STOP!相対死

*死ネタ

 良く晴れたとはお世辞にも言い難いが、過ごしやすい曇りの日だった。
 ナナシは待った。役所のプラスティックの椅子に腰かけて、手続きをするためにほぼ半日待っていた。コーラル・ブラウンは無事に旅立ち、いよいよあの書類を使うときが来たのだ。
 高揚感はない。ただ、全てを終えたあとのような、満足したような、ほっとしたような、心地よい脱力がある。
 あいにく、市民課の窓口はすごい行列だった。進みがのろのろしている。
 ナナシはひたすらに待った。昼休憩に入り、職員がサンドイッチを食べるところもじっと耐えていた。その間、ナナシは、コーラル・ブラウンが読み残した文庫本の4分の1ほどをずっと暗記している。
 コーラルは人並み以上に長く生きた。満足のいく人生だったのではないかと思う。じぶんも、とっくに雑務用の平均的な稼働年数を通り越している。
「21番さん」
 少しうつらうつらしていると、番号を呼ばれた。偶然にもナナシの型番と一緒だ。番号で呼ばれるのは久しぶりなような気がする。
「ええと、お持ちいただいたこの『相対死同意書』なんですが……。他者の所有にあるHANOIの重要申請は基本的に持ち主の同行が必要です」
「は?」
「ご本人を連れてきていただけますか?」
「それ、どういう書類か分かってますか?」
「えっと、……どういう書類なんですか?」
 若い職員はすごく困った顔をした。

***

「だからァ……これはですね? 持ち主が死んだときにHANOIも廃棄されるって書類で」
 次の方、と呼ばれて追い返されそうになったナナシは粘り、場所を死守しながら、早口で概要を説明した。窓口の若いHANOIはみるみるうちに真っ青になった。
「ひどい! 封建制度みたい!」
「ハァ……。ま、なんでもいいですけど。分からないならわかるヤツ呼んでくれますか?」
「HANOIを道連れにして人間が死ぬ」なんてトチ狂った制度は、若いHANOIには刺激が強かったらしい。
 相対死というのは――もう、使うHANOIもほとんどいない古い制度だ。
 今はたしかに、HANOIの同意が必要な、HANOIのための権利ではあるが。これ以上、物理的な問題で働けない、となったとき、じぶんで稼働をどうこう決められる制度は別にある。
 世の中マシになってずいぶん経ったものだ、とナナシは他人ごとのように思っていた。
 持ち込んだ資料で事細かにHANOI側のメリットを説明していると、職員は涙目で震え出し、ついに年上の(けれどもナナシよりはずいぶん年下の職員が出てきた。
 書類を一瞥して一言。
「他者の所有にあるHANOIの重要申請は基本的に持ち主の同行が必要です」
「何なら今ここから飛び降りてもいいんですけど?」
 まったく、良い世の中になったものである。

 警備員に取り押さえられそうになったのはいつぶりだろうか。ナナシは、なんとかキャシーに連絡を取って、説明してもらった。HANOIの弁護士さんが言うなら、と話は速やかに進んだ。
 ちなみに、「ホンキなのね?」と聞かれて「うるせえ、今さら邪魔されてたまるか」と言って施設を出てきたので、連絡するのはものすごく恥ずかしかった。
 それらしい制度があることが確認され、次の段階へと進んだ。つまり、市の指定するカウンセリングを受ける必要があった。そしてそれは曜日が決まっていて、またナナシが眠る日は一週間伸びた。
「この制度はね、ぜったいにしなくちゃいけないってことはないんですよ」
「はあ……」
 相対死を執行するためには、カウンセリングを受ける必要があるのだ。人のよさそうなマダムに茶を出されていた。美味しいが、好みではない味だった。
「持ち主がいなければ、どこにも行けないって思い込まされてたりすることはない? 確かに、一人で生きていくのはちょっと自信がないかもしれないわね。でも、そういうときにね、頼れる施設なんかもあるんですよ。いくつかご紹介しておきますね」
「よく知ってます」
 なんたって、ナナシはコーラルとともに、そういったことに生涯をささげてきたのだ。
「人間っていうのはね、死の間際には、気弱になってしまうものなんです。側にいて欲しいって言われてもね、その先を真に受けてはいけないのよ」
「……」
「判断力がどうしても鈍るんです。だから、いっしょに死んでくれといったところで、責任はないんですよ。あなたにも、その人にも。お互いに。一緒に来て欲しいって言われて、うんって言ったけど、やっぱやめた。そんな子がいくらでもいるんですよ。みんな幸せになってます」
「いや俺から頼んだんです」
「……」
「……」
 自分で言うのもなんだが、だいぶ特殊な例らしかった。
「……ええと。人間の恋人たちの〝永久に一緒にいよう〟っていうのは、ほんとうに一緒にいようということではないんですよ。死ぬときは一緒、というのはね、だいたいは、居合わせることを言います。あなたの奥様もきっと……」
「旦那様です」
「まあ……」
 驚愕に目が見開かれたが、特に何も言われることはなかった。ちょっと誤解を招いた気がするが、この際どっちでもいい。結局、施設長はいつか言った通り一生独身だった。
「まあいずれにせよ、ね? ほんとうに動けなくなってから、あとから追いかけるという選択肢も、もちろんあるんですよ。それだけ覚えていただきたいんです。それから……」
 話は長い。とっとと会話をスキップしたいが、相談員の律義さがそれを許してくれない。
 それはたぶん、良いことだ。真面目に活動すればするだけなぜかコーラル・ブラウンから遠ざかる……。
 昔と比べたら、ずいぶんとまともになったもんだった。
「最期の悪あがきなんですかねえ……」
 それは思った以上にのんびりとした日々で、ひどいロスタイムだったけれども、たぶんあの人は待ってくれるだろう。

2021.07.24

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