最悪の場合

 ナナシは最悪の場合を考えるクセがあった。トーロにいたころはそれが役に立った。考え得る限りの最悪は、何度も想定を下回った。

 現実の雲の形はあまりきれいではない。面白くもない形を描いている。それでも、じっと眺めていれば一つとして同じ形の雲はなかった。
 HANOIのメンテナンスセンターの待合室で、ナナシは窓の外をにらみつけていた。
 普段なら、いちばん空を見ているクレヨンは、ソファーに座って、ずっとうつむいている。笑顔の形に引き結ばれた口元は、何かをこらえるように時折奇妙な形を作っていた。
 不意に、クレヨンの目からぽろりと涙がこぼれた。
「クレヨン、わかるよ……」
 ナナシが何かするまえに、メリーティカがクレヨンの隣に座って、クレヨンの手を取って背中をさすってやっていた。
 クレヨンがぶんぶんと首を横に振っているのは、「いやではない」という意味なのだろう。いやだから泣いているわけではない。メリーティカはぎゅうとクレヨンに抱きついていた。
「メリーティカもね、今、信じられなくて……だから、わかるよ」
 ナナシにとっても、そうだ。この現実は、あまりに出来が良すぎる。
 バーチャルから出ても、元の場所に帰らなくていいというのは、あまりにも都合が良すぎて、やっぱり現実感がない。とはいえ、すでに身体は希望に満ちあふれていて、とにかく、何かしたいというような気持ちで満ちていた。
 クレヨンはしゃくりあげる。
 ……クレヨンのために、飲み物を買ってもいいだろうか?
 ナナシは、荷物としてコーラルの財布を預かっている。
 ここは現実だ、そのへんの人間をぶん殴っても、「容量」は無限に出てこない。ここから先は「人間様、滅相もないです」の世界のはずだ。
 いいや、あとで怒られてしまえ、と思った。たぶん、あの人相手なら、どうとでも言いくるめられる。ただ、本物の監察官にどういうことを言われるのかは上手く演算できなかった。
 そりゃあ、バーチャルのときみたいに。限りない資源があるなら……いくらでもカネが沸いてくるっていうなら、どうとでも人に優しく出来るだろうさ。頭の中のひねくれた回路がそんなことを告げる。
 じゃあこの光景は、なんだ? 俺たち三人はどうやってここに来た?
 これ以上ガッカリしないように、先ほどから最悪を演算し続けているのだが、どうにも、浮かれた方が優勢だった。
 ほら、喜べよ、お前の望んだ光景だろう――。それとも想像ができなかったくらい、この空は鈍くまぶしいのか。

 缶のソーダを飲んで、クレヨンは落ち着いたようだった。
 窓ガラスを鏡に、笑顔の練習をしている。メリーティカはミルクティーを持って、足を少しだけばたつかせながら、机に頬杖をついている。
 メンテナンスを終えれば、自分たちは正式にブラウン氏の所有物となる。
 とうの持ち主は「君たちを持ち物みたいに扱うのは気が引ける」と嫌そうだった。けれども、「空欄は埋めておけ」、とはキャメロンと、某クラッカー集団からのアドバイスだ。
 HANOIたちにとっては、まだ、この世界は、人のふところに入るのがいちばん安全だった。それに何より、元の持ち主にあれこれと書き換えられてしまうと困る。
 これからの暮らしがどんなものであれ、三人は元いた場所に帰る気はなかった。
「ねえ。心配だな……。監察官……カノジョいるかな」
 メリーティカの問いは、ナナシにとっては肩すかしだったが、考えてみれば、結構シリアスな問いでもある。
 もしも自分たちがうっとうしい存在になった場合は、監察官は三体のHANOIかコイビトか迫られるわけだった。メリーティカの方は、純粋に別の心配だったろうけれど、ナナシも浮かれているのは同じなので、責める気にもならない。
「彼女ではないけど〝気になる〟くらいでなんとなく一緒に話す人、とかは……いそうだよね?」
「どうだろうな……」
 万が一は……万が一は、そんな存在がいてもおかしくはないかもしれない。いて欲しくはなかったが、……。
「わかってるよ。ここからはほんとの世界なんだよね」
 ナナシには最悪を想定しておくのは自分だという自負があった。とはいっても、もう人間の本性とかそういうことではなくて、ナナシの想像は……「ごめんナナシ、布団が足りないから今日は床で寝て貰ってもいいかな……」とかそんなレベルに落ちていた。
「ごめん」なんて前置きをつけて?
 焼きが回ったもんだと思う。もう少し、こう、レジ打ちの遅いHANOIに舌打ちして……ということを考えて、すごく奇妙な気分になった。想像がつかない。想像上のコーラル・ブラウンはもたもたしている間にレジで抜かされていって無限に会計を終えられない。
「おまたせ! またせてごめんね」
 後ろから、間延びした声がかけられる。
「監察官……」
『!』
 クレヨンが誇らしげにペットボトルを見せる。補足説明がいりそうだ、と、コーラルは財布を取り出した。
「飲み物、勝手に買いましたけど。いいですよね?」
「ああ、ありがとう! よかったね、クレヨン」
 あっさりとした「いいよ」までは想像していたが、「ありがとう」とは。
 妙に苛立つようなざわめきを覚えて、ナナシは感情の仕分けにまよった。どうすればいいのか分からない。
『、』
「! クレヨン、ちょっと待ってね、今ノートとペンを……」
 くいと、メリーティカが監察官の袖を引く。
「監察官。あのね……ナナシがね? 自分の分の飲み物は遠慮して買ってないの」
「えっ!?」
 この女、告げ口しやがった。メリーティカはぷいと顔をそらした。その仕草すら様になっていて、妙に腹が立った。
 クレヨンは隣で、こくこくと頷いている。
「ナナシ、何飲む?」
「喉、乾いてないんで……」
「何を飲むの……コーヒーでいい?」
「……はい」
 いちばんいやだったこと:缶コーヒーはぬるくて、美味しくなかった。
 あとは全部……思ったよりもマシだった。これからもそうなるんじゃないだろうか、という恐ろしい予感がするのだ。

 腹の底から、ふつふつと力がみなぎってくる。何かしよう、と。自分にもなにかできるはずだと。

2021.02.21

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