チョコレートプレート

*原作未登場のキャラクター
*調理用HANOIが調理器具を雑に扱う描写

「ねぇ、次店長の言うこと聞かなかったら、アンタさぁ、ほんーとにクビになるよ?」
「……」
「ねえってば!」
 調理用HANOIのエリオットは、アイリーに鋭い三白眼を向けた。感情は読めないが、そこには〝だから〟? とでも言いたそうな非難が籠もっている。
 けれども、エリオットはそれ以上は何も言わない。言い訳すらない。エリオットは黙って自分の世界に戻ると、スマートフォンをいじる。
 会話はぷっつりとそこで途切れて、これにはアイリーもカチンときた。
「ちょっと、これはね、同じ店で働いてる同僚としての忠告よ、忠告! 世間話じゃないのよ。最高の状態でなくてもいいから、どーしても誕生日はイチゴのショートケーキが食べたいってことあるじゃないのよ? ちょっーと質が悪かったからって、イチゴを勝手にジャムにするのってどうかと思うよぉ~、私は」
「……」
 ここ『シュプール』は、知る人ぞ知るというか、知らない人はホントに知らない――要するに風が吹けば飛びそうなケーキ屋だった。店員は3人しかいない。店長と接客用HANOIのアイリー、それから調理用HANOIのエリオットでぽつぽつ回している。
 ケーキ職人のエリオットは、仕入れてきたイチゴの鮮度が気に入らなかったらしい。勝手にぜんぶ煮込んでジャムにして、クロスタータを仕立ててしまったのだ。クロスタータというのは要するにタルトだ。中には、たっぷりのジャムが詰め込まれている。
「予約の分は仕入れ先に頭下げてなんとかなったけどさあ……? ふわふわ……なんだっけ、ええーと、いいや、ウチのイチゴショートケーキはウリなんだから。ショートケーキがなかったらそれ目当てに来たお客さんががっかりしちゃうでしょー。やっぱりねぇ、注文した通りのモノが出てくるって大事なの。私もプロの接客用HANOIとして、お客さんが哀しむ姿は見たくないわけよ?」
「ケーキじゃない……」
「……あのねえ。ケーキじゃなかったらなんなのよ?」
「とにかく、あれは、ケーキじゃない」
 それっきりエリオットは黙ってしまった。
 エリオットが言葉少なにこぼすところをくむならば『妥協して作ったケーキはケーキじゃない』ってところだろうか。
 調理用HANOIってみんなこんな分かりづらいの? と、アイリーは考えた。いや、そんなはずない。もしもそうだったら、世間では大規模なリコール運動が起きていることだろう。
「季節限定の水着ピックアップだったら微妙でも回すんじゃないの、アンタ」
 ものすごーく気弱そうな顔の造りをしている割に、エリオットはめちゃくちゃに強情だし、ソシャゲ廃人である。
 それでいて、菓子を作る腕だけは本当に良い。
 コイツの異様なコダワリのせいで、店に並ぶケーキはかなりバラつきがある。
 店長が言うに、『HANOIなら言われたことだけ黙ってやってろこのバカ!』というのは、HANOIの権利が叫ばれるようになった昨今では、かなり、ご時世的に。まあ、アレというか、アウトというか、ネットに流したら一発で炎上案件なのだが、エリオットに言うならド正論である。たとえエリオットが人間だったとしても言われるだろうし、たぶん100回クビになってる。
「アイリー、今まわしてるのはイースターガチャだよ……。水着じゃない。……ケーキは……俺にとってキャンバスなんだ」
「芸術家ってみんなそうなわけ? 昼ごはん削るまでソシャゲに課金するのやめなさいよねほんと」
「それは不可能だ。アイリー、10連引いてくれないか?」
「は? なんで?」
「物欲センサーってあるだろ」
「廃課金の片棒担がせないでくれる?」
 いや、これは無料石分だから、と強弁するエリオットに、アイリーは呆れて言葉も出なかった。

「なんだって!? 反省してる様子もない!?」
「はあ……」
 店長はわなわなと震え出す。
「はああ~~~。『俺にとってこの仕事はインスピレーションなんだよ。自己表現だ……。思ってもいないケーキは作れない。それは最高の自分じゃないから』ってところかねぇ~~~なんだああのHANOIは!」
 店長は憤慨しつつエリオットの言葉をくんでいる。合ってるのかテキトーに代弁しているのかはもはやよくはわからない。エリオットが、何にも言わないからだ。
「フン。生意気な奴だ。腕だけはホントーーーーにいいんだがな! 安月給でも怒らないしな! でも、『新作ケーキ、味はいいんだけどもうちょっと材料費を抑えてね』って言ったら、『下位互換なんて作ってたまるか』って感じで、ミキサー投げつけやがって、畜生」
「……お疲れ様ですー」
 果たして、エリオットにはストッパーというのが入っているのだろうか?
「まあ、次言うこと聞かなかったらクビって言ってあるからな、アイツにも。さすがに……」
 さて、どうだろうか。また同じことが起こる気がする……。
 エリオットはかなりワケ有りの調理用HANOIである。ものすごい腕の良い職人なのだが、気質のせいで、ここに来る前に何件か店をクビになっている。小さい店なので、……と、接客をやらせたらてんで話にならないし、レジの合計金額が合わないくらいにはポンコツだった。
 エリオットはほんとに、ケーキしか作れない。
(ホントにパティシエとして生まれたって感じよね、エリオット)
 店に並ぶケーキは彼の凝り性のせいで一定ではなく、いわばケーキガチャとなっていた。昼前に売り切れて店を閉めることもあるし、まったく売れない日もあった。
 それでも、この店のウリがエリオットのケーキであることは揺るぎない。
 しかし、店長からすれば、給料が安くてもよく働くし、自分であれこれと調べるのは趣味の範囲だから放っておいてもケーキを作ってるし、ほんとうに腕は良いのだ。困ったことに。
 この店にはエリオットのトロフィーがいくつも飾ってあった。
 クロスタータをひとつ手に取って囓った店長は、うめき声を上げたが、それについては何も言わなかった。ひとつ、ふたつとひょいひょいつまんでいく。
「クビはまあしかたないなっていうかもはやよくそんなの雇ってるなあ頭か経営のどっちかヤバいのかな、って気がしてますけど」
「なんだけどねえ」
 アイリーも結構口が悪いのだが、エリオットが最悪すぎて紛れているような気がする。店長はもぐもぐと口を動かした。
「そもそも売り上げが安定しないってことはねぇ、君達に払う給料もまた安定しないってことで。すっごく胃が痛いんだよ。まあ、なんだかんだ月末には帳尻があってるんだけど……」
「人間さんって大変ですね」
「人事だと思ってまあ好き勝手言うよなあ、君。どっちがいい? 固定給と売り上げ連動型給料だったらどっちが」
「固定給+売り上げボーナスがいいです」
「……」
「にしても、店長。……うち、エリオットなしでやってけるんですか? 店長、はっきり言うと菓子作りのセンスないですよね?」
「んなの、自分が一番わかっとるわい。もう10年も前にな。そこはこう……あれだ。まあ、新しい人を雇うか、HANOIを買うかして――」
「いらっしゃいませー」
 ちりんちりんと来店のベルが鳴り、接客用はにこやかに接客モードに移行した。店長もあわてて立ち上がったが、表情を作るのは接客用ほどはうまくはない。「ひっ」と若干引きつった顔になった。というのもやってきたのは、――いかにも「その筋の人」という風体のHANOIだったからだ。
 髪の色こそ明るいピンク色だが、眼光は鋭く、表情はかなりおっかなかった。唇は今までに一度も笑ったことがない、と言わんばかりに固く引き結ばれている。
 なんていうか、ケーキの対義語みたいな感じだ。
 隣の銀行と行先を間違ってると言われたら納得しただろう。そのピンク色のHANOIは、客がいないのに面食らったようだった。二人分の視線を注がれて、僅かに逡巡と後悔が見えたが、それでも、ケーキ屋から引き返すほどではなかったらしい。
「ごゆっくりごらんください~……」
「……」
 構うなオーラを出し、距離をはかりながら、ピンク色は睨み殺さんばかりにショーケースの中のケーキを見つめていた。
 真剣ではあるがかといって、別にウキウキという感じでもない。一言でいうと「物色」というような様子だ。
 しばらく詳細に説明書きを確かめていたが……二往復して決めたようだ。アイリーが声をかけられる。
「すみません。予約したいんですけど。できますか」
「はい。可能でございます。いつごろでしょうか」
「来週、金曜日。午後6時ごろに」
「可能でございます」
「それじゃあ、大きいやつ……いや、中くらいの。ケースの二段目の……果物のケーキで」
「はい」
 順当にすすみそうだったが、ここで店長が口を挟む。
「『わくわく木イチゴの森のお友達のケーキ』でよろしいですかあいてっ」
 アイリーは店長の足を水面下で踏んだ。
 店長は店長で「ケーキはタイトルまで含めて芸術品だ」という美学を持っているのである。
 こんなふうだから客が来ないんじゃないだろうか?
「はい。ホールケーキですね、かしこまりました。ろうそくはいかがなさいますか?」
「……。いりません」
「かしこまりました」
「飾りは……。……3つ、……いや……4つお願いします」
 またしても「『お友達』は4人ですね?」とのたまう店長に、アイリーはヒールの踵でとどめを刺した。
「かしこまりました。メレンゲドールはちょうど4種類、ウサギとネコとキツネとヒトがございますが」
「ハア。……じゃ、一個づつ」
 ピンク髪のHANOIからは、既にうんざりした空気が漂いはじめている。店長が解説を差し挟もうととなりでうずうずしている。アイリーは商談を進めることにするのだった。
「では、一週間後ですね。承知いたしました。チョコレートのプレートにはなんと?」
「なんてって。……いいや。無難な奴でお願いします」
 ガシャーン。
 バックヤードから何か音が聞こえてきた。
「『はあ!? なら”無難”って書きますが!?』 だと!? 言ってる場合か? エリオットの野郎……」
 床で這いつくばった店長が訳す。……これは本当に合ってるんだろうか。
「すみません何でもございません。無難な奴ですね、はい」
 いつもありがとうございます、とか、お誕生日であればおめでとうございますとか、そういうところだろう。……と、接客用HANOIは提案しようとしたのだが、HANOIはもう何も話したくないという様子で、カバンを探ると、やる気なくタッパーの付箋を剥がすとそのまま渡してきた。
「じゃ、これで」
 そこには『食べすぎ注意』と書いてあった。
「はあ……ええ?」
 さすがにアイリーも面食らう。
「いいんですか。『食べすぎ注意』で?」
「はい、もういいですよ。なんでも。……ブツだけあれば。それじゃ、よろしくお願いします」

「いや、殺されるかと思ったよ……」
「まあ、ケーキ屋さんは似合わない人でしたね」
 去っていったHANOIを眺めて、アイリーはうーんと唸ったのである。
「たぶん、何かの……記念日ですよね?」
「まあ」
 まるで蜃気楼の中の夢、……だったような気もするが手の中にはしっかりと『食べすぎ注意』と書いてある付箋がある。非常に事務的な文字である。
「なんかなあ。……奥さんに渡すには、ちょっと、うーん。なんていうか……あんまり一般的じゃない言葉っていうか。端的に言って『死』、って感じですけど」
「死までいくのか? まあ、書きなさいと言われたものはそのまま書くしかないだろ」
 じゃーん、と厨房から音が聞こえてきたかと思うと、エリオットがものすごい顔で鍋をはたいていた。
「君ねぇ、ケーキプレートはプレートまで含めて芸術品だ、なんてねぇ、言うつもりはないだろうね。というか料理人なら調理器具をきちんと扱いたまえ」
「……」
 まあ、店長が正しい……のだろうか、多分?
 エリオットはごしごしとカラメルのついた鍋を洗い始めた。
「お客様に喜んでもらえるのが一番だろう? ね? 代金は受け取ってる、頼まれた仕事をきっちりやり遂げるのもまたプロってもんだろうしね。というわけで、さあさあ。ちゃっちゃとやっちゃってくれたまえ。ケーキのひとつやふたつ、朝飯前だろう。ん?」
「……いやだ」
「……エリオット君。従わないならクビだぞクビ。ここをクビになったら君、もうケーキ作れんのと違うんじゃないかね」
 こっちだってエリオットがいないとやっていけないくせに、とアイリーは思ったが、エリオットにはこたえたらしい。エリオットも無言になった。
 とはいえ、エリオットが無口なのはいつものことだ。
 店長からの信用がほとんど0になっているエリオットは結局目の前で屈辱的な文字列を書かされた。
 流麗な字体はそういうフォントがインストールされているのかと思うほどに正確だった。実際、何かしかインストールされてるのかもしれない。
『食べすぎてください』と書きかけてやり直させられた。
「俺の芸術品が……」
「ハイハイ」
「俺は、…………悪魔に魂を売った」
「はいはい、君が油を売ってる間にも給料は発生してるんだよ。いいから悪魔との商談を終えなさい」
「やっぱり、神なんていないんだな。HANOI教に入信しよう……」

 そして一週間後はやってきて、あんまりなケーキはつづがなく引き渡されたはずだった。

 アイリーはやっぱり気になっていた。それでも、やっぱり、奥さんはガッカリしたんじゃないだろうか、と思うと、ちょっと心も痛むものである。じぶんだったら、あんなモノの書かれたケーキ、ぜったい嬉しくはない。
「……おつかれー」
「ん……」
 アイリーは、エリオットがソシャゲを周回しながらポリポリと何か食べているのに気がついた。
「何食べてるの? 試作品? いいなあ。一口ちょうだいよ。って……あれ!? それって……ちょっと! コラ!」
 光沢のあるそれはなんだか見覚えがあった。
「……これさあ~~!」
 エリオットの齧っていたプレート。そこには、『食べすぎ』の文字があった。エリオットは『注意』の部分とおぼしきほうをごくんと飲み下した。
「ちょっと何してるのよ!? そのケーキの引き渡し、昨日よね!? あのふざけた書き損じはその場で処分されてたし……。ちょっと! じゃああのチョコプレートは!? 入れなかったの!?」
 エリオットは首を横に振る。
「それじゃっ、すり替えたわね!? 馬鹿、クビになるわよ」
「……意訳したまでだ」
「なんて書いたのよ?」
 エリオットはアイリーの剣幕に圧されてやっと顔をあげた。
「『愛してます』」
「はあーーーー? 何、なんて?」
「だってあのケーキはさ……」
「……?」
「芸術なんだよ……」
 要領を得ない回答である。

「キ、キミねえ~~~!!! エリオットくんねぇ~~~!!」
 案の定、話を聞いた店長はカンカンだった。
「たしかに、『わくわくホールケーキ木イチゴの森のお友達』はほかに比べて低カロリー……の上に品質を損なわないレシピがウリで、ちょっと値は張るけど健康的な一作だっていってもねえ!? ほかに見栄えが良くて、単にご機嫌取りで、おつかいするなら褒められそうなのはいくらでもあるっていってもね!? それを選ぶってことはたしかにまあ『愛』があるんだろうけどね!
お客様の注文を捻じ曲げて勝手に文言を変えていいわけないだろう!! このバカ!」
「意訳」
「意訳じゃない! 飛躍だそれはっ! もう明日から来なくていいよ!」
「仕込んでる生地がある」
「じゃあ明後日からやめろやめろ!」
 子供じみた口げんかがどんどんヒートアップしていく。
 果たして、エリオット、クビになったとしてココじゃないところで働けるんだろうか。ちりんちりん、と鈴が鳴った。
「ああ今すみません取り込み中でしてうわっ」
 うわって言ってしまった。
 そこに立っていたのは、――例の客だった。
 ピンク髪のHANOI。あの、『食べ過ぎ注意』のケーキを注文したHANOI。
 相変わらずの無表情で、ものすごい不機嫌そうである。
 そりゃあそうだ、クレームでも入れに来たんだろう。そりゃもう、怒られるに違いない。役に立たない店長とエリオットを押しのけて、アイリーが前に出る。
「お客様、如何なされましたか?」
 ……。
「ケーキ。差し入れ用に適当に15個。ください。種類はお任せで。どれでもいいです」
 あれ?
 HANOIは別に怒っている雰囲気もない。
 店長がぱちくりと瞬いている間に、会計は淡々と進んだ。相変わらず表情は険しかった。これこれこれもと名札を並び立てる店長を押しのけて、アイリーはせっせとケーキを詰めていった。
「……奥さんとうまくいったんですかね?」
「さあ~、分からないけどねぇ」
「よしっ……」
 エリオットがぐっとガッツポーズを決めていた。

 それからというもの、そのケーキ屋は、なぜかにぎわうようになって、それなりに繁盛するようになったのだった。
 そして、エリオットはなぜかどさくさに紛れてクビを免れ、今日も無断で気分のままにジャムを作っている。

***

「ナナシ、ケーキ買ってきてくれない?」
「ハァ? 何で俺が……」
 メリーティカがそう言った途端、クレヨンがぱっと顔を上げて、「ケーキ!」と、キラリと目を輝かせる。このタイミング狙って言いだしやがったな、と、ナナシは思った。
 メリーティカは花瓶の水を取り替えながら、しれっと続ける。
「来週ね。コーラルのお誕生日だよ。……ナナシも知ってるでしょ?」
「もうそんな時期ですか」
 ナナシはメリーティカのこういうところはわかっていたし、メリーティカはメリーティカでそれで何が起こるわけでもないことを知っていた。
「施設の方でもお祝いするって言ってたけど、でも、おうちでもやりたいのよね。せっかくだから、おやすみの日にちゃんと」
「すれば? いいんじゃないですか、ティカさん。でも、ケーキは要らないと思いますけどね」
「それで、評判のケーキ屋さんがあるの」
「……。カネがないとか?」
「ううん。お給料を受け取ってないあなたほどじゃないわ。そこがね、すごく美味しいらしいの。でもね、なんか雰囲気は良くないんだって」
「良くないってなんだよ?」
「店長がいつもHANOIを怒鳴ってるらしいの」
「治安悪すぎるだろそれは」
「でも、HANOIのほうも言い返してるんですって。なんか仲は悪くないみたいって感じで。そんなに危険ではないと思うわ。でも、私とかクレヨンだと、ちょっとおっかないなって思うの。見てきてよ」
「……一つ貸しな」
「それでいいよ」

 ようすを見るだけでもいいから、と言われてはいるが、二度手間である。そんなにヒマではない。
 ナナシがやってきたケーキ屋は、そりゃあ場違いという感じだった。結構ほころびていて照明も暗い感じかね、と思っていたら、ぜんぜんそんなことはない、白を基調にしたところどころ明るい感じの店構えで、なかなかに店はキレイだった。そのことにかえって入りづらさを感じた。
(……他の客、いねぇのかよ)
 店員がじろじろとこちらを見ないようにしているのがわかっていたたまれない。
 さて、どのケーキにすればいいのか。メリーティカはどれとは言っていなかった。身体に良さそうなものがいいだろう……そんな都合の良いケーキは存在しない。最善を選ぶしかない。
 ろうそくの43はあまり嬉しくない。保護施設の方のケーキにくっついているはずだ。被ったら面白くないかと思って、保護施設の方はどうするのか、ナナシは予め後輩から聞き取っていた。たしかチーズケーキにするんだそうだ。チョイスは間違ってはいないのだけれど、施設長には「あの、THE、誕生日ケーキみたいなやつ、いいよね」なんて思考もあるからこっちは白いケーキがいいかもしれない。
 ……。
 ナナシは、『わくわく木イチゴの森のお友達のケーキ』というふざけた文字列が嫌でもう一度ケーキを見渡した。けれども、見た感じこれがいちばんマシだった。フルーツが多めで甘さは控えめ……まあ、とはいえ全部ケーキだから「マシ」という程度だろうが、健康に気を遣った配分だった。
 これにしよう。文句は、自分にケーキを選ばせたティカが悪い。
 ケーキプレートでまた悩む。「誕生日おめでとうございます」、はもう別の人間に貰っている。なんでもいいか、と思った。ナナシはカバンからタッパーを取り出して……。
「それじゃあ、それで」
 と頼んだのだった。


 誕生日パーティー当日。
「なっ、ナナシ、これ」
 ケーキを受け取った施設長は、わなわなとふるえて、涙目になったので、ナナシはちょっとやりすぎたかと思った。さすがにからかいが過ぎたかも知れない。メリーティカが片方の眉を僅かにひそめる。
 コーラルは眼鏡を外し、ハンカチで目尻をぬぐった。……泣いてる? にしては、どうにも様子がおかしかった。どうして? なんだ? ……そう思っていたら、ナナシはぎゅうっと抱きしめられて、施設長に「ありがとう」と言われた。
「クレヨンも、みんな大好きだよ!」
 何だ?
 慌ててケーキを改めると……チョコプレートにはものすごい言葉が書かれていた。
『愛しています』と書かれている。
「俺たち3人からの気持ちです」
 早口になった。ナナシは咄嗟に愛を3分割した。
「ありがとう、ティカ、クレヨン」
 コーラルは、付き合いの長いHANOIたち3人と次々とハグをかわした。まあいいんじゃない、とメリーティカがふんすと鼻を鳴らす。俺のせいじゃない、とナナシは思った。
「僕、ほんとに、生きてて良かったなあ……」
 施設長がぽろっと漏らした言葉に、なぜか、ナナシは胸を突かれた。
 生きてて良かったなんて、この人の口から出るとは思わなかった。当たり前みたいに生きてて、まっとうに生きてて、誰からもさげすまれることはないはずだし、ナナシに「生きていてよかった」ということを教えてくれた人だったからだ。もう一巡、ハグが回ってくる。控えめで柔らかいハグだけれども、ナナシは今度は少しだけぎゅっと力を込めた。
 いてくれて良かった、なんて当たり前の言葉は、一緒にいるだけで足りると思っていたけれど、どうやらちゃんと伝えないと伝わらないみたいなのだ。
「……来年もまたお祝いしますよ」
「うん!」

 それで、ナナシは思い知った。いかに――意味がなさそうで、もう施設長は43回目で、儀式めいたやりとりだって、ちゃんと人の心の支えになるのだと。そういうのは自分のシゴトではないとは思っていたけれど、それでもやっぱり、やれることはもっとあるはずだと。
 とはいえ、施設長様にはダイエットをしていただかなければ困るのである。それはまた別の話だ。

 ナナシは再びあのケーキ屋にやってきた。
 ファンシーな看板に足が止まる。やはり、入るのは少しためらわれる。
……あれは誤発注だったのか? となるとあのあんまりなチョコレートのプレートを受け取った被害者がいるんだろうか?
 まあ、それにしたって取り違えた店の罪である。
 とはいえ、心は痛まないでもない。
 礼を言うというのもおかしな話だが、とりあえず、売り上げという形で貢献しようと思ったまでである。
 ティカとかに改めて差し入れて、とりあえず怒鳴られたりはしないようだとでも言ってうまく釣ったら常連にはなるだろう。本当に味は良かった。
(人の気配がなさすぎて、やってんのかやってねぇのかはっきりしねェ……)
 ナナシが所在なく店をうろついていると、ゴミ出しにやってきたHANOIと出くわす。調理用HANOIらしかった。ナナシは、怪しいものじゃありません、のポーズを取ろうとして、さっとポケットから手を出した。
「…………初回無料」
「…………は?」
 何の話だ?
 何言ってるのか、意味は全くわからなかった。ちゃんと金を払ったはずだ。通報されないのだけはありがたかったが、話の通じにくい奴とのやりとりは極めてめんどくさい。
 ここがつぶれたら惜しいのだが、かといって自分で買いに来るのは用事がないもので、とっとと広まってほしいものである。
 とりあえず、職員連中に差し入れるか、と、ナナシは考えていた。

2021.10.03

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