にじむ言葉

利きクレヨン大会に参加したときの作品です。 丸岡さん、読んでくださった皆々様、ありがとうございました!


 これはまだしゃべれないクレヨンが、またしゃべれるようになるまでのあいだのお話。あとから懐かしんで「そういえば、そんなことがあったっけ!」と話すうちの一つのエピソードだ。
 昔しゃべれたクレヨンは、今は話せなくて、でも、きっと、あとから大丈夫になるね、というなんとなくの楽観的観測のあるころのおはなし。
 それを希望という。

 だからこの話は、現実世界で、クレヨンが保護されてからの話だ。監察官ではなくなったコーラル・ブラウンが新米のHANOI保護施設の施設長になって、あくせくやっていたころ。

 トゥルウルルウルルル、トゥルルルル……。

 電話が鳴っている。
 クレヨンはお絵かきの手を止めた。
 静かに耳をそばだてていたけれども、3コール目で立ち上がった。

 HANOI保護施設の施設長コーラル・ブラウンが借りた家には、こんなに進んだ時代でありながらもなんと『固定電話』なんてものがあった。
 本来ならばしゃべれないクレヨンは電話に出なくても良いと言われているのだけれど……。今、自宅にはクレヨンのほかには誰もいなかった。
 そして、クレヨンはどうしてか、その電話には出ないとならないような気がしたのだ。
 ディスプレイには、『コーラル ケイタイ』と書かれている。やっぱりコーラルだ、と、クレヨンはちょっぴり安心した。

 トゥルウルルウルルル、トゥルルルル……。

 出るか出るまいか少し悩んで、えいや、受話器を持ち上げる。
「あの、もしもし?」
 コーラルの声は、いつも通りだけれども少し緊張しているような気がする。
 さて、どうしよう。
 クレヨンはちょっと考えて、コン、と受話器をたたいてみた。
「ええと。コーラルだけど」
 コン。
「……く、クレヨン?」
 コン!
 弾むような音が出た。つられてかコーラルの声は少し安心したようになる。
「ああ、よかった。ええと、ナナシはいる?」
 いない。クレヨンはまたちょっと考えて、ふるふると首を横に振って、それから、コンコンと受話器を二回たたいた。
「そっか。いないんだね」
 ちょっとがっかりした声に、クレヨンは少しムっとする。
 ナナシは、今、HANOI保護施設からの呼び出しを受けて出かけてしまっていた。「それじゃあ」、と、電話を切られそうになった気がしたので、クレヨンはコンコンコンコンコンコンと何度も受話器をノックした。
 役に立てないことかもしれないけれど、ちゃんと、どういう用事なのか知りたい。役に立ちたい。ここで画用紙を掲げるならば、『クレヨン 伝言板 できるよ』と言っていたことだろう。
「ああ、ごめんごめんごめん、違うんだよ……」
 根負けしたコーラルがすごく申し訳なさそうな声を出した。
「……あのね、あのねぇ。クレヨン。……いや、ああ……その。すごく恥ずかしいんだけど、駐車場で転んでしまって、腰をね……打ってしまって動けないんだ……。いや、大したことはないんだけど、立てなくってね……誰もいなくて。それで、ええと。あー、大丈夫なんだけど……」
 それは一大事だ。
 クレヨンは、受話器をごろっと転がしたまま、ぱたぱたと自分のカバンを探った。クレヨンもスマートフォンを持っている。子供用のスマートフォン。普段は主にメッセージのやりとりをしたり、画用紙がないとき、クレヨンからのメッセージを打ち込むために使っている。たまに着信があるときはあるけれども、クレヨンが電話のマークを押したのは、このスマートフォンをもらってからはじめてだった。
「だからねー、ええっと、クレヨン? ……クレヨン?」
 クレヨンはスマートフォンを操作すると、電話口にスピーカーフォンにしてくっつける。
「はい、こちら緊急通報用ダイヤルですが。事件ですか、事故ですか」
「クレヨン!? あ、はい、ええと……!?」



 リビングに一人残っているクレヨンは、勝手に冷蔵庫を開け、ソーダを取り出してごくごくやっていた。テレビもつけっぱなし。お気に入りのDVDを流して、あと、二十一時を過ぎたけれどもドーナツを食べている。
 結局、コーラルは、つながった電話で事情を話し、無事、救急車に回収されていったらしい。
 大したことはなかったようで、明日には帰ってくるというけれども……。今日は大事をとって検査入院である。付き添いはメリーティカが行った。

 ガチャっとインターフォンなしに玄関の扉が開いて、クレヨンにはナナシだ、とわかる。でも、なんだか玄関まで出迎える気にならない……。
 一応、『おかえり』は言うけれど。
「ただいま……ってなんだ。パーティーか?」
 ナナシはコンビニの袋を手から下げて帰ってきた。「なんだ、なんもねぇのか」とティカが聞いたらものすごくツッコまれそうな発言をして、「まあそうだよな。わざわざ飯作る気にならねぇよ」と言って、コンビニのパンを取り出した。
「どれかいるか?」
 ナナシが机の上に広げたパンを、クレヨンはふんふんと物色した。
 ピーナツバタークリームサンドにすることにきめる。
『ありがと ナナシ』
 クレヨンが選ぶと、ナナシは残った中から自分の分を選んで、残りをまた袋の中にしまった。
「こういう飯も懐かしいな」
 なつかしい。クレヨンも思う。
 TOWERから出て、皆で暮らし始めたばかりのとき……はじめて、現実の世界で全員がそろったとき。抱き合って再会を喜んでいたら、もうすっかり夜だったものだから……取り急ぎ、コンビニに寄ってどさどさと菓子パンを買った。皆もすっかり疲労困ぱいで、何が必要か誰も分からなくて、それで、コーラルが手当たり次第に買ったパンを、数日かけてみんなで食べたのだ。
「身体に悪い」とかいいながら……。
 たまにはそんな日もあるのだけれど、流石に今は三人が目を光らせているから、三度のご飯をぜんぶコンビニで済ませるようなことはない。
「今日はお手柄だったな、クレヨン。通報したの、お前だってな」
『ありがと ナナシ』
「さっきの画用紙と同じじゃねぇか」
 ばれた? とクレヨンはちろっと舌を出す。それからふうっとため息をはいた。
「……荒れてやがんなァ。お前、役に立ったろ?」
 クレヨンは、画用紙に向かうと、書いては消して、書いては消してを繰り返す。ほぼ空になったクレヨンのコップに、ナナシがソーダをそそぐ。クレヨンはコップを一気に持ち上げると、ごくごくと飲み干した。
『コーラル がんばり が すぎる!』
 どんっと机にスケッチブックをたたきつける。
 だよなあ、とナナシはさして興味もないだろうにテレビに目をやる。それから、音量をちょっとだけ下げた。話を聞きますよ、というように……。
 クレヨンは何か言おうと思った。けれども、スケッチブックの上にはどうしても何も乗らない。ただ、ポタッと涙が垂れた。
 ナナシはテレビをずーっと見ている……ふりをしながら、タオルを差し出す。
「世の中な、どう頑張っても、あるもんで済ませなきゃならねぇことがある。お前は持ってるもので、うまくやった。最大頑張った。それでいいよ。よくやった」
 クレヨンはコクコクとうなずいていた。そのたびに大粒の涙がぽたぽたと落ちて、スケッチブックがにじんでいく。ロウの混じったクレヨンの上、塗りつぶされたクレヨンの字を避けるようにして涙はにじんでいった。

『――っ』
 言いたいことはたくさんあった。叫び出したいくらいに。頭の中には言葉があるのに、喉のところでは出てこない。

 転んだって聞いたとき、とても心配だった!
 声が出せたらよかった、と心から思った!
 あのときじぶんが「わかった」って言って電話を切ったら、コーラルはいったいどうするつもりだったの。
 ケガしてて、倒れて、気がついてもらえなかったらどうするの。気がつかなかったらどうすればよかったの。
 どうして自分の声は壊されてしまったの。

 声が出せたら、と思った。声が欲しいと思った。きっと、あのときほど強く感じたことはない。コーラルが助けてって言えないときに、代わりにちゃんと、大きな声で、言いたい。言ってあげたい。
 助けてって。
 コーラルも、クレヨンに泣いていいって言ってくれたから。
 自分だって、コーラルに返したい。

 言いたいことはいろいろあった。けれどもそのどれも言葉にならない。文章に書き起こそうとしても、口で言う「心配した」と字で書く「心配した」はちがう。例えばティカが言う、口で言う「そういうところが嫌い」は、いろんな意味を含んでいて、たとえば心配だったとか、ちょっと怒ってるのとか、ちゃんと愛しているとか、そういうことがぜんぶ詰まっている。でも、クレヨンが書いてしまったら、それは永遠に消せない文字列だ。
 どんなに丸く書いたって、違う。
 それが悔しかった。

「俺も時々思うぜ。軍事用に生まれてたらとか。調理用に生まれてたらとか」
 ナナシも?
 クレヨンは書こうとして、スケッチブックがぬれていて書けなかったのだけれど、どうやらナナシはたしかにクレヨンの言葉をくんだらしい。うなずいた。
「知らないのか? 思ってるよ。人間サマだってな。なあ、夢見るのは悪いことじゃないと俺、思ってるんだぜ。こっち来てからな。……先に寝るぞ。おやすみ」
 と言って部屋に戻っていった割には、クレヨンが次の日に起きてみたら、食卓はすっかり片付いていたのだけれど……。



 クレヨンはその日、イルカになる夢を見た。
 海の中。目は、何も見えない。でも、じぶんがイルカになったのは分かったから、不思議だった。この生ぬるい空間の先にあるのが、水だとわかる。
 ごぽごぽ……。
 動物になる夢を見るのは初めてだ。
 他の何かにホンキでなれると思ったことはない。なりたいな、と思ったことはあったけれど。
 クレヨンは幸せだった。ぐんぐんと広い海を泳いでいった。自由に、自由に。
 ぶくぶくと口から泡が漏れた。周りは、ひんやりして気持ちが良かった。海藻のにおいがした。息を吐くと、泡が生まれた。
 輪になって、上に登っていく。
 しばらくバブル・リングを作っては、くぐっていて遊んでいたのだけれど、不意に寂しくなる。そう。みんながいない。
 みんな、どこにいったんだろう。
 くらやみでひとりぼっち、と思いそうになったとき、クレヨンはふと、メリーティカが教えてくれたことを思い出す。
 イルカはね、すっごく賢くてね、超音波でモノの位置を把握するのよ。
 きゅう、と鳴いた。不格好な鳴き声だった。
 でも、鳴いた。クレヨンは鳴いた。それから返事を待った。
 耳を澄ませると聴こえてくる。誰かが、呼んでる。かすれたピイピイいう音は、誰かのおしゃべりの声だろうか。必死に返事をした。みんながいるという確信があった。だってクレヨンは今、自由で、幸せだったからだ。おりの中にいないから。それじゃあ、みんながいる。それは確信だ。声じゃないけれども、淡い振動で意味だけを知る。
――ああ、そんなところにいたの! クレヨン。みんな、待ってたんだよ。
 クレヨンは高らかにピイッと鳴いて、ここにいるよ、と返事する。
 ただの音だけれども、いろんな意味がこもっている。会いたかった。心配しちゃった。ちょっと泣きそう。……それから、目いっぱいの大好き!



『イルカ なった!』 
 クレヨンは、次の日はもうにこにこに戻っている。枕がぬれていたのだけれども、ナナシは「あっそ」と言って、それについては何も言わなかった。 
 泣けないより泣ける方がいい。保護施設の新米施設長サマとは同じ意見だった。
『イルカさん なって みんなと おしゃべり したよー! ピンクの イルカ ちゃんと いたよ! コーラルも、ティカも、いたよ』
「へえ。……施設長、なんつってた?」
 クレヨンはちょっと考えた。あれはなんて言っていたんだろう?
『おなか すいた!』
 ぐう……と丁度クレヨンのおなかの音が鳴って、ナナシは思わず噴き出した。クレヨンはぺちぺちとたたいて抗議する。
 そこには、おはようだとか、今日も会えてうれしいだとか。そういう意味もこもっている。

 これはまだしゃべれないクレヨンが、またしゃべれるようになるまでのお話。
 まだしゃべれやしないのだけれど、皆がクレヨンに耳を傾けているから、誰が何を言っているかはなんとなくわかるし、クレヨンだって黙っているわけでもない、そういうころのはなしだ。

2022.04.10

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