名刺をぽっけ

「君、うちで働かないか?」
「はあ……はあ?」
 パーティーのさなかのことだった。ナナシは高そうなスーツを着たお偉いさんから声をかけられた。お偉いさんは名刺を取り出すと、ナナシからボールペンを借りて、さらさらと後ろに何か書くと――半ば強引に、ナナシの手に押し付けてきたのだった。
「よし、これを持ってきてくれれば、採用担当に話は通しておくから」
「はあ。……何かの間違いじゃあないですか? 俺はしがない雑務用ですよ」
「俺は雑務用だろうとなんだろうと、使える人材は使って行く。もちろん正当な評価は約束する。ナナシ君! ぜひ君と一緒に仕事してみたいんだ」
 そう言って、彼はポンとナナシの背中を叩くと、あっという間に去っていった。
 なんともエネルギーに満ち溢れた人間だった。
 世界的な企業のCEOだ。
 施設長が後ろで「ひょえ……」と情けない声を漏らした。シャンパンを二つ(自分とナナシの分)を持って固まっている。

 なんかの間違いだろ……と思いナナシはそのことは気にしないでいたのだが、施設長の方はそうでもないらしかった。さっきからじょうろを持った施設長が、執務室に戻らずにナナシの周りをうろちょろしているのだった。
「そいつらもう水やりましたよ」
「あっそう?  ならいいけど」
 ならいいけどもなにも、植物の世話は施設長の仕事ではない。「それじゃあ、コーヒーを淹れてくるね!」と台所にはけていった。それはいいが、あまり勝手にものを動かされると困る。使い終わった後の後片付けも甘い。ナナシはふきんで水滴を吸い取った。
 正直仕事の邪魔だった。
「はい。ナナシ君の好きなコーヒー」
「……ああはい、どうも」
「それにしても、すごい人から声をかけられたもんだね、ナナシ」
「そうっすね……」
 企業名は知らないとしても、サービスの名前を聞けば誰もが「ああ」と言う。要するに、かなりの大物だったのだ。
 CEOはかなりの実利主義者であることも有名で、能力があるならHANOIも人も平等に遇する……という感じの人物である。逆に言えば、無能はばしばし切っていく、そんな過激な人物である。
 すべてのHANOIに対しての保護を考えるHANOI保護施設とはまた立ち位置が違うが、強力な味方であることは間違いない。つまり、HANOIに自分の生き方を決める権利があれば、自分の方も素晴らしい人材を引っこ抜くことができるという……そういう利害関係である。
 あと、かなり若い。大学生のころにいくつかの会社を立ち上げては売却していた実力派である。
 生き馬の目を抜くような業界で生きている人間が、HANOIをきちんと遇したほうが儲かるとみているのは心強い。自分への評価はともあれ……。
「ちょっと名刺見せて。へぇ~……この電話、なんか私用の電話っぽいよね」
「そうですね……ま、リップサービスでしょ」
 言いながらも、実際働きたいといえば雇ってもらえる……ような気がする。余計なお世辞は言わない、というよりも、言質を取らせないタイプだった。雇うといえば雇うだろう。
「いくら出すって言われたの?」
「だいたいこんくらいっすね」
「ふーん。そ、そうなんだ~」
 別に隠すことでもないので正直に伝えると、施設長の表情が若干引きつっていた。まあ、うちでは絶対にムリな数字だろう。
 能力が評価されるのは素直に嬉しい。それだけコーラル・ブラウンの役に立っているということだ。
 施設長は職員に呼ばれ、トコトコと去っていった。
 ……そういえば名刺を返してもらっていない。



 午後、ナナシは施設長に執務室に呼び出された。
「なんですか、急に改まって」
「うん、ナナシ君」
 施設長が目いっぱい椅子をきいきいさせて珍しく威張っている。机の上のそろばんをぱちぱちはじいていた。あれは鬼門の国のケイサンキだ。
「なんですか?」
「ナナシ君も頑張ってくれてることだし……ちょっとだけどお給料を……」
「いらないです」
「ああー」
 くいっと眼鏡をあげる施設長を無視して、そろばんをざっとひっくり返す。ナナシが何度言ってもこうして給料を渡そうとしてくる。
「給料はいらないです。それより、名刺返してくださいよ」
「え、名刺~?  はーい」
 はいどうぞ、と渡されたのはナナシの名刺である。
「ちょっと……」
「なんのことかなあ?」
 明らかにしらばっくれているが、ちらっと視線がポケットに行った。……嘘がつけない人間ってたいへんだな、とナナシは哀れにすら思うのだった。
「なんですか。引き抜かれやしませんよ別に」
「そうだろうけどさあ」
「……大丈夫ですよ。転職しやしませんって」
「そう?」
「アンタに追い出されたら別ですけど……」
「……」
 真面目にじぶんが転職すると思って施設長が焦っていると思うと、ナナシは愉快だったのだ。それだけ必要とされているというのは、素直に嬉しい。
 ナナシは、もちろんこれからも、これまでも、どこへも行く気はない。
「大丈夫ですって。無駄な心配しないでくださいよ?」
「だ、だいたい君もスキがあるんじゃないの」
「は?」
「ニコニコしてたし」
「はあ~~~?」
「すごく機嫌が良かったし、挨拶も完璧だったし、張り切ってお仕事してなかった?」
「いや、してませんけど……」
「そうかな~? 仕事辞めちゃおうかなオーラ出してなかった?」
「なんですかそれ。俺が悪いってんですか?」
「そういうんじゃないけどさあ……」
 施設長がやたらめんどくさい。
 呆れ半分、すこしむずむずするような奇妙な感覚半分だった。
「そんなに心配ならお願いすれば? いいですよ。聞いてあげます。はいどうぞ」
「………………やだ」
 施設長がプイとそっぽを向いた。
「は?」
「ナナシ君が自分で決めて自分の意思でここにいてくれないとだめです」
「は?」
「わかってるよ……。ものすごく待遇はいいし、そっちのほうがナナシの能力が生かせるかなとは思うんだよ。でもねえ、ホントにいやなんだよ……」
「…………ガキかよ」
 縮こまっているのがあまりに情けないので、ナナシはほんの少し歩み寄ってやることにした。
「つーか、アンタが側にいてほしいって言ったじゃないですか? どこでもついてきますって」
「ほんとにぃ? じゃあ、はい」
 ようやく施設長が名刺を返してきた。慎重に扱われたそれは、しわ一つついていない。
 破り捨てでもすればいいのに……。それができないのがまた、ナナシがここにいる理由でもある。
 律儀に返されたCEOの名刺を受け取ったとき、ナナシはちょっと笑ったような気がする。

2021.07.24

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