お留守番できるかな?

「はい、ナナシ。パンケーキね」
 そう言いながらも、監察官が切り分けているのはキッシュだった。たぶん、TOWERにいたころに振る舞われた料理がこれだったから、というのと、賞味期限が三か月切れていたパンケーキミックスが夢の中で混戦しているのであった。
「いいって、俺がやりますから」
「いいからいいから」
 実際に監察官の手料理を味わったことはまだないが、ナナシは一つ確信していることがある。
 良く焼けたパンケーキがあるとすると、焦げている方とか、小さい方とか、そういうのは、監察官の方に行く。ナナシは、自分に分けてもらったキッシュより、向かい側の、自分の分よりも少し崩れた自分用のキッシュを見て、ほんのりとした喜びを覚える。それでおなじだけ、いやもっと返そうと思うのだ。
「そっちの方がちょっと大きくありません? 俺、そっちがいいなぁ……」
「ええー!? そうかな?」
 適当に難癖をつけていると、ふと、監察官がメガネをかけていなくて、入院着を着ているのに気が付いた。監察官はくたびれていて、埃だらけでボロボロだった。
「服と中身も取り換えてくれませんか?」
「ええ!?」
「心臓とかもください。あげますから」
 そう言って、差し出そうとして、ナナシは、自分の中身が機械だということに気が付いた。だいぶ重い夢だ。

***
 
 二週間過ぎたので、病院に預けられた監察官が満期になった。
 というわけで、三人はできるかぎり、新しい服でしっかりしたファッションをきめた。家にきちんと世話ができるHANOIがいることをアピールして、確実にコーラル・ブラウンを返してもらおうというねらいである。
 コーラルはそんなことつゆ知らず、「お出かけに張り切ってるのかな? 元気なところを見せようと思っているのかも。似合ってるね!」くらいの認識だったらしい。
 医者の言うところによると……。
 とにかくしばらくは消化に良いものを食べて、安静にしていること、そしてもう二度とこんなことするなということだった。幸いなことに、「そんな仕事辞めてしまえ」という最大のアドバイスは、もうほとんど実行できていた。問題は、これからもっと、ものすごく忙しくなりそうなことだが……。
「ブラウンさん、聞いていますか?」
「あ、はい」
 どこか他人事みたいなコーラルとは対照的に、三人はとても真剣だった。
 この問答に全てYESと答えれば正常に物事がはじまる。
「そんな調子で大丈夫なんですか」と続いたので、「やっぱりあと一週間は必要ですね……」と言われたらどうしようかと思っていたのだが、医師の言葉は「それじゃあ、気を付けてくださいね」で締めくくられた。
 
 ここから薔薇色の、少なくともベージュとか、黄色とか、オレンジとか、少なくとも元気が出るような、新しくてぴかぴかした美しい人生が始まるはず、だったのだが……。
「監察官」
 監察官を返してもらった日、ナナシは盛大に体調不良に陥った。
 どうにも身体が動かない。
 とはいっても別に大したことはなさそうな、寝てれば治りそうなレベルではあった。もしかすると監察官を返して貰っていない気がしてきたので、リビングに拠点をひっぱって来て寝っ転がると、ずいぶんとましになった。
「監察官はホントに体調大丈夫なんですか?」
「君がそれをいうの……。うん、おかげさまで?」
 呆れたことに、看病しようと思っていた相手に看病されているのであった。
「アンタの顔見るなりぶっ倒れるとか、すごく不愉快だと思うんですけどね」
「……」
 ありとあらゆる計画がとん挫して、ナナシは心底悔しかった。
「俺は、別にアンタのこと嫌いじゃないんですよ? ホントに。命の恩人でしょう。俺は、無理もしてねぇし、ちゃんとしてましたし……ただ、ちょっと。すみません、やっぱり大丈夫でしょう」
「ナナシ、寝てなさい」
 うんうんと頷いていたばかりの監察官はぴしゃっといった。
 ピピッと測定結果が出る。……ストレス値は結構高かった。泣きたい気持ちになった。
「違うんですよ。そっちがおかしくて」
「ナナシ君はずっと頑張ってたから、僕の顔見て安心しちゃったんだねぇ」
 一気に体の力が抜けた。
 この重力は、なんというか、現実感だった。「実際にある」というリアリティに耐えられていないのだった。これがないと、手を放した風船みたいに幸福がどんどんどっかに飛んで行ってしまう気がする。
 ナナシを囲んで、監察官とメリーティカとクレヨンはリビングにぎゅうぎゅうになった。鍋がコトコト煮える音がして、本がぺらぺらめくれる音がして、誰かが歩くと地面を伝わって、後頭部に振動が伝わってくる。
 目をつむってても誰かわかる。
 ナナシが良い場所見繕ってくれてたんだよね、次の家はここにしようかな、とか、脇をすり抜けて話が進んでいった。
 ……たまに「ナナシ君は一人の部屋が欲しいだろうから~」と、きもちを勝手に代弁される。反発したい気持ちになったけれども、言いたいことは合っていた。訂正するほどのことでもなかったのだが、なぜか反射的に「いや、違うだろ」、とひねくれて言いたくなった。
 妙にむず痒かった。
 振動が近づいてきて、電灯の明かりがさえぎられる。クレヨンなんかは平気そうにひょいと上をまたいでいくのである。
 踏まれるか? という不安が頭をよぎる。けれどもいまは、それよりも人の気配が欲しい。
「ナナシ、食べれそう?」
「少しなら」
 三人がつつましやかにご飯を食べている。監察官がきちんと飯を食べているのを確認すると、ナナシもスプーンで粥をすすって、それに加わる。時折、食卓からは笑い声が響いていて――クレヨンの会話は聞き取れないから――ナナシはちょっとだけフン、と思った。
 椅子は四つあって、一つ空いていて、笑い声があるたびにちゃんと自分の席があることを確認する。
 食器は同じもの。
 ナナシは付け足された布団に丸くなって、情けないやら、何もできないやらでつらかったし、一番近いことばを引いたら「死にたいな」と思ったのだが、この場合の「死にたい」は、前に感じたことのある絶望とは違った。俺はもっと上手くやれるはずですが、という気持ち。
 ミラの声が聞こえる……と思ったら、パソコンで通話がつながっていた。少しは心配してくれるだろ、と思ったら、けらけら笑っているだけだ。それがショックで、なんというか、甘えていることに気が付いた。連鎖的に砂糖の山を思い出した。砂糖の山。取り分。
 
 電灯が消えて、人の気配が去っていく。
「おやすみ、ナナシ。具合は大丈夫?」
「大丈夫なので。監察官、もう置いて行かないでくださいよ」
「まさかあ」
「置いて行かないで」
「行かないよ?」
「次は俺も連れて行けよ……」
「病院に?」
「どこでもですよ」
「……」
「監察官、俺はもう2度と、留守番はできません」
「ええっ!? そんなあ」
 まじめくさってこたえたのを体調不良のせいにした。
 いっそのこと、夢の中に引きずり込んでやろうと思って、がっちりとてのひらをつかんだ。代わりに、背中をすごく良いリズムでぽんぽんとさすられた。
 そうすると、やっぱり、重力が降ってきて眠くなる。
「おやすみ、ナナシ。明日からもよろしくね」
「監察官」
「どうしたの?」
「おかえりなさい」
 ようやく手を放す気になった。ぱちっと電気が消えたが、ぬくもりはまだそこにある。今日も明日もあさっても……。来月も、半年後も。来年も。
 その先は、元気な時に考えるとしよう。

2021.06.27

back