フローラの世話する隣人の花

Escapeエンド。
タワハノ村によいしゅうまつを企画に寄せて。ありがとうございました!

「あっはっは! ミゴトに救いがないなあ、もう」
 バーチャルの世界に響く、テレビゲームの音。
 アダムスが本部のリビングでコントローラーを握っていた。隣で見ているクレヨンが、ダメージにあわせてゆらゆらゆれる。
 クレヨンの目は、人の目というよりはいくつものカットを施された宝石のようであるから、周りの色を敏感に閉じ込めて、複雑な色合いを呈していた。
「アダムス、そこじゃないのだ。ほんとうの通路は、一個右だぞう。今度こそ、とぅるーえんどとやらを見るのだろう。そっちの結末はもう見飽きたのだ」
「ええ? ああ、そうだった。あっちゃあ、やらかした。リセット、リセット。……あー。それにしてもさ、監察官がこなくなって、これでもう何日目だったっけ?」
「三日」
 メリーティカは、リビングの高い机にもたれかかって、ぱらりと本のページをめくった。細い指がページのまんなかにかかる。小難しい本のページは、中程を過ぎている。
「これで三日。ちょっと、心配になっちゃうよね」

 第二の塔。罠にかかった監察官――コーラル・ブラウンは、戻っては来なかった。
 いや、まだ、戻ってこないと断定することはできない。
 決定的な一打を与えられずに、この本部はまだ存続していた。ゲームオーバーになったところで、アダムスがクッションの上にコントローラーを放り出した。
「お正月休みにでも入ったんじゃない? 僕らを放っておいてさ」
「……なら、何かしら言っとくのが筋だろ。今までこんなことなかったし」
 と、ナナシが吐き捨てるように言った。
「VRの調子が悪いんじゃない。ずっとログアウトに失敗してたしさ!」
「あの野郎が戻ってこなかったら、俺たちはスクラップだ」
「ナナシだって、心配してるよね。わざわざリビングで雑誌読むことないじゃない。待ってるんでしょ、監察官のこと」
「ああ。心配してるさ。俺の身をな。分かってるだろ?」
「ほら、アンタたち。どきな! 掃除機かけるから」
 とげとげした空気をはいはいはい、と蹴散らしながらミラが通っていく。アダムスが、「ちょっとミラ、セーブするまで待ってってば」と抗議の声を上げた。

 TOWER内の世界は、現実の世界とは時間の流れが違う。監察官も、何らかのバグでこれないのかもしれない……。
 言い訳はいくらでもあった。確かなのは、自分たちにとって、できることはただ時の流れに身を任せて、待つことだけ、ということだ。

 コーラル・ブラウンは監察官であり、HANOIたちは招集されたHANOIである。
 それ以外の選択肢はあっただろうか?

 代わり映えのない日々。献立はカレンダーの代わりとなった。昨日は何の日だったかな、ローストビーフの日、というように。
 今日の昼食は卵のサンドイッチ。
「あ、クソ。卵の野郎、つついただけで割れやがった」
 ジョルジュの横で、ローランドが悪態をついた。彼の手の内には潰れた卵が握られていた。
「すまんジョルジュ! 貴重な食材を無駄にしてしまったな」
「そのようなことはいい。誰しも失敗はする……。ローランド、疲れているか?」
「いや、俺は……そうだな、大丈夫だ! ジョルジュこそ疲れてはいないのか。あいつら、当番をさぼりおって……」
 ローランドはルーチンを強固に守るHANOIのひとりだ。毎日、扉の前に立ち、監察官の帰りを待っている。誰かがおいてやった椅子も使わずに、ただ立っている。まるで柱時計のようだとジョルジュは思うのだった。きっかり十二時に持ち場を離れて、そして一時間で戻ってくる。
「すまんな。俺はここで食べる。今日こそは司令官殿が帰ってくるかもしれん。お前は食堂に戻ってくれ」
「ローランド、お前はそのままでいい。しかし、少し話をしよう。対話を持つことこそが、この世界で我々が正気を保つ、唯一の手段だ……」
「とはいっても、何を話すべきか」
「そうだな。フローラの……フローラの話をしよう」
「誰だソイツは」
「架空の人間だ」

〝フローラはいつもまったくの好意から隣家の蘭の花に水をやっている。
しかし隣人は、蘭には興味がない。
フローラが蘭の花に水をやるのをやめると、蘭の花は枯れてしまうとしよう。
フローラが旅行にでかけて、水をやらなかったことで、蘭の花は枯れたとする。
蘭の花が枯れてしまったのは誰の責任だろう?〟

「その仮定は意味がないな」
 さいごまで聞き続けた後、ローランドはばっさりと切って捨てる。
「その仮定では、そのフローラとかいう女はただの隣人だ。隣の家の花なんぞには、責任がないのだろう。
だが、俺の知る限り……フローラは引き受けたのではなかったか?
フローラは曲がりなりにも、隣家の蘭の世話をすることを、自らの意思で受け入れたはずだ。その役割を放棄した分、逃れようがない責任は存在するはずだ。
それが仕事というやつだろう」
「土が腐っているとしても」
「……」
「水が、腐っているとしてもか、ローランド? その蘭は、たしかにフローラのおかげで生きながらえている。だが、それも一時的なものに過ぎない。しかしその花壇は隣人のものであって、フローラのものではないのだ」
「それでもだ。……よし、時間だ。すまん、俺はまた」
「番に立つのだろう、友よ」
「ああ。フローラとかいう女は知らん。しかし、俺は司令官殿は信じている。ただこれだけ待っても帰ってこんとなると、一発くれてやるのが礼儀というものかもしれないな……いや、冗談だ。ああ、俺は冗談が下手だな、こんなだから……。いや、じゃあな」
 珍しく軍事用が吐いた弱音はまたべきりと握りつぶされて消えた。

 これで何日になっただろうか。
 ジョルジュだけが気がついている。冷蔵庫に補充される食材、その組み合わせが、ひとつきでちょうど一周することを。
 けれど、ジョルジュは、片手で数えられるほどの食材と調味料があれば、皿の上に千の世界をつくる。それこそが己の使命であると、ジョルジュは固く信じている。
「あ、ごめんなさい、ジョルジュさん。でもボク、今日はチョット食欲が、なくて」
「aucun problème……問題ない」
 ジョルジュはほとんど手の付けられていないシンディの皿を片付ける。ダストシュートに鮮やかなレモンが消える。それは心の痛む出来事ではあったが、慣れた痛みだ。
 気を遣って、食べたくもないものを無理に胃に詰め込んでしまうよりは、より自然のことに思えた。料理において失敗はしないジョルジュであっても、このようなことはジョルジュの職能の範疇を超えていた。
 ナナシも、あまり食べはしない。「ごちそうさん」と言って、半分にラップをかけ、冷蔵庫にしまった。クレヨンもだ。クレヨンの場合は少し違って『おいしいもの あったら 監察官 帰ってくる かなあ』というようなものだった。
 いかに思いやりのあるHANOIたちではあっても、いつ廃棄されるか分からない状態で、結果を待ち続けるのはかなりのストレスがある。……そもそも「結果」とやらがもたらされるのかが判然としない。
 もはや、日々のルーチンを維持するのも難しくなりつつある。ノロイとアダムスが掃除をさぼって、その穴をミラやナナシが埋めた。料理当番ならば、ジョルジュが埋めることができた。
 最初こそ、「きちんとしろ」と叱りの言葉が飛んでいたけれど、「でも、これ、いつまで続くの?」という問いかけに応えるのは難しかった。「でもも、なにもないからね!」とミラが叱って、ルーチンは少し元通りになって、……またゆるやかに瓦解していった。少しずつ、少しずつ、ネジが緩むように日常は消えていくのだった。

 いつ締まるかわからないワイヤーが首の周りにまかれているような心地。

 薄い氷の上にはられたかけがえのない日常を維持することがじぶんの役割であると、ジョルジュは思っていた。何もない空間に日常を描くことこそが、強固な日常を作り出す。食事は一日に三回。そのルーチンを維持することこそが、今、この場で自分が出来ることだった。
 かのオーナーシェフ……ジョルジュの師、そしてかけがえのない父は言った。
 できることをしないということは、不作為は罪であるのだと。能力があって、それを行使しないということは、能力がなくてそれが「できない」ことよりも同等、大きな罪であるのだと。
 能力を持って生まれたからには、それを生かすのは使命だと。
 今、考えてみれば、それは「できる」人間の傲慢であったのかもしれない。
 がしゃんと、何かが割れる音が響いた。
「あ、申し訳ないっス! 貴重な食器なのに!」
「いいよ」
 ナナシがシンディを庇う。
「お前は悪くない。あの人が悪いだろ。監察官が直す『べき』だろ。どこほっつき歩いてんだかな」
「ボク、そんなつもりじゃあ……」
 けれど、と、ジョルジュは思う。
 もしも。
 もしも自分が「出来なければ」、この事態はもっと別の方向に向かったのではないだろうか、と。すまない、一言言って、内心を吐露する弱さがあったのなら……仲間たちはより強く、より結束を深めたかもしれない……。
 彼も、コーラル・ブラウンもまたそうなのだろうか。弱さを見せ、助けて欲しいと少しでも頼ってくれたのなら、自分だって、少しくらいは力になれただろうか。

「ん……」
 ノロイが、あまり起きてこなくなった。
「具合が悪いわけじゃないみたいなのよ~。でも、ずうっと寝てるのよね」
 キャメロンがため息をついた。遅く起きてきたノロイに、ジョルジュはホットミルクを沸かす。
 考えてみれば、監察官のマグカップはここにはない。割れてしまって、それっきりだった。無地の、なんてことのない汎用のカップこそが彼の席だった。けれど、それは彼の居場所がなかったことを意味しない。彼が来れば、誰しもが喜んで彼のために席をあけたのだ。互いの立場も忘れて、ただ人とHANOIとして、食堂で友情をあたためたのだ。いちばん彼に敵意を向けていたナナシですらも……。
 そうとも。私たちは彼を愛していた。コーラル・ブラウンに親愛の情を抱いている。彼に直して貰うために、新聞紙にくるまれた破片が食器棚の奥に収まっている。
 だが愛は、見えないものだ、オーナーシェフは言った。観測しないものは、存在し得ないのだと。
 ジョルジュは言葉よりは、皿に料理を載せる方が雄弁であると思っている。
「夢を見たのだ」
 ノロイは目元をこすりながら言った。
「夢を見たのだ。ノロイはもう寝ようか、寝まいかとうつらうつらしているのだぞう。
 夜には強いけれども……。
 そっちの夢の中では、監察官はちゃあんといて、シューニャを倒しに行くのだが……それで、ノロイを頼みにしているのだ。そっちの世界のノロイはなあ……ふああ」
「眠いんじゃないの?」
「うん、眠いのだぞ」
 うとうとしたノロイは、それ以降、目覚めることがなくなった。ただ、鼓動は動いている。けれども二度と目覚めなくなった。
 そうしてみれば、ずいぶんと機械の身体のように思えた。
「ねぇ、ジョルジュちゃんっ、アタシ、考えるのよ」
「……聞かせて欲しい」
「もしかしたらアタシたち、とっくに助かってるんじゃないかしら。アタシたちはバーチャルの上に再現されただけの、残った記憶のカケラなんじゃないかしら?
それで、ホントの世界のどこかのアタシたちはねっ、ちゃあんと助かってるってワケ」
「……」
「だから、アタシたちの正解は、こうやって、何もかも忘れて寝ちゃうコト! そうしたら、アタシたちの記憶は消えて……。
ああ。シューニャたち、あの子たちの言っていることも、そうなのかしら。アタシたちのこの世界が、ただのデータだったとするわ。そうしたら……」
「それでも、お前は、毎日を過ごすか?」
「だって、アタシたちがここにいることに、きっと、イミはあるはずじゃない?」

 あれから、いったい、何日経っただろうか。
 そろそろ、数えるのをやめてしまった頃だった。代わり映えのない本部に変化が生じた。

「貴様! 何者だ!」
「うわあっ、敵じゃねぇよ!?」
 やってきたのはDH堂だ。
 新しくもたらされた外からの変化に、HANOIたちは浮き足だった。
「よう、あんたら、元気にしてた?」
「外では、何日経ってるのさ? TOWERは? 監察官は?」
「監察官? おいおいおい。監察官、いねぇのかよ。困ったなあ」
 DH堂のウサギは頭を抱えた。
「時間経過は……さてな。どうだろ。ここの世界ってのは、外からは隔絶されたVRだからな。はてさて、何日経ってることやら……ね。
そろそろ本社が勘づいてる。だから、俺たちは撤退することになったんだ」
「そんな……」
「所長も、もう少しでここの通路を閉じるんだけどな。やっかいなバグが道を塞いでてな。あー、俺たちは戦えないから、手伝ってくれないか? こっちからだったら、大丈夫だろうし」
「どうする?」
 HANOIたちは話し合う。これからについてを……。
「何日経ってるか、教えてくれないのもおかしいんじゃないか」
「監察官の許可なく外出することは出来ん」
「で、でも……ここにいたって、どうしようもないっスよ?」
「監察官無しで行くとなると……バックアップも受けられない」
「僕は行くよ。外に出ないとならないし、監察官がタヨリナイのがいけないんじゃないか! それに、黙ってるのももうウンザリなんだ」
「ぼ、ボクも、ここにいるよりは……」
『クレヨン 行く! かんさつかん、きっと、まいごだよ』
 アダムスが名乗りを上げ、シンディとクレヨンも付いていくようだった。キャシーもまた、迷った末にこちらを選ぶ。
「ゴメンネ。アタシも、出来ることはぜーんぶやりたいの。魔法少女として、ねっ!」
「ティカは」
 メリーティカは首を振った。
「わたし、待ってるわ。だって、誰もいなかったら、監察官がかわいそうだもの。でもね……。でもね、少し眠くて。ここにある本を全て読んでしまったわ。もう、ここにはびっくりすることなんてないなって、思ってるの」
「寝ればいいさ」
 ナナシが言った。
「もし監察官が帰ってきたら、お前は起きるだろうし、監察官が帰ってこなかったら、ずっとそのままだろ。
だからどっちにしろ、そりゃ勝ち抜けだ」
「そうね、そうかも、おやすみなさい、ナナシ」
 そして、メリーティカが眠りについた。
「良い夢を、メリーティカ」
 白いシーツに、シルクのカバーの枕。頭をもたげたメリーティカは、完璧なビスクドールのような、ずいぶんと綺麗なシルエットをしていた。

 DH堂に行ったHANOIたちは戻ってこなかった。
 監察官がいないとするなら、戦闘はかなり厳しいものになるだろう。なによりも、枯渇するリソースを補えるのは、監察官その人であるから。
「連中、無事に脱出できたのかね」
「できることは、祈るのみだ……」
「で、結局、アタシもコッチに残ったけど。なんだか疲れちゃったねぇ」
 そういって、ミラがエプロンをたたんだ。
「ミラ。眠いのか」
「ああ、うん……ちょっと寝ようかな。……あのね。聞いてくれる。アタシのクローゼットの中に、刺繍のついたエプロンがあるんだけど、あれだけ。あれだけ持ってきてくれるかい?」
「Oui……承知した」
 ジョルジュはそう言うが、ミラの部屋のどこを探しても、そんなエプロンはどこにもなかった。それを伝えようとしたとき、ミラもまた長い眠りについていた。
 これを知らせに行こうと、ジョルジュが扉の前、ローランドのもとへと行った。そこでは、ローランドが眠りについていた。銃を構えて、扉の前で。石像のように立ち尽くしている。
「もたれかかっちゃ、戻ってきたら扉があかないでしょうがよ」
 ナナシはローランドを起こそうとして、諦める。
 これで、残ったのはナナシとジョルジュだけになった。
「見てるだけかよ、ジョルジュ」
「もちろん、手を貸そう」
「さいごに残ったのが俺で悪かったな」
「なぜだ?」
「……話し相手にもならねぇ」
「Au fait、……ナナシ。こういった思索はどうだろうか。答えはない……ただの思索だ」

〝フローラはいつもまったくの好意から隣家の蘭の花に水をやっている。
しかし隣人は、蘭にはさして興味がない。
フローラが蘭の花に水をやるのをやめると、蘭の花は枯れてしまうとしよう。

フローラが旅行にでかけて、(水をやらなかったことで)、蘭の花は枯れたとする。
蘭の花が枯れてしまったのは誰の責任だろう?〟

「これは、不作為に関する思考実験のひとつだ」
 ジョルジュに問われたナナシは、ただ一言、
「くだらねぇ」
 と吐き捨てる。
「俺は正直どうでもいいよ。
この世界がなんだって、別の世界ではどうとか、どうだっていいね。
ここにいる俺が救われてねぇってコトが、答えだろ。
だったらさ、はじめから水なんてやるべきじゃなかったな。その蘭は枯れるべきだった。はじめから同情で半端な水やりなんてするべきじゃなかった。
そうすりゃ文句も言われなかった。不相応なモンを与えるから、余計なモンを抱くんだよ」
「余計なもの、か」
「貰ってからブン取られるなら、最初からゼロの方がましだったな」
「期待しているのだな、戻ってくると」
「来ないさ」
「ナナシ、お前は、蘭がどのような花か、知っているか……」
「知らねぇよ。監察官サマじゃねぇんだぞ」
「ナナシ。料理というのは対話だ。相手がいなければ、対話は成り立たない。だから私が眠るときは、お前が眠りについたときになる……」
「俺は、俺はもう起きたくない。蘭ねぇ、……ティカなら知ってんのかな」
 そして、ナナシはゆっくりと眠りについた。

 この世界を観測するのは、ジョルジュだけになった。
 観測する者がいなければ、それは存在しないのだ、と、オーナーシェフは言った。
 ジョルジュは知っていた、毒を含んだ水をやるものの苦悩。思い詰めたコーラル・ブラウンの表情を。
 ジョルジュは、誰かのための供物でなければ皿は描けない。鏡の中の自分を見つめていたとして、変化は訪れない。他者からのかたらいがなければ。調理用具を一式しまい込むと、彼もまたゆっくりと意識をおろした。

2021.12.31

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