うちの施設長はすごいですが?

本編未登場のキャラクター視点。

 ある日、日課の読書を終えたご主人様が、「コーラル・ブラウンに会いたい」と言いだした時は、私は氏に同情をせざるをえませんでした。
 確かに、ご主人様はお金持ちです。親から受け継いだ財産は、黙っていても増えるばかりのもの。遊んで暮らしても、人の一生で使い切れるかどうか。まったく羨ましい話です。
 しかし、金を持っているからといって、ご主人様は、決して金払いが良いわけでもありません。吝嗇家でひねくれもの。それが私のご主人様でした。
 HANOIが好きというよりは、たんに人間がきらいなのです。
 HANOIにひどい仕打ちをするニュースを見ては「これだから人間は」と安心して、いっそう部屋の中に引きこもる理由にするような方です。
 ブラウン氏がHANOIの人権のために活動しているというご立派な方だというのはわかりますが、せっかくご足労いただいても徒労に終わることでしょう。そう思いながらも、私は氏に連絡を取りました。ご主人様の家柄をちらつかせると、アポイントメントはすんなりまとまります。
「それじゃあ、いつものように頼むよ」
 ご主人様はずかずかとよってくると、私からスカーフを奪い取りました。そうです。「便利・安全・服従」たるHANOIの証が刺繍してあるスカーフです。私はため息をついて、自分でアイロンをかけたばかりのご主人様の礼服に袖を通すことになりました。
 ご主人様のお戯れの一つが、私と入れ替わって、執事用HANOIのふりをすることなのです。そうやって、使用人に横柄な態度をとった客人を閉め出すのがもっぱらのご興味でした。ご主人様がめったに表に姿を見せないせいで、気がつく人はほとんどいません。
 そして、大抵の人物は「使用人に無礼な態度をとった」というあんまりなことで落第点を押され、二度と屋敷にやってくることはなくなるのです。
 人に仕えるために生まれてきたような私のような存在からすれば、使用人に少々横柄なのぐらいはあたりまえではないかと思います。まあ、少々HANOI使いが荒いのはいただけませんが……。
 ひどい目に遭っているでもなし、飢えて死ぬことがなければいいじゃないかというのがHANOIとして生きてきた私の人生観で、「HANOIにも、人と同じような人権を」という、ブラウン氏の活動には、いまいちピンときていないのは確かでした。
 あとからひどい目に遭わないようにと思えば、この悪趣味なユーモアを解するくらい寛大であればいいのですが。

 皿を磨きながら窓の外を眺めていると、お屋敷に現れたコーラル氏は、想像していたよりもずいぶんと若い。こう言ってはなんですが、なんだか頼りないような、ぼんやりした男に見えました。一人のHANOIをつれています。なかなか立派な、ダークグレーのフランネルの背広を着ていました。髪色がピンクでなく、また、側に控えるような態度をとっていなければ、そちらの方が主人だと勘違いしたかも知れません。主人のふりをして偉ぶって庭に出て行くと、ブラウン氏は私に笑いかけます。私が歓迎の意を述べ、コートをご主人様に預けると、緊張したようすで敷居をまたぎました。
 それにしても、このような型の秘書用がいるとは驚きです。区別のためとはいえ、ピンク髪など、若い頃には想像も出来ないものでした。
 客間に通したところで、ピンクのHANOIがこちらを見て「おや」というような顔をしました。怪訝そうに眉をひそめて、それからちらりと主人のスカーフに視線をやります。わずかな視線の動きではありましたが、それで「ばれた」と私は思いました。
 どうも、ご主人様の企みは出だしから露呈してしまったようです。これには私も少々舌を巻きました。というのも、こうやってたまにご主人様の代わりを務めることがあるくらいには、つくりはかなり精巧なはずでしたから。まあ、それも同類には通用しない、といったところでしょうか?
 私は今にも秘書用HANOIが身をかがめて、自身の主人であるブラウン氏に耳打ちをすると思いました。が、そのHANOIはふっと口元を緩ませて、かすかに笑ったあと、ただ黙って背筋を伸ばし、気がついたことを伝えるようすはなく、ただただその場に立っているのでした。
「紅茶をお持ちしました」
「あ、ありがとう」
 ブラウン氏は本来のご主人様がたどたどしく運んでいる紅茶を受け取ります。ご主人様の手が震えて、カップから茶が跳ねました。茶色いしぶきが、コーラル・ブラウンのシャツを染めます。
「申し訳ございません!」
 慌てて謝るご主人様は、どうにも「してやったり」の顔でしたが、ブラウン氏も負けてはいません。柔和な表情が崩れることはなく、心配そうにハンカチを取り出すのでした。
「大丈夫です。あの、火傷をしませんでしたか?」
 咄嗟にしてはなかなか立派な聖人君子の表情だ、と思いました。そうしていると、ふと視線を感じます。例の、ピンク頭の秘書用HANOIがこちらを見ていました。なんだか、その疑いは一度自分が通った道だと言わんばかりの奇妙な表情でした。
 ……ご主人様のお芝居は続くようでしたので、私は短気な主人を演出するためにステッキを振り上げ、ご主人様を罵倒します。フリとはいえ、あまり楽しくはないことです。ブラウン氏は、慌てて「ご心配なく」、と付け加えます。
 私はちょうどよいところで、溜飲を下げるのです。
「いいですか。全ての執事用HANOIがそんなにぼんくらだとは思われたくないですな」
 ……まあ、このくらいの意趣返しは許されるでしょう。ねえ?

 それからブラウン氏は私相手に、一生懸命に活動の理念についてを話されていました。ボンヤリしていると思っていたのですが、話してみればかなり聡明な人物で、口ぶりは穏やかではあるものの、道筋は理路整然としています。少々理想的すぎるきらいはありますが、活動内容も聞いてみればなるほどと思うような面がありました。
 ……それを聞いているのが家においてまったく権限のない私だというのが、いやはや。とても気の毒ではありましたが。
 ご主人様は着替えだの詫びだのと難癖をつけてやや強引にあのHANOIを捕まえて、裏でなにやら話し込んでいるようでした。
「しかし、先ほどは大変失礼いたしました」
 私はふと水を向けてみる気になって、ご主人様の失態を掘り返しました。
「ええと……大丈夫ですよ。怒らないであげてくださいね。僕も結構うっかりやってしまうことがありますよ」
「……紅茶をご自分で淹れられるのですか?」
「うーん、三回に一回くらいですかね。頼めばナナシが、あの、彼が淹れてくれますよ。紅茶を入れるのがとても上手いんです。たぶん、彼はコーヒーの方が好きだと思うんですが」
「頼めば?」
「はい。たまに自分で淹れろと言われますが、たいていは淹れてくれますよ」
「そうですか」
 一言命令するでもなく、頼めば、とは。
 やはり目の前の相手の思考回路は、私にはよくわからないものでした。
 裏手からは、時折はなにやら楽しそうなご主人様の声が聞こえてきてびっくりします。一体何を話しているのかは、使用人の知ることではありませんでした。しばらくすると、ご主人様がガラガラとワゴンを押して戻ってきました。私としては、茶器のあつかいに眉をひそめるばかりです。
「失礼いたしました。お詫びと言ってはなんなのですが」
「わあ、ケーキですか?」
 おや。
 その瞬間、私はご主人様の陥落を悟りました。私の記憶では、おやつの時間にレモンケーキが出てきたのは数えるほどで!
 これは、とてもご機嫌が良いということなのです。

 結局、あの秘書用HANOIと何を話していたのかは教えてはくれませんでしたが、ご主人様は思っていたよりもずいぶん多額の寄付を決めたようでした。
 コーラル・ブラウンのことは、たぶんあのHANOIの方が知っているんでしょう。主人に仕えるものとは、そういうものだからです。

2021.02.21

back