフロアに入り込む。
 そうしたら、自分のことばが通じる相手もいるかもしれない。
 数年間ずっと、キュリオを含め。誰とも話せず、また、通じなかった言語である。でも、もしかしたら事情を察して通報してくれる人がいるかも知れない。……どのくらいまで通じるかは分からないが、とにかく、やってみるしかない。

 倉庫の長い長い通路をゆっくりと歩いていると、誰かの話し声が聞こえ、キュリオはコンテナの隙間に身を隠す。知らない声。けれども全身全霊で警戒するには……かなり間の抜けるような声だった。

「あれ~、おかしいなあ、ここはどこかなあ」
「あーあー、すっかり迷っちゃいましたねぇー……アンタはすぐに迷子になりますからね-」
「あはは、僕ったらウッカリだなー……ねぇこれ、意味あるの?」
「ないです。説得力がゼロ。いいですか、見つかったら言い訳はきかないと思ってくださいよ」

 ……。
 何を話しているかは分からない。
 整備員か? と思ったがどうにも、違うような気がする。客……、だと思うのだが、そうだとしたらここまで来ているのはヘンだ。

「っつーか、適当に下っ端のHANOI捕まえて話聞くはずだったのに……思った以上に奥まできちまいましたね。いったん引き返しますか?」

 と、そのときだ。

「おい、いたか?!」
「いないっ! 一匹いない!」

 にわかに、後ろの方が騒がしくなった。

(あ、まずい……)

 キュリオは想定していたのだが、それよりも慌てたのが闖入者ふたりのほうだった。二人は、ぎゅうぎゅうとコンテナの隙間にひっこんだ。しかし、隠れ場所に選んだのが、キュリオが潜んでいるところだったのだ。
 ぐい、と、袖を引かれる。

「ナナシ……あれ、君、ナナシじゃない!?」
「ちょっと、ブラウンさん。なにしてんすか?」

 とにかく、敵じゃないらしいのだが。初対面の三人は奇妙に息を潜めることになった。

「数え間違いじゃないのか? あいつら、全員同じようなもんだろ」
「いや、でも、一匹逃げてたらコトだぞ」
「……逃げられてたら良いよな」
「ばか、お前、そういうこと言うなよ」

 二人組の警備員はどうやらHANOIのようだった。後ろの方から、「とっととしろ!」と、声が追いかけてきた。

「鍵が開いてたからてっきり……すみません、勘違いだったみたいです」

 そして、パタンと扉が閉まり……。奇妙な取り合わせの3人が残された。

(いや……考えようによっては、これ、チャンスなんじゃないすか?)
(……ええ?)
(コイツと俺、だいぶ型が近いですね。同じ雑務用ですし、幸い、この制服着てたらわかんないんじゃ。捕まったフリしたら、内部、ちょっと探れるんじゃないすか)
(いや、そんな、ナナシに危険なことはさせられないよ)

 何の算段が付いているのか、キュリオにはさっぱりわからなかった。わかったのは二人がキュリオの消耗を見て、痛ましそうな顔をしたことだった。人間の方はモノ扱いはされなかったのだが、ケガを調べるときの手つきにだけは遠慮がなかった。人間の方は眼鏡の奥、一瞬だけ険しい顔になり、HANOIのほうは嗤った。……皮肉そうだった。

(でも、ここまできて、何もしないっていうのもね。とにかく、そいつから話を聞きつつ、アンタは上手いこと誤魔化しといて下さい)
(ちょっと、ナナシ!)
 HANOIのほうは首尾良くロッカーをあさって予備のジャケットを羽織る。這いずってずいぶんと遠い場所で立ち上がる。わざとらしく音を立てた。
「あ――いたぞ!」

 囮、ということなのだろうか。
 しぃ、という声に合わせてキュリオは息を潜める。それくらいはわかる。だが、この状況がいったいなんなのか、どう運んでいるのかは分からない。

「ふう、なんとかなった、みたい……。……!?」

 油断したのがいけなかった。

「あっ!」
「わっ」

 船長が残っていたのだった。

「まずい、逃げよう!」
 後から考えれば、ものすごく間抜けだったように思う。あいかわらず、彼が何を言っているかは分からないので、ずいぶんと混乱していたが、この先の出来事はもっと分からない。
 客室の手前まで来たときだ。船長が、女の子にぶつかってスーツケースを倒す。そうすると、スーツケースの中から出てきた女の子が――たぶん女の子が、出てきた。体育座りみたいな格好で放り出され、しかし猫のように着地した。そして、人間が突き飛ばされるのを見ると――思い切りきっ! っとにらんで、空っぽになったスーツケースをぶん投げた。それは、船長の後頭部を直撃する。

「うわあ、死ぬかと思った……っ」

 誰が悪いのだろうか。どちらが悪いのだろうか。
 しかし、この状況と、自分のピンチをどうやって説明すればいいのか。結局はこのまま突き出されて終わりではないだろうか。キュリオはほんとうに、途方に暮れるほかなかった。
 そもそも、この状況は一体何なんだろうか?

 しかし、その男が発したのはずいぶんと意外なことばだった。

「あの、もしかして……それ、キモンの国のことば? ですか?」

◆◆◆

(このクソみてぇな感覚、ひっさしぶりだな、ほんと……?)

 首根っこを掴まれて倉庫に押し込められたナナシは、ぎゃあぎゃあとわめいている女を眺めていた。とりあえず、施設長たちが話を聞き出す時間を稼げればいいだろう。あとはまあ、……助けてくれるはずだ。
 あのHANOIはずいぶんとメンテナンスされていないようだったし、少なくともそれだけで告発の材料はそろう。

「あなた、ずいぶんと面白いわね。自分の立場が分かってないのかしら? 我が社があなた方一匹にどれくらいの手間とコストをかけているか」

 床に横たわっているのもずいぶんと疲れた。
 ナナシは素早く立ち上がり、蹴り飛ばされそうになったところで、女の足を引っかける。HANOIにはストッパーはあるが、正当防衛くらいは可能だ。反撃されないと思っていた相手に反撃されるさまは、ずいぶん滑稽なものだ。奇妙な悲鳴があがる。

「テメェに命令されるいわれはねぇんだよ」

 さて、とはいえ袋のネズミである。どちらに逃げれば分があるか……。とにかく、奥へ逃げることにした。HANOI保護施設の施設長のそば、ずいぶんと修羅場をくぐってきたつもりではあったが、そのとき、ナナシはとても後悔した。
 たあん、と乾いた銃声がした。

(げっ、どんだけ物騒なんだよ、世の中)

 女が、ハンドバッグから銃を抜いたらしかった。

「悪いな、ちょっと邪魔するぜ」
 ナナシの目に、船倉が飛び込んできた。ずらり、自分に似た背格好のHANOIがいくらでもいる。ここならば時間は十分稼げるだろう。飛び込んだはいいものの、ナナシにとって予想外だったのは、女が、いちばん手近なHANOIを適当にひっつかんだことだった。どういうことなのかさっぱりわからない。似たHANOIがなにか、分からない言語で呻いていた。見せしめというわけでもないらしかった。だからといって、まさか、ナナシと間違っているわけでもないだろう。
 他の雑務用は、一様に目をそらす。同じようなHANOIたちの仕草は、まるで意思がなく、泥のかたまりのようだ。
 ぞわりとした。
 耐えろ、とナナシは自分自身に言い聞かせる。じぶんはここにいる連中とは違う。生き残ってしかるべきだ。
 殺されるとは限らないし、それだってあとで助ければいい。
 じぶんはコーラル・ブラウンのHANOIなのだから……。

◆◆◆

 カタコトの日本語であらかた事情を聞いたコーラルは、猶予がそうは残されていないことを知った。残念ながら、今回の敵はそういう話が通じるような相手ではなさそうだ。追いかけてくる連中から逃げているうちに、船の上のレストランを横切ることとなった。

「貴様ら、それ以上、動いたらっ――」
「うわあ!」

 ばん、と乾いた音が鳴り、銃弾はあさっての方向に発砲された。
 クレヨンの投げた食事用のナイフが、銃弾を弾き飛ばしたのだった。
 事情を知らない乗客が、騒ぎを聞きつけてやってきていた。

「詳しいことを話す暇は無いんですけど。えっと、HANOIたちが閉じ込められて、働かされているんです。すみません、通報をお願いします!」
「コーラル、ナナシ、探しに行かなきゃ」
「うん!」

 コーラルは必死に従業員の通用口に戻ると、ひたすらに廊下を歩いて行った。半開きになった扉を開ける。
 HANOIたちは、ただモノみたいに転がっている。
 ひどい様子に心が痛む。

 ……ナナシはどこにいったのだろうか。

 ここに隠れたのか? あるいは、捕まって、放り込まれたりしていないか。

(落ち着いて)

 ナナシならどうするか、考えなくてはならない。
 コーラルは、ナナシならぜったい見つける自信があったのだ。ナナシならこうする。仲間を巻き込まないように遠くへと――。
 駆け上がってすぐだった。どぼんと音がした。

◆◆◆

 あのとき。ナナシは引きずられるHANOIを放ってはおけず、女を消火器で殴りつけていた。不意の一撃が決まったはいいが、気絶させるには至らなかった。ストッパーがなければな、と思ったのは言うまでもないが、それにしても角度が甘かった。銃口を逃れるようにナナシは船の淵にぶらさがろうとして、それから、船が揺れて、落下することとなった。
 ざまあみろ、と吐き捨てられたことばは、意味を知らなくても響きだけで分かるものだった。こちらはくたばれ、とでも言ってやったような気がする。
 ゆうに数階ぶんは落下した。とはいえ、水の上だ。
 ナナシが水面にたたき付けられたときの音は、ずいぶんと心許なかった。助けを呼ぼうにも浮いているだけで精一杯だ。
 夜の闇は深く、海の水は恐ろしいほど冷たかった。体から、いくつもの気泡が水面に立ち上っていった。
 溺れないようにするには、力を抜いて漂ってるのが一番のはずだが、それにしてもまあ浮いているのが精いっぱいだ。もし見つからなかったとして――どこかの海岸に流れ着いて助かる確率はどんくらいだろうか、とナナシは見積もった。
 たぶんない。自分はそれほど運がよくはない方だと思う。
 それでもこうやって信じていられるのは、希望があるからだった。
 あの人ならば、きっと自分を見つけてくれると。

「ナナシー!」

 船から投げ出されてから、悲鳴じみた叫びがあがるまで、思ったよりも早かった。
 うるせェな、とひどいことにナナシは思った。
 とりあえず自分を見つけることができたのだから、及第点はやってもいい。あとは、いいからとっとと助けてくれ。

(まあ、信じてましたよ。アンタのこと)

 船の上、きらりと、懐中電灯の光がみえた。
 そこまではいい。その影は思い切り、弧を描いて、はじめ、懐中電灯を投げたのかと思った。違う。その影は――影ごと、こっちに向かって飛んできたのだ。

「ハア!?」

 ドボンと落っこちてきて水しぶきがあがる。
 がぼごぼと声がしておそらく名前を呼ばれたんじゃないかと思った。コーラルの方がよほど泳げていなかった。溺れる人間を助けるときは服を脱げ。
 胸ぐらを掴まれて一緒に沈む。ホントに死ぬ。
 一緒ならいいか?
 いや、それは得か損かで言えば損に違いない。その約束は、もう貰っている。あとはもう、石にかじりついてでも生き抜いてやろうというだけである。飛び込んできたのは愚かだと思ったのだが、光源があるのは助かった。
 ナナシは落っこちた懐中電灯を掴むと振った。ちかちかと、波間の上に光が泳ぐ。それが功を奏したのだろう、あやまたずにこちらにやってくる。

〝あれはPolaris〟

 空の上で位置を変えることのない北極星。あれが道標なのだと思った。
 船のへりにかじりついて、成り行きを見守っていたキュリオ――キュリオのつもりをしていた雑務用は涙を流していた。小さくて、まばゆい光だった。

 ひっくり返ってもみ合っていると、ころころと救命用のボートがこぎ出してきた。ぱちぱちと船の明かりが付いて、煌々と光り輝いている。
……ここまで騒ぎになっては、もう隠し通すことはできないだろう。

 黙っていたら、あそこに身を隠すのが最もラクではあっただろうけれど。
 コーラルは、ナナシが他のHANOIを弾避けに使うとは思えなかったし、とうてい、ナナシがあそこにいるとは思えなかったのだった。実際のところは、ナナシは隠れ潜むつもりで、それが、女が別のHANOIを手当たり次第に引っ張ったので、方針を変えたのではあったが。
 コーラルを支えるので精いっぱいだったナナシは、本当の意味で死にかけたといえる。
 手をさし伸ばしたメリーティカとクレヨンの腕に捕まり、這い上がると救命用のボートがたわんだ。メリーティカは、ナナシを引っ張り上げつつ、言った。

「ねぇ、何かティカたちに言うことがあるよね?」
「……。置いてってホント、スミマセンでした……」
「それだけ?」
「申し訳ありませんでした」

 ふんっと、メリーティカは胸を張った。向こう一ヶ月くらいはこの調子だろう。
 ぐっしょり濡れ鼠になった施設長がくしゃみを三回して、それでようやくみんなが笑った。

◆◆◆

「それじゃあ、上手くいったんだね!」

 こんどは電話越しではなく、実際に――ソファーの真向かいに座ったアダムスが笑っていた。病院までわざわざやってきた、まではいいが、コーラを飲んで威張り散らしているさまはお世辞にも見舞いとは言えないだろう。

「なーんか大変だったみたいだけど、終わりよければ全てよし、だね」
「こっちはスクラップ手前だぞ、オイ。塩水ってのはどうにもねぇ。海ってさあ……。先月健康診断受けたのにまたメンテだっての」
「良かったじゃないか。五十人分のキョウダイが助かったんだから」
「俺は認知した覚えはねぇよ」
「まあまあ、ナナシ。で、助かった子たちは元気?」
「うん。上手くやってるみたいだよ」

 ナナシが舌を鳴らす。話題をそっちに向けられては、そちらの方が優先事項になる。コーラルのほうも人間用の精密検査を終えたところで念のための入院、という格好なのだが、病室にラップトップを持ち込んで仕事をしているありさまだった。
『グラント・コルネリア』の不法就労は大きな社会問題となり、またしてもHANOI保護施設とコーラルは注目の的だった。

「彼らは保護されることになったよ。こっちじゃなくて、海外の支部だけど。
ことばも順調に覚えてるし、訓練したら何とかやっていけるだろうって。……それにしても、どうして『グラント・コルネリア』のチケットを? 懸賞なんてウソだったんじゃない。わざわざ用意してさ。……いや、ティカ、ごめん。おいてったのは本当に悪かったよ」
「わたしたちがいなかったら、二人は今頃海の底なんだよ。分かってる?」
「そうだそうだ! 反省して!」
「「ごめんなさい」」

 コーラルとナナシの声がそろった。アダムスがにやついているのだけがただ一つ解せない。

「で、なんでなんだよ? まさか天啓って言うんじゃないだろうな」
「まさか。溺れる者は藁をも掴むってね。
海岸にね、ボロボロのHANOIがひとり、流れ着いていたのさ!
 うわごとみたいに何か言ってて……かろうじて僕が聞き取れたのが、そう……。『グラント・コルネリア』だけだったんだ!」

2021.11.29

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