雑務用のホンキ

 ご近所付き合いは大切だ。
 コーラル・ブラウンの右腕として、HANOIの保護活動をしている身とあっては、周囲の印象というのもなかなかに馬鹿に出来ない要素である。だから、ナナシだって愛想を振りまく……とはいかないまでも、円滑な活動の運営のためにある程度、まわりに礼儀を払うのはやぶさかではない。必要経費と割り切っている。
 けれども、この善良なご近所さんのことは、ナナシはどうも苦手だった。
「だめですよ、ブラウンさん! あなたねぇ、また……そんなんじゃ、ナナシさんが困るでしょう!」
 ゴミ出しに行った施設長がなかなか戻ってこねぇな、と思ったら、厄介なご近所さんに捕まっていたのであった。
「俺です。……分別、どっかおかしかったですか?」
「あら、ナナシさん。いいえ、完璧ですよ。ただね、ブラウンさんがね、〝ぜんぶナナシに任せてます〟なあんて、おっしゃるもんですから!」
「め、面目ないです……」
「ブラウンさん、いつまでもナナシさんが一緒にいると思っちゃダメですよ。そろそろほんとに身を固めないと、ナナシさんだって安心できないでしょう?」
「……ハァ」
 ナナシにとって、施設長に「だから結婚できないんですよアンタ」と言うことばは、「でも、俺がいるじゃないですか」という下の句を導き出すための、いわば上の句なのである。何もホンキで施設長に結婚してほしいと言っているわけではない。
 ところがだ。このご近所のご婦人は、一般的でやや古い道徳観念に従い、施設長に「ホンキで結婚した方がいい」とか抜かすのである。
 相づちというよりはため息の「ハァ」だったが、ご婦人は我が意を得たりとばかりに頷いた。
 思い込みが激しくておしゃべりな、ちょっと苦手なタイプなのである。
 悪意がないのがまた厄介で、施設長もにこにこしながら眉を下げているだけだ。畜生、コンプライアンス、と心で唱える。……ナナシにしたって、苦手というだけで、嫌いではないのだ。ナナシを丁寧で「さん」付けで呼ぶくらい、HANOIに対しても親切な人だ。
 ご婦人は手に持ったバスケットの差し入れをおしつけつつ、ぽんと施設長の肩を叩いた。
「わぁ、パンですか! ありがとうございます」
 ……それにしても、施設長の締まりの無い顔!
 ナナシは、昼飯の献立の再考を余儀なくされた。一品減らすか。
「いくらナナシさんが優秀だとしても、ナナシさんにだってできないことはありますわよね? 私、心配なんですよ。雑務用だからってなんでもかんでもやらせてはお可哀想でしょう? あなた、炊事に洗濯、なんでもナナシさん任せだっていうじゃないですか」
「この人、裁縫はできますよ」
 助け船を出したが、無駄だった。
「それ以外はナナシさんですの?」
「……俺、好きでやってるんで……」
「ホラ!」
 なにがホラ、だというのか。
 この人は本当に、押しが強い。ほんのすこし、DH堂の所長を思い出すのだった。
 ナナシは、ほんとに好きでやっている。勘弁して欲しいものである。
「例えばね、ブラウンさん。差し上げたそのパンはね? うちの姪が焼いたのですけれど……」
「あ、そうなんですか!? わあ~! すごいや!」
 マウントまでとられた。畜生。
「どうですか。流石のナナシさんもパンは焼いたりしないでしょう? ね、ご家庭に手作りの味があるって良いものですよ。姪もちょうど独身で……ああー、良かったら、ご紹介しましょうか? 結構、のんびりっていうか、気が合うと思いますの」
 あっけにとられているうちに、なにやら話が進みそうになっている。急いで時間が無い旨を告げて、名無しは施設長を引っ張っていった。

***

 びったんびったんと生地をたたき付けるようにして、ナナシは生地をこねていた。
 バターを練り込み、いったんまとめる。
「な、ナナシ……何この音?」
「昼飯作ってます」
 まあ、最近はたしかに、そう。わざわざパン作りなんてやっていなかったかもしれない。けれどもやらないだけで、やれというならやってやるくらいには雑務用HANIOは起用だった。
「うちにドライイーストなんてあったんだね」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 ゼッポレ、パニーニ、そして、ピザ生地なんてのはお手の物。施設長はそれをパンには数えないのかも知れないが、これだってれっきとしたパンである。そう言ってやると、施設長は「すごいや」、と予想のついた出力を返した。
「……ナナシ、なんでもできるなあ」
 パンが続いて飽きるかも知れないが、それだってプライドにはかえられない。少し気の毒ではあるので、サンドイッチの具は工夫するつもりだ。切れ端のトマトをちょろまかしつつ、ナナシはため息をついた。
「あの話、ホンキなんですかね」
「あの話ってなんだっけ」
「姪御さんを紹介するとかナントカって話ですよ」
「ああ!」
 問わないと出てこないくらいの認識か、と、少しだけ溜飲を下げたのだった。
「……姪御さんって、どんな人なんですか? 聞きました?」
「ええとね、それが。僕より十も下なんだよ!」
 ばん、と、思わず力が入って丸めた生地を潰す。
「十下はないですよね? 十は」
「まあねぇ……十も違うとねえ」
 本音を言えば、相手が施設長じゃなければ、年の差結婚しようが、まあ、どうだっていい。好きにしろといいたい。未成年ならちょっとどうかと思うが、施設長はもう良い年である。
 これは、パン生地をうまいこと変形させるための圧である。
「それでね、音大出のひとなんだって……」
「……」
 ナナシはびたんと生地をたたき付ける作業を再開した。
「ナ、ナナシは歌えなくていいからね!? そんなこと、求めてないからね?」
「じゃあアンタが歌ってください」
「どういう理屈なの?」
「歌って! 早く!」
「で……で、できたて~パンは~おいしそうだな~……」
 剣幕に負けて、施設長はそろそろとできたて歌を歌い始めた。ひとりミュージカルである。
「へたくそ。もういいです」
「ええ……」

 施設長の歌声を聞いたからか、食パンはいい感じにふっくらとした。
「わあ、すごいやナナシ! 食パンって、家でも作れるんだね……」
「もらったやつとどっちが美味しいですか?」
「……」

***

「この前はありがとうございました。これ、差し入れです」
「あらまあご親切に! まあ、手作りですの!? ナナシさんはやっぱり何でも出来ますのねぇ」
 ご近所付き合いは大切だ。
 だから、ナナシは、できたての食パンを持っていった。もちろん完璧な奴をである。
 ご婦人はにこにことして受け取った。そういうところを見ると、やはり悪い人間ではないのだ。
 お返しに、と、パチンと花を切って、すっと差し出してくる。素直に受け取った。
「ごめんなさいね、ナナシさん、うちの姪っ子の話なんですけれども……」
「ああ、その件は結構です」
「結構なのは結構なのですけれども、ね? あの子、もうとっくにほかの殿方と同棲しているっていうんですよ! 今時の子ったら、ほんとうに信じられませんわね。悪いんですけれど……コーラルさんにもお伝えしてくださるかしら」
「ああ、はい。なんだ。お幸せにどうぞ」
 気分が少し上向きになった。
「それで、そうなると。やっぱり施設長が気の毒でしょう? 知り合いをあたってみたんですけれどもね? ちょうどいい年頃のお嬢さんがいて。こんどは年もちょうどよくって」
「……」
「なんでも、お華を習ってらして……ブラウンさん、お花、好きでしたわよね?」
「ハァ」
 まずは土作りからか、とナナシはホームセンターに行く決意を固めていた。

2021.04.24

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