ピッピッピピーピッピピピー
ピッピッピピーピッピピピー。
「ひえっ」
唐突に聞こえてきた笛の音に、職員は思わず立ち止まった。抱えた書類が干したシーツがたなびくように、風に乗って散っていった。
HANOI保護施設――TOWER of HANOIの廊下に、陽気な音が響いている。ピッピッピピイピーヒョロピ、それは時に強く、時に弱く、節を変えながら、ピロピーピッピッピピピと軽やかに鳴り響いている。
「こら、クレヨン! 笛!」
ピ。
施設長の静止で、クレヨンはその場に急停止する。両手をぐるぐると回してバランスをとると、コテンとその場にこけるポーズをとった。それでもって職員と目が合うと、あ、しまった、と言う顔になって、普通に立ち上がると、施設長と一緒にせっせと書類を集めてくれた。声を失ったクレヨンは、たいていはスケッチブックを持っているはずなのだけれど、今日は手ぶらだ。
ピピッピピ……、と申し訳なさそうな音が鳴っている。
「あ……ごめんなさい?」
ピッ。
「君。ごめんね。ケガはなかった? クレヨン、……笛をくわえてたら転んだとき、危ないよね。それと、廊下は走っちゃだめだよ」
ピピッピ、ピッピーーー……。
クレヨンのほっぺが膨らみ、笛を鳴らしていた。首からさがった銀色の笛が揺れる。
「わかった?」
ピッ。
わかった、と言ったらしい。施設長コーラル・ブラウンはにこりと顔を傾けて笑っていた。
***
『つまるところ発声というのは、ブラウンさん。元々、機械がする必要はない呼吸の二次作用なんですよ。なくても生きていけるし、なかったら、そのように適応するんです』
通訳を介して、コーラル・ブラウンは重苦しい気持ちで技師の言葉を聞いていた。世界最高峰の技術を持つと言われるHANOI技師をもってしても、クレヨンの手術は「難しい」部類のものらしい。
「それじゃあ、クレヨンがまた話すのは……」
「難しい……そうです」
通訳のHANOIは、一瞬だけ言葉の合間に同情をにじませた。けれどもそこはプロであって、淡々と言葉を続ける。
「もとのように戻すのは難しいのでしょうか?」
「修理は可能です。ただ、この検査結果を見るに、かなりひどい熱損傷を受けているせいで、回路が癒着しています。……全ての回路を元のようにつなぎ合わせたとしても、まず、回路が生きているのかどうか……。最大限直しても、それ以上は無理だということがあります。もちろん、私としても彼女に声を取り戻してほしい、そう思ってはいます」
「……」
「発生装置を埋め込んで、外部からの入力に応答する……『それらしく』することが一番簡単で、お金がかかりません。思うとおりには喋れませんが、定型文を登録しておくことでそれなりの運用は可能です」
「それじゃあだめなんです。あの子は自分の〝声〟が欲しいんです。あの子の周りには、あの子の言葉を待ってくれるような辛抱強い人たちばかりだけど、どうしたってラグがある。彼女には、音じゃなくてじぶんで喋る声が必要なんです」
通訳が話し終えると、技師が身を乗り出して長いセンテンスを話し始めた。真剣なやりとりが行われている。
「なら……」
かかった時間のわりに、その話はずいぶんと簡潔だった。通訳の額を汗が流れて行って、ことばのニュアンスをすこしでもあやまってなるものか、そういう気概が感じられた。
***
「はい、クレヨン」
『?』
HANOIの技師……この場合はHANOIを治療する技師、という意味だ。相談から帰ってきたコーラルは、メリーティカの分とは別の、クレヨンに小さな包みを渡した。首から提げるひものついた、銀色の笛だ。
『! これ、なに?』
「これはね、クレヨン。君への贈り物だよ。ちょっと特殊な笛でね。これならクレヨンでも音が出せるかもしれない……頑張ったら」
フウー、と、かすれた息はあったが、それだけだ。メリーティカが受け取ってピイ、と鳴らした。
『これは、訓練用の笛です。これで、発声の訓練を行います』
……これが上手く吹けなければ、もとにもどすのは難しい、と、技師からは言われている。そして、それはかなり運がいる。それも、努力の上に……。
(こんなに頑張っている子に、もっと、頑張ってねだなんて……)
クレヨンには事情を話していない。声が戻るだなんて、余計な期待を持たせてとりあげるのは、なによりも残酷なことだからだ。メリーティカとナナシもそれに賛成した。
『音 ならない ならないよぉ』
クレヨンはしょんぼりと肩を落とす。メリーティカが口からぽろりと落っこちた笛を口元に持ってくる。
「きっと大丈夫よ。もう一回やってみて? 私、クレヨンの音、聞きたいな」
フュウと、素通りする音がした。
「……練習すれば、音が鳴るようになるかもしれない。最初は上手く出ないかもしれないんだけど……これで、いざというときに誰かのために助けを呼んだりだとか、そういうこともできるかもしれない。クレヨン。頑張れるかい?」
コーラルがどうして厳しい顔をしているのか、クレヨンには分からない。何か大切なことを話そうとしているのは伝わった。クレヨンはぶんぶんと首を振ってうなずき、きりっとした。
『クレヨン がんばる がんばるね』
***
ピッピッピピーピッピピピー。
「……おはようクレヨン……」
ピッピッピピーピピピピー。
「言っちゃなんですけど……なんというかその……」
「うん」
クレヨンの成長は目覚ましかった。
一カ月もしない間に、クレヨンは見事に笛を使いこなしていた。さりげなく段々と重く、鳴りにくいものに取り換えていったのだが……。
ナナシとコーラルは、ここのところピッピッピピーピッピピピーに夢まで追いかけられていた。クレヨンが笛を吹いていない間も頭の中でずーっとピーピー鳴っているのだ。
ピッピッピピーピッピピピー。
ピピピッピーーピーピピピ。
ピピピピーッ。
「ああ……でも、クレヨンが幸せなら僕は……」
「……アンタ言えないでしょ。俺から言っておきますね」
「ごめん、ナナシ……」
ナナシがつかつか歩み寄って、クレヨンと目線を合わせた。
「クレヨン、それ、いいよな。でも、朝……あさ、7時から……いや、9時からな。できれば」
ピ………………。
「……家ならいいけど」
「ナナシ……」
ナナシですらはっきり言えなかった。コーラルも、ものすごく気持ちは分かる。声を奪われたあの子から音まで奪い取るなんて、そんなことできない。いとも簡単にやってみせはするが、ここに来るまでにずいぶんな苦労を重ねていた……。
クレヨンがピピ! ピピピッピーーピーピピピーーーーーーーーーーーとやっていると、メリーティカがリビングの扉を開いた。
「おはよう。クレヨン、ちょっと静かにしてもらえる?」
「……」
クレヨンはピッ、と頼りになる音を出した。クレヨンの笛は、しばらくの間鳴らなかった。
真っ直ぐにそんなこと言えるのはきっとティカだけだろう。それで、きっとそのほうがためになる。それで、朝ごはんをみんなで食べ終えて、もういいよ、というと再び笛が鳴り始めた。
「こりゃ、鍛えすぎましたねェ」
「うん……」
「でもまあ、いままでの分ですからね……」
「うん……」
「……治ったら、もっとうるさくなりそうですよ。どうします?」
どうするもなにも、みんな、その時を心待ちにしているのだった。
2021.12.12
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