お留守番できるかな?

 TOWERから出て、コーラル・ブラウンが迎えに来るまでの間、ナナシは真っ暗な中で誰かをずっと待っていたような気がする。
 果ての無いくらやみの中、監察官の姿が見えたときには、もっと、……なんというか、天にも昇るような気持ちになるものかと思っていたのだが、そうでもなくて、代わりにずしんと重力が降ってきた。
 監察官の顔を見ると、いろいろなものが一気に押し寄せて、何を言ったらいいのかわからなくなった。ずんと胃の奥の重さが戻ってきて、不意にじぶんに血が流れているのがわかって、ぐらぐらした。久しぶりに地面に足をつけているような気がした。急に、目の前のものが信じられなくなって、監察官の襟首をつかんだ。重心が崩れて、なんだか脅してるような格好になった。
「おかえり、ナナシ」
 それで、ナナシは何を言うべきだったかわかった。
「ただいま戻りました」

***

「うわっ、君たち、何しに来たの……クレヨンはともかくナナシまで」
 それにしても、コーラル・ブラウンの第一声はあんまりだ。
 当然の反応かもしれない。
 勝手に家を抜け出して、一晩中、病院の庭木の上で張り込んでいたのだから。
 クレヨンはしょんぼりとうなだれていた。ナナシは、横柄に椅子に腰掛けて黙っていた。はいはい、どうせ俺が悪いんです、という戦略でいくことにしたのだ。とはいえ、今回は本当にナナシが悪いので、コーラルからはかっこのつかないきりっとした目で見られるだけだった。
 夜中にムリヤリに押しかけてしまった非があることは分かっているので、二人はいくらかは反省している。ただ、コーラル・ブラウンをみると、喜びがそれを上回ってしまった。
「……なんにもなくてほんとに良かったよ……」
 二人は同時に頷いた。
 監察官は、けろっとした顔をしているわりには、昨日はほとんど検査のために麻酔で寝ていたらしい。「ここのごはん、あんまり美味しそうじゃなくって、食べるのがめんどくさくなっちゃった」と、食欲がなさそうに水気の多いポテトを匙でもちあげたり戻したりしているのを見ると、なんだかどうしようもなくなって、無制限にチーズのひとつでも差し出したくなる。
 当然のことながら、ひとり置いてきぼりを食らったメリーティカはお怒りだった。
 これにはさすがにナナシも開き直るわけにはいかなかったので、椅子をそっ……と差し出しながら、すなおに「すみませんでした」が出た。
「……何時間?」
「は? 何?」
「何時間コーラルといたの?」
「いや、見てただけで、一緒にいたってわけじゃねえよ」
「何時間見たの?」
「…………」
『…………』
 クレヨンがそろそろと手のひらを出した。5時間。
「ふうん。それじゃあ、私もコーラルと5時間は一緒にいることにするね」
 メリーティカはお見舞いの花を活けて、テキパキと花瓶の水を替える。
「え、ティカ。ここにいるの……? 今日ずっと?」
「本も持ってきたの。いいよね?」
「う、うーん」
 ね? と、小首をかしげる様子に、コーラルはもう黙るしかなかった。可愛らしい仕草のほうはともかく、不公平だと言われれば弱い。
「俺たちは帰ります」と、ナナシは神妙な面をして頭を下げると、クレヨンを引きずって病室から出た。クレヨンがちら、ちらと振り返りながらフェードアウトしていった。せっかく来た割りにはなんだかあっさりしているなあ、と思いながら着替えを探ると荷物の隙間に、分かりづらく巧妙に例の封筒が押し込まれていた。
「……ぜったいわざとだなあ……これ……」
 受け取り拒否である。

 数日後、思わぬサプライズがあった。いつものようにインターフォンを覗き込んだクレヨンが、そのままぴょんと飛び出していった。
「おい、クレヨン……」
 紫色の髪のHANOI――ミラだ。ミラはクレヨンとメリーティカをもみくちゃにしたあと、ナナシに向き合った。ナナシはびたっとその場に止まって降参した。ミラは指先でおでこをつっついて笑った。
「こーの脱走兵ども! 聞いたわよ。アンタら、お見舞いに行ったって? ……元気そうね、ナナシ!」
「アンタ、かわらないな」
「そりゃあ、数ヶ月かそこらじゃかわらないわよ」
 ミラは見覚えのある仕草でけらけら笑った。
「っていうか、アンタら、ほんとに元気そうになったわね。つやつやしてるわよ、つやつや! ねぇ、良かったわねぇ」
 ナナシはほんとうは結構つかれていたのだが、それを聞くとなんだかそんな気がしてきた。

「あー、これ、賞味期限切れてるわ。これも、これも……」
 まず、ミラは台所を支配下に入れた。素早い手際で、冷蔵庫の不要な品物を廃棄していく。
 コーラルの冷蔵庫には、ゆうに2年以上賞味期限の切れたドレッシングや、いつのものか分からないお酒の瓶があった。調味料はずいぶん古いものがあったのだが、ナナシとクレヨンが少し舐めて「まだ食べられる」と判断したので、ひとのものだということもあって保留にしていた負債である。
 冷凍庫の奥で眠っていた冷凍焼けした食べ物は処分することになった。ずいぶんと人の家にも慣れてきたものだとは思ったのだけれども、どうやらまだまだ他人のテリトリーだったらしい。
 もっと自由になるべきだった、とナナシは学習を得た。
「っていうかアンタらね、アタシは仕事で来たんだからさ、……休んでても良いんじゃないの?」
 三人は、ちょろちょろとミラのあとを付いてきてはせっせと働いているのである。
「そういえば、ミラ、俺さあ、働きたいんだけど」
「え? 何? ……水の音で聞こえないわ? 何? 働きたいって? 今働かなくていいんじゃないって話をしたんだけどねぇ。じゅーぶん働いてると思うけど」
「いや、俺、外で働きたいんだよ……。しばらくは。監察官には世話になってばっかだし……」
「ええ? まあ、反対はしないけどさ……別にあの子はお金に困ってなさそうだし、これから忙しくなるんじゃない? もうすこし家のこと、勉強しといたら?」
 ミラの言うとおり、覚えることはたくさんあった。
 TOWERにいたころ、なんとなく身に着けた知識は実生活の一部でしかない。
「人間さんって、不便な身体よね」
 メリーティカはカップ一杯の砂糖をすくってため息をついた。バーチャルじゃない現実のほうでは、砂糖は加減してやらないといけないのである。そうしないと、どんどん監察官が肥えていって、それですぐなくなってしまう。
「ナナシ、いい?」
 メリーティカがトントンと厚紙を持ってきて、成人男性が1日にとっていいとされる量の砂糖を割った。およそ50gだ。
「3:1ね。4分の1よ。メリーティカとクレヨンは、主にお砂糖担当ね」
「じゃあ、塩は俺のシマだからな。手出すなよ」
「でも、そうもいかないわ」
「……要相談」
「応相談」
「応相談な」
 食材には季節がある。冷蔵に向くものと冷凍に向くものがある。加熱したら食べられるものと加熱しても、時期を過ぎると急に危ないものがある。
 それでもって、さしあたりのところナナシが覚えなくてはならないのは手間暇をかける方法ではなくて、時短のほうだった。
 電子レンジに炊飯器、総合格闘技という感じのやりたい放題。炊飯器にお湯を張ってジップロックの肉を、とやっているとなんだかめまいがしそうだった。
 小麦粉を練ってイーストを混ぜ、形を整えて放置していると、ミラが笑った。
「アンタそれ、毎日やるつもりなの?」
「別に。買ってくるより安く済むし」
「毎日って毎日よ、……分かる? 今日と明日と、あさってとしあさってとその次とその次とよ? 仕事して帰ってきて風呂わかして、息抜きして、そんでもってそれよ! 悪いこと言わないから、もっとラクしなさいって。ねぇ?」
 毎日。
 明日からも続く毎日を、ナナシは少し想像してみる。今日と明日、あさって、しあさって。来月。
 来年の想像はだめだった。来月ならわかる。

 ミラのすすめで、ナナシは、家のことに精を出すことにした。
 引っ越しの準備をしながら、次に暮らすための場所の候補を見繕うことにした。4人が問題なく暮らせそうな広さがあって、生活が便利で、なるべく治安の良い場所だ。インターネットのストリートビューで周囲の雰囲気を確認しつつ、間取りを確認していった。単身者向けのマンションよりも、むしろ貸家のほうがいいかもしれない、と思い始める。柱の関係で、少し広い部屋がふたつと少し狭い部屋がふたつ。……「いや、狭くても別にいいよ」とか言い出すとしたら、隣の部屋が確保できる気がした。
 ナナシは、今日と明日とあさってのことを考えている。

2021.06.27

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