フラれろ施設長

 HANOI保護センターのとある休日のことである。
 メリーティカは重い図鑑の本のページをめくり、ナナシはひたすらにキッチンでグリルの網を洗っている。
 雑念を払うような繰り返しの作業は、二人にはほとんど精神統一のための儀式だった。
 そうやって、なるべく考えないようにしている。
「コーラル、今頃にこにこデートかなあ」
 ぴたりと、クレヨンの一言でナナシとティカの手が止まる。
 今日、コーラルはなんとなくいい雰囲気になった女性と出かけている。相手は、講演会で知り合って、熱心に声をかけてきた女性だった。結構押しが強そうなきらいがあるが、まっとうな女性だ。
「行ってくるね!」と、傍目からもうきうきしていたものである。
「いいなあ……クレヨンも映画行きたいなあ」
「こんど行こうね。チュロス食べたいなあ……」
 クレヨンは足をバタバタさせ、窓とにらめっこをしている。時計を見てはため息をつき、ふるふると首を横に振る。
「おでかけ、いつまでかなあ」
「晩ご飯は食べてろつってたっけな。せっかくだからぜいたくしてやろうぜ。何食べたい?」
「クレヨン、今日はハンバーグがいい」
「いいね」
「じゃ、ハンバーグで」

 結局、コーラルは晩ご飯には間に合わないようだった。ティカがメールを読み上げると、ナナシはいっそう力強くハンバーグのタネの空気を抜いた。手間ヒマ、愛情、こもった感情はともあれ、かけた時間の分だけハンバーグは美味しく煮込まれていった。
 クレヨンのフォークが、ブロッコリーを突き刺して止まる。クレヨンは、フォークの先をじっと見つめて転がしている。
「やっぱり、クレヨンいやだなあ……」
「……」
「……」
 ナナシとメリーティカは無言で料理を口に運んだ。
「コーラルいいひとなのに。あの人だって優しくって、きっと悪い人じゃないのに。うー。クレヨンにもいやなこといわなかったし。でも、ひどいけど、クレヨンいやなんだあ……」
「そう」
「そうか……」
 わかる……。正直、クレヨンの気持ちは痛いほど分かる。
 クレヨンの前だからナナシとティカは大人ぶっているが、ぽっと出の登場人物にコーラル・ブラウンをとられるかと思うと、相当なストレスなのだった。
「いま、ストレスすっごいよ。きっと」
 10年だぞ、10年。
 一緒に積み重ねてきた10年の重みを、たかだか気の合う女性だからといって、横からかっさらっていく権利があるというのだろうか?
 と思いながらも、HANOIたちはコーラルのことが大好きだったし、「コーラル・ブラウンの人生を邪魔してはいけない」とも思うのである。
「うう、クレヨンわるいこだなあ。食べ終わったら……ちゃんと笑顔なるから、ごめんね」
「……」
「……」
 ナナシは何度かくだらない用件で電話してやろうかと思ったし、メリーティカだってずっと帰ってきたら探りを入れてやるべく、頭の中でシミュレーションを重ねていた。
 とはいえおおっぴらに邪魔をすることもなく、ひたすらに念を送るだけである。
「まあ、たまには息抜きも必要ってことだな……」
「うん……」

「!」
 不意に、クレヨンがぱっと顔を上げる。クレヨンの目がキラリと輝いている。クレヨンはひといちばい人の気配に敏感なのだ。
 少し早いが、コーラルが帰ってきたのかもしれない。
 続けて、ガチャリと玄関の扉が開く音がして、その推測は確信に変わる。
「た、ただいまー……」
 表情を見るとわかる。どうやら、順当にフラれたらしい。
「おかえりなさい」
「結構早かったですね。晩ご飯食べてきました?」
 ナナシはするっとコーラルのコートを受け取る。静かに畳んで抗菌スプレーをふりかけておくのだった。
「あーー、そのまえにフラれちゃった。映画の、お話の内容が、あんまり分からなくて……話が弾まなかったんだよね。はあ。……適当に何か温めて食べようっと」
「いえいえ。やってあげますよ。ちゃんとアンタの分も作ってありますから」
「えっ、いいの……?」
「元気出してくださいよ」
 とん、とナナシはコーラルの背中を叩く。ついでに、ナナシはスキップでもしてやりたい気分だったが、これは気分だけなので省略である。
「紅茶淹れてあげるね」
「ありがとう……! ナナシ! ティカ!」
 やっぱり君たちが居てくれて良かったなあ、の言葉に、二人は慎重にうなずいた。



 深夜。
 ナナシは、台所でもそもそと何かしているメリーティカと出くわした。
「……あっ」
 パチンと電気を付けると、メリーティカは後ろにそそくさと何か隠す。
「ナナシ。ううん、ちがうのよ、これはね……うん、これは……」
「……」
 メリーティカは、観念して机の上に持っていたものを置き直した。食べかけのケーキだ。
「別にね? 別に、コーラルの不幸をお祝いしてるわけじゃないのよ? でも……でもね……」
 もじもじとするメリーティカのしぐさは、とても可愛らしい少女だったが、ふっと息をつくと目を伏せる。
「取り繕ってもだめね。嫌なんだもん。すっごく嫌」
「嫌だよな」
「嫌だよね? 嫌だよね」
 ナナシは深く深く頷いた。
「……俺たち頑張ったよな。今までだってひどい目にあってきたし……いいんじゃねぇの、このくらい。表に出さなきゃさあ」
「そうだよね。そうだよね? わたしたち、がんばったよね?」
「別に俺だって手は抜きませんしね? 俺だって朝は起こしてやりましたし? 今日だってワイシャツにアイロンかけたの俺だし? それでだめなら最初っから縁がなかったんすよ。ざまあみろよ」
「……」
「……」
「……ナナシも、ケーキ食べる?」
 ナナシは返事の代わりにキッチンの棚の下段をごそごそやった。
 シャンパンが出てきた。

2021.03.24

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