お留守番できるかな?

 ぴっしゃん、ぴっしゃんと、雨粒が窓枠を叩いているが、「雨が降っている」というには微妙な天気だった。傘がなくても生きてはゆかれるだろう、そんな天気。
 メリーティカとナナシとクレヨンは、人様の家でローテーブルを囲み、ゆらゆら揺れるツナ缶に灯った明かりをぼんやりながめていた。
 ツナ缶の真ん中に穴をあけて、ティッシュペーパーで作ったこよりを突っ込むと簡易ランプになる。
 もってせいぜいが数時間の、どっちかというと、実用品というよりは代用品の類いだ。
 コーラル・ブラウンの手によって保護された3人が、はじめて監察官の家で迎えた夜は、あまりおめでたい光景ではなかった。
 なんたって、止められていたのだ、電気が。
「……明日、電気料金、振り込みに行ってくる」
『わかった』
 お金がなかったわけではない。手続きのほうがおろそかだった。
 監察官の生活能力は、想定以上に崖っぷちだったのである。とりあえずのことは明日考えるとして、晩ごはんをあるもので適当にすませようとしたら、まず、「あるもの」が「ない」という状況におちいった。
 せいぜいが、調味料とか、シリアルとか、缶詰というありさまだった。
「……はあ……」
「こういうのも非日常で楽しいわ。……毎日は嫌だけど」
 コーラル・ブラウンは現在入院中の身である。
 TOWERに閉じ込められた数日の間、コーラル・ブラウンは飲まず食わずだった。脱出した後にもなんとか頑張っていたが、3人を保護するなり、倒れてしまったのだった。
『うー クレヨンがまんするけど さみしいよ お仕事 おわる しないかなあ』
 クレヨンには、監察官は仕事だと告げていたようだ。メリーティカもナナシも、「そういうこと」にしてある。
 電気が止められるくらいに気は回らないくせに、妙なところではりきっていたのか、なぜか食器だけはあって、メリーティカとクレヨンはお揃いの食器であぶったツナ缶を食べた。ナナシの分の皿も、もちろんあったのだけれども、ナナシは、洗い物が増えるのが嫌で缶から食べた。あと、監察官がいなかったので……というのは関係ないはずだったが、なんとなくちゃんとする気になれなかった。
 やる気が出ないのだ。
 ランプに使ったツナ缶は、少しだけ油が減っていて香ばしかった。美味しいのだけれど、食べ物を食べ物としてかじっているな、というだけの美味しさに帰結する。
「この味、飽きてきたな……」
「ナナシ、トウガラシかける?」
「頭アダムスになるぞ」
「今アダムスがここにいてくれたらって思うわ。ちょっと元気出るかも」
「……だな」
 ナナシはめずらしくメリーティカに同意した。
『みんな、元気かなあ』
 懐かしい仲間のことを思い出す。
 3人とも、……物質的には、いちばん良い生活を送っていたメリーティカでさえ、前の生活よりは今が何倍もましだと思っていた。元の場所に戻るくらいなら、喜んでこの限界サバイバル生活を続けるだろう。

 二人分、――監察官と自分の分、使われていない食器の上に、ナナシは洗った食器を重ねた。
 廃棄寸前の自分を迎えに来た相手が目の前で倒れて、病院に引きずられていった一連の出来事は、ナナシに深いトラウマを植え付けていた。
 やってきた監察官は、確かにちょっとやつれていた。けれども、第一声が「ナナシ、大丈夫かい?」だったので、ナナシは心底うれしかった。
 もう二度と離れるものかと思った……ところで、病院のスタッフがやってきて、あざやかな手口でコーラルを車に押し込んでいった。
「ブラウンさん、1時間だけって言ったじゃないですか! あなた、歩ける状況じゃないんですから……もう戻りますよ……」
「あーっ、ナナシ、またあとでね!」
 今思えば、いくらみっともなくてもいいから、「おいて行かないでください」とすがりついておけばよかった。
 渡された紙切れの住所を頼りに、ナナシはバスとタクシーを乗り継ぎ、コーラル・ブラウンの自宅にやってきた。玄関を開けたのはメリーティカ。奥で、コピー用紙にふんふんとお絵描きをしていたクレヨンがぴょんと顔を上げた。
「おかえり」
『おかえり、ナナシ!』
 今日からここで暮らすことになる。
 ナナシはいろいろな意味で泣きたくなった。嬉しかったのと、自分の帰る場所には、監察官がいるべきだったのに、というので。

 たぶん、お互いに、想定している以上に展開があまりにも急だった。
 まず、まっとうな連絡手段がない。
 監察官の自宅に、固定電話というものはない。おそらくは、スマートフォンだけしかもっていなかったのだが、その唯一のスマートフォンは当然監察官が持っている。
 当然のことながら、三人はスマホを持っていなかったので、こうなると、もう伝達手段は矢文かのろしかというところまで後退する。
 パソコンがあるといえばあるのだが、いっちょまえにログインパスワードがかかっている。
 いちおう、財布とクレジットカードが机の上に置いてあって、生活をすることだけはできそうだった。それについてラッキー、なんて思えなかったし、そもそも外を出歩きたくない。
 TOWERで鍛えた家事能力は「あれ、案外ちゃんとやってなくても死なないな……」という気付きから始まった。
 そう、死なないのだ。少なくとも屋根があるし、誰からも罵倒されない。いやな仕事をする必要はない。叩かれないし、いやなことがなくて安全だ。
 ただ、肝心の家主がいないのだ。
『ナナシ! コーラル、おしごと おわるまで がんばろう』
「クレヨン……」
「大丈夫。ティカもがんばるね。明日は月曜日だから、お手伝いさんが来ると思う。コーラルのことだから事情は話してくれてると思うし」
「……ティカ、あのな」
 普通の家にお手伝いさんはいない。
 頼れるのはどうやら自分だけだ。ナナシはひそかに決意していた。

2021.06.27

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