Voice

第二回タワハノ利き小説大会に投稿したものです。
開催してくださった紅茶さん、読んでくださった皆様、ありがとうございました!

 クレヨン。
 君は、

 これから舞台の上に立ち、大勢からの目を向けられることになるだろう。

 舞台のにはいつだって限りのない栄光が広がっていて、
 足元には、奈落の底が口を開けている。

 君の成功は、あるいは失敗は、観客達の手の平の上。

 はっきりとした、見えない台本がある。
 観客が望んでいることはたったひとつだけ。

 とびっきりの笑顔を浮かべて、
『声を聞かせて』と。



 手術室の前で、コーラルは祈るように両手を組んでいた。メリーティカはとなりで静かに本を読んでいる。
 コーラルは手術を待っている間、なにかをする気にはなれないだろうと思っていた。けれど、クレヨンの手術が始まってから、すでに五時間が経っている。かえってティカみたいにやることを見つけておいた方が気がまぎれたのかもしれない。
「まあ、大丈夫すよ。いちばん大事な神経のほうは、なんとかなったらしいですから」
 ナナシが言った。コーラルは立ち上がっては座り、また立ち上がってはうろうろとする。ナナシは手持ち無沙汰にモータースポーツの雑誌をめくっている。
「そうだね。心配しても仕方ないって、わかってはいるんだけど……」
「みんな、直ってほしいと思ってますよ。……こんだけ人巻き込んで、金かき集めて、世界中ひっくり返して技術者探して来て……ここまできてダメなんて、あんまりじゃないですか?」
 人の手によって、喉を焼き潰された曲芸用HANOI。
 保護されたてのクレヨンは、技師から『どうして動いているか分からない』とまで言われたものだった。十年の間、クレヨンはコツコツと小さな手術を繰り返してきた。喉を切開し、焼き切れた神経を慎重に抜き取り、つなぎ直して新たに回路を作る……。
 少なくとも、HANOIとしての寿命は格段に延びた。
 けれど、まだ一つ大きな壁がある。
『声』だ。
 人前で喋るエンターテイナーの曲芸用HANOIの声は、通常、歌唱用と同じかそれ以上くらいには頑丈にできている。熱で癒着してしまった声帯パーツに、標準的なパーツは適合しなかった。試せる限りのパーツを試すことになる。しかし、もともと自分のものではない声帯パーツが適合する可能性は恐ろしく低いのだという。
 それこそ、奇跡的と言われるほどに。

 今、クレヨンは手術室の奥にいた。意識をシャットダウンして、メンテナンス用の装置につながれていた。静かにすやすやと眠っている。小さな黒い箱状の装置が、絶え間なく命令を送っている。
 声を鳴らせば、音が鳴る。
 コーラル、ナナシ、メリーティカの三人はどんな音も聞き漏らすまいと、耳に神経を集中させていた。けれども、待合室はいつまでも静かだった。機械の発する小さな物音にいちいち反応して、それから期待とは違うことを悟った。
 クレヨンの声色を誰も知らない。きっと、聞けばすぐに分かるだろう。あの快活な曲芸用HANOIが、本来はいったいどんな声なのだろうかと、三人が想像しなかった日はなかった。けれども、具体的にどういう姿をしているのかと言われればわからない。正体の見えないものをずっと待つのはとても落ち着かない。
 天気は晴天、とても暖かい日だまりみたいな日だ。
――だれに祈っているのだろう?
 ふと、コーラルは思った。
 HANOI保護施設の施設長には、とくにきまった宗教があるわけではない。強いて言うなら善い行いに。これまでにやってきたことは正しいという思い。
 間違ったことはしていない。
 でも、コーラルは知っている。
 善い行いが、常に報われるわけではない。

 手術中のランプが消える。
 やってきた技師の表情を見て、メリーティカが席を立った。その理由をコーラルはなんとなく察した。良い知らせではないことを悟ったのだろう。ナナシが膝の上に置いた手に力を込める。血管が浮いた。どうしてだろう、こういうときほど、否応なくいろいろな景色が頭の中に入ってきて、耳のそばを通り抜けていくのだ。たぶんこれ以上の情報を頭が処理しないように、ゆっくりとから回る。考え事が頭を埋め尽くして、トドメを少しでも遅らせようとあがいていた。
「どうでしたか」
「残念ですが――」
 予想の通り、技師から続く言葉はとても残酷なものになった。
「残念ですが、パーツは適合しませんでした」

 ◇

SOUND TEST
コマンドを送信しています。

……。

要求がタイムアウトしました。
要求がタイムアウトしました。
要求がタイムアウトしました。

……。

 びしゃん、と。
 男の頬に何かがくっついた。それで、男は目を覚ます。
「アァ……? クソ、なんだよ」
 生暖かい息が耳のちかくにあった。べろべろと頬を舐められている。
「……んだよクソ! なんだァ、気持ちよく寝てたのによォ……」
 身を起こそうとすると、落ち葉みたいな、柔らかいものがぼふぁっと浮き上がる。紙くずの山だった。ここはどうやらヘンな世界だ。
「ちょっと、アンタも起きてよ。起きるんなら?」
 ウルサイ声――これはIVの声だ。
「キンキン言わなくても聞こえてらァ」
 言葉とは裏腹、良く知った声――それも無事そうな声を聞いて清掃員Ⅱは我を取り戻しつつあった。
 入院着を着た少女が立っている。よく知った声だけれど、顔には包帯が巻かれていなかった。
「……」
「なに?」
「IV……か?」
「だったら悪いわけ?」
 IVは、ふんっと仁王立ちしてそっぽを向いた。
「何よ、なんか悪いの?」
「いや、なんつーか……なんでもねェよ!」
「……ふーーーん」
 Ⅱが起き上がるとⅡの背はIVをはるか通り越した。
「で、ここ、どこよ?」
「知らないの?」
「テメェも知らねぇのかァ?」
 つくづく、ここはゴミの山みたいな場所だった。紙くずの山が、押し合い引き合い、いくつも波を作っている。
 TOWER、とはまた違うように思った。
 水こそなかったが、この、押し寄せては引くような波を形容するなら……。
「……海、か?」
「0と1の海……なのかしら。アタシたち、結局、0と1になりそこなったの?」

 清掃員ⅡとIVはあたりを探索することにした。紙くずのいくつかにはクレヨンで丸っこい字が書いてあった。『きょうの てんき はれ!』『のち くもり』……悲しげな絵文字。誰かの捨てたメールみたいに、とりとめのない文字。『とうばん』『とう』とくに意味があるわけでもなさそうで、あまり役には立たなそうな文字列だった。そのほかに、山の中には雑多なガラクタが埋まっている。
 清掃員Ⅱが、突き出した白い耳をひっぱり、大根みたいに引っこ抜く。デカいうさぎのぬいぐるみだった。IVが怒った。
「ちょっと、やめてよ!」
「ンだよ?」
「別になんでもイイけど、丁寧に扱いなさいよ、丁寧に。……ほら、山が崩れるじゃない」
 さっきドラム缶を蹴り飛ばしたときはなんにも言わなかったくせに。
 清掃員Ⅱは文句は言わなかった。
 バグを食らう犬が帽子をかじっている。
 「こんなんばっかだよ」

 ゴミの山の中央、旗のようにゆらゆらと揺れる何かが見える。よく目をこらすと、緑色の風船だ。
「……ちょっと、アレ、見てきてよ」
「なんで俺が働かなきゃなんねぇんだよ!?」
「それがアンタのトリエでしょ? アンタのほうが頑丈なんだからね!」
 自分より頭ふたつかみっつ、背の低いIVを見下ろすと怒る気は失せた。清掃員Ⅱが近寄る前に、不意に、ぼこり、と、紙くずの山から腕が生える。
「きゃあ!?」
「ンアア!?」
 清掃員Ⅱはモップをつかんで振り下ろそうとし、IVのひっくり返した点滴台に巻き込まれてひっくり返った。
「テメエエエエエェェ、コラ、やんのかコラァ!?!?」
 びょん、と突き出した白い手袋は、こっちを攻撃するでもない。しばらくグー・パーを繰り返したあと、地面をべしっと叩いた。
 ひょっこりと黄色い王冠が出た。
 続けて、緑色の頭が出る。
 溜め。
 ・
 ・
 ・。
 ぴょーん、とロケットのように飛び出したのはピエロの格好をした生き物である。
「アァ!?」
「ちょっと、こいつ……」
「見覚えあるな。クソメガネんところの……」
 曲芸用HANOIのクレヨンだった。
 クレヨンはぱちくりと瞬いて、曲芸用らしいお辞儀を見せた。そのしぐさだけはやたらゆったりとして、やけに演者を感じさせる。だが、それも一瞬のことだ。頭のてっぺんにハテナをくっつけている。
「オイ。これ、テメェの仕業かよォ? ここはどこだ? 何の用だってんだよ?」
 クレヨンはわたわたと首を横に振った。
 クレヨンにだって覚えはない。ここがどこなのかも分からない。
「ダンマリとは覚悟キマってんなァ――オイ!」
「ちょっと!! やめてよ、なんか……弱い者いじめしてるみたいじゃない!!」
 清掃員Ⅱのモップに、IVは点滴台をぶつけた。
「クソっ、調子狂うな。何だよ……オイ、ここは、どこなんだァ……シューニャは? クソメガネはどうした?」
 Ⅱが問い詰めてもクレヨンが知るはずもない。
「これは、クレヨンの記憶の中の私たち」
 と、そこへ――
 再び、彼らにとって懐かしい声がした。
 凛とした声。透き通った音。
「シューニャ!!」
 人をひきつけてやまないその声の持ち主を、二人はよく知っていた。シューニャと、そして、清掃員Ⅰだ。
「ということですよね、おとうさん」
 シューニャの後ろにいた清掃員は、「あぁ、まあそうなんだろ? そうみたいだな」となかなかぼんやりとした返事をする。
「アニキじゃねぇかよ!! 元気だったかぁ?」
「ま、な。そっちも元気にしてたか? キョウダイ」
「わっかんねぇよ!! けどまあ、アニキに会えて、元気だぜ、俺は!!」
「アニキ」がぽんぽんとⅠの頭を叩き、ついでに自分の帽子をやった。
「馬鹿って単純でいいわね……」
 再会を喜び合う清掃員たち。ため息をつくIVの顔にも、少なからず喜色が浮かんでいる。
 弾む会話を追いかけて、クレヨンは跳ねるピンポン玉を追うように目線を動かした。
 IVは再会のハグをためらったが、シューニャもまた、同じようにためらったのを見、自ら胸に飛び込んだ。
「IV……」
 シューニャが目に涙を浮かべて、そっとIVの頬に手を滑らせる。
「IV……、IV……。素敵な顔ですね」
「うん。そうよ! そうなの、アタシ……今は苦しくないわ。よくわからないけどね。それで、シューニャ。クレヨンの記憶の中って、どういうこと?」
「あのあと。……私たちはコーラルの手によって、間違いなく0と1に融解しました。けれども……クレヨンの中には、まだ私たちの記憶が残っているんです」
「……んだよそりゃ」
「まあ、要するに、全部きれいサッパリ片付くっていう都合の話はないってこったな。いったん消したハードディスクにだって、『記憶』はこびりついてるもんなんだぜ。データってのはな、結構しつこいモンだ……。清掃用ソフトなら、知ってるだろ?」
「ったりめぇだろうがよォ!! いいか、ハードディスク捨てるときはなぁ、ちゃんと物理的に破壊しとけ、ナァ!?」
「誰に言ってるのよ……」
「とはいえ、沈んだ記憶が、こんなにはっきりと形を保つことは……。呼び起こされた、のだとしか。何か役割があって、呼び戻されたのでしょうか。クレヨン、私たちを呼んだのは……あなたですか?」
 クレヨンはぱちくりとまたたいた。
 そんな覚えはない。
 自分は、今、――喉の手術を受けているはずだ。



 クレヨンはきょろきょろとあたりを見渡した。
 紙くずばかりはあるけれど、ここには、白紙の紙もクレヨンも――ちょうどよさそうな筆記用具もない。
 というわけで、クレヨンは両手でメガホンの形を作り、丸めて口元に当てる。
 ふう、っと息を吹き込んだ。
「アア? なんだ、飯炊き?」
「応援?」
 清掃員二人の回答に、ぶんぶんと首を振り、ばってんを作るクレヨン。
「ばっか、いつの時代なのよ。誰をどう応援するの?」
「そうですね。『声』、ですか?」
 その通りだ。
 クレヨンは大きな丸を作った。続けて、両手を筒にして、きょろきょろと辺りを見回す。パントマイムもお手の物。意味を抽出した大げさな仕草はサマになっている。
「偵察??」
「観光」
……それが伝わるかどうかはまた別の話なのだが。
「役に立たないわね! いいわ。アタシわかったわよ。『探し物』、でしょう?」
 クレヨンはぽんと手を打った。その通りだ。
「アンタ、『声』、探しに来たの? ふーん……ここにあるの?」
 クレヨンは動きを止める。
 コーラルから言われていたからだ。
『クレヨン、君の声は――もしかしたら、直らないかもしれない』
 ガラクタの中の、ずいぶんと古いテレビが不意にしゃべりだす。映っているのは古い映像だ。まだ若かったころのコーラルがいた。
「え、何よこれ?」
「クソメガネがぁ……」
「これは、クレヨンの記憶なのでしょうか……」
 保護施設の活動を始めたばかりだったときの記憶。そのときは、まだ、資金なんてのもなくて、クレヨンの手術はまだ夢のまた夢だった。
『これからの治療方針について』と書かれた紙が机の上にある。クレヨンにはむずかしい単語ばかりで、ところどころそれは欠けていた。
「クレヨン、」
 コーラルの青い瞳がクレヨンの目をのぞき込む。
 メンテナンスを終えて戻ってきたクレヨンに、コーラルは言った。
「君に、曲芸用HANOIのパーツが適合する可能性はとても、低いんだって。
でも、きっと、それがだめだったとしても、別の方法があるはずだ。
いちばんに望む形ではないかもしれない。それでも、君が笑えるように、努力する。最善じゃないかもしれないけど、できることはぜったいに諦めない。だから、君も諦めないでほしいんだ――」
 そこで映像は終わり、古いテレビはうんともすんとも言わなくなった。
「……辛気くさいこというモンね」
 IVが苦い顔をする。けれどもクレヨンはぶんぶんと首を横に振った。
 これはコーラルの優しさだ。
「ここは、0と1の墓場。奪われ、失われたものたちの場所――あなたの声も、ここのどこかに?」
 あるはずだ。
 きっと、じぶんの声はこの中にある。
 だから、一緒に探して欲しい。クレヨンの身振りは伝わったようで、清掃員Ⅰが見えづらい表情の中で苦笑を浮かべる。
「するってぇと、お前さんの中の俺たちは、親切にも探し物を手伝ってくれる存在。そういうものなのかね?」
 清掃員Ⅰの言葉に、こくり、とクレヨンは頷いた。
「テメェ、アニキとシューニャをぶっ殺しといて、そんな都合の良いコトいってんじゃねぇぞ!!」
「ちょっと……」
 清掃員Ⅱがクレヨンにつかみかかる、けれどもクレヨンはじっとただ見返すだけだ。ぽす、とⅡは手を離した。
「クソ。クソ。畜生。……なら仕方ねぇだろうがよォ!? アア!? クソ、なんだってんだ、調子狂うな……」
 清掃員Ⅱが蹴っ飛ばした空き缶がぽーんと飛んで行った。
「……まあ、なんだ。協力するぜ。俺たちもとっとと眠りたいしな」



 声の残骸を踏みしめて進む。
 クレヨンのスケッチブックでできた、声の山だ。
『ありがとう』『ごめんね』『大丈夫』……。それからぐしゃぐしゃと塗りつぶした黒い紙。口に出さないまま、破り捨てた声になるまえの声たち。
 ここに、声があるのだろうか。
 それにしても、ずいぶんと覚えていないものもおおい。
 きらりと光るものが見えて、ゴミの山に手を突っ込むと、指先がちくりと痛んだ。
「ちょっと、大丈夫!?」
 ダーツが突き出していた。針が指先に刺さったようだった。
「もー、どんくさいわね! 下がっててくれる?」
 クレヨンは首を横に振る。これくらいは平気だ、と伝えるためにぴょんぴょん跳ねてみる。
「ハァ、それはいや? 強情ね……まあ、いいけど」
「ふふ」
 IVは、少しティカに似ている。クレヨンは思った。自分より小さくて、きっと身体も弱いのだけれども、なんだかんだクレヨンを許してくれるあたりがそっくりだった。
「ま、この辺は俺たちの仕事だな?」
「ったく、しょうがねぇなァ」
 清掃員たちは、手際よくゴミの山をかき分けて、現れる紙の山を0と1に溶かした。
『!』
「大丈夫ですよ、クレヨン。過去を忘れたって、なくなったりはしません。全ては覚えていられないけれど、今は積み重ねの上にあるから……。それに、必要なときは思い出せますよ。そうでしょう?」
 クレヨンは迷って、頷いた。
「それでは、指示をお願いします。どこにあなたの望むものがあるか、わかるのはあなただけですからね」
 つま先に、『人魚姫』の絵本がぶつかった。
 声を失い、泡になって消えるお姫様の話。コーラルが「クレヨンには早いんじゃないかなあ」と言って、ぱたんと戸棚にしまい込んだ絵本。……ご丁寧に鍵までかけて、奥深くにしまい込まれた。
 それで、なんだか悔しくなった。クレヨンが木箱にイスにと積み上げて戸棚をガタガタやっていると、メリーティカが分厚い本を差し出した。
『アンデルセン童話集』だ。
「コーラルったら、私たちのこと、ずっと小さい女の子だと思ってるのよ。HANOIに子供時代なんてないのに、ね?
その気になったら、私たちはどこへだって行ける。世界なんていくらでも見に行けるのよ」
 勝ち誇ったふうに言うティカは、お姉さんで、クレヨンにとってはずいぶん大きく見えた。大判の本にぎゅうぎゅうとした、子供向けの絵本とは違う、詰め込まれた文字列。
 文字列。
 これは、言えなかった言葉の山だ。飲み込んできた文字列の山。

 迷わないように、クレヨンはしっかりと小道をたどる。
 シンディのCDケース。
 テーブルクロス。
……大きな、大砲。
 花丸の書いてある、HANOI教のロゴマークの用紙。
 それから、ナナシがくれたトランプの点数計算の表。メリーティカがくれた鈴付きの髪飾り……は、現実には持って帰れなかった大切な思い出のひとつだ。
 ちりん、と鈴の音が鳴った。
「どっち?」
 こっちだ。クレヨンは道を進む。
 ふわっとした香水の香り。
 これは、キャメロンのくれた匂いだ。
「やだ、つけてみる? 気になる?」
 へぶし、とくしゃみをして笑いあった、心の奥底に沈んだ思い出の山。

 記憶を潜るようにして、深いところにやってきた。
 チケット・ブースにクレヨンは足を止める。
 サーカスのテント。スポットライトがサーチライトのようにあたりを照らす。不意に、心がざわついた。見つかってはいけないような気がして、暗闇を進んだ。
「っていうか、これが海?」
 作り物の海。
「あなたの声は、どんな声でしょう?」
 シューニャの問いかけに、クレヨンは首をかしげた。もう遠い遠い記憶。それを知っている人はおそらく、いない。いたとしても会うことはないだろう――。
 足元で紙がくしゃりと音を立てた。
 はじめてもらったおやつの銀紙。二回目にもらったおやつの銀紙。三回目のあたりで数えなくなった。四回目はもういいのよ、とミラが言って、あとはコロコロ丸めて遊ぶだけになった。
 声。
 ここにはないのかもしれないとクレヨンは思う。たくさん親切にしてもらったのに、何も返せない。記憶の奥底に消えて二度と浮かび上がってこないのかもしれない。
「そういうお話だって、いくらでもあるわ。誰が悪いというわけじゃないの」
 人魚姫の絵本を読み終えた時、メリーティカは言った。辛ければ読むのをやめてもいいのよ、と添えて、温かい紅茶を淹れてくれた。
 クレヨンは先が気になって少しずつページをめくった。
「ハッピーエンドじゃなないのはね、誰かの努力が足りないってわけではないのよ。罰を受けているわけでもない。単なる運の良さと、悪さだと思うの。世の中ってぜんぜん公平じゃない。でも、わたしハッピーエンドのほうが好きよ」
 また別の日のこと。
 クレヨンがベランダの手すりにに突っ伏してじっと月を眺めていると、クレヨンの頭の上に何かが置かれた。コーヒーだ。
「ティカも同じ意見だ。なんとかなるってさ」
 直らないかもしれない。――わたわたと頭の上の飲み物を回収していると、弱音は書いている暇がなくなった。
 不思議なことに、コーラルが厳しい現実を告げると、クレヨンに根拠のない希望を持たせるのはナナシの役割になった。
 コーヒーはとても苦かった。

「それじゃあ、アンタ、どういう声なのか分からないままに探してるの?」
 なるようになるよ、というジェスチャーは難しい。クレヨンはただ頷いて、にいっと太陽のような笑みを浮かべる。
「どうせなら、デケェのにしろよぉ! ピンチの時、叫んだら誰か来るだろォ!」
「アンタみたいな声になったらどうするのよ。乙女心が分かってないわね。どういう声かわかんなくたって、どうなりたいかくらいはあるでしょ?
なるべく可愛い声が良いわよ。シューニャみたいな」
「私は、IVの声だって素敵だと思いますよ」
「もう、シューニャはそうやって!」
「でも、そうですね。せっかくなら、可愛い声だって。良いモノだって思って欲しいですよね」
「……そういうもんか?」
「まあ。どーせ、何でも喜ぶわよ、アイツラなら」
「ま、だろうけどよぉ。いいじゃねぇかよ、好きな声選べば」

 不意に、クレヨンの足が止まった。
 スポットライトが容赦なくクレヨンを照らした。
 ムチの音が風を切った。
 楽しげな音楽。
 それは、クレヨンが心の奥に封印してきた記憶の扉。
 楽しくはあるけれども――クレヨンの嫌いな音楽だ。聞くだけで身体が凍り付くような音。引きつった笑みを浮かべる。これを聞くと、ブリキのおもちゃみたいに、クレヨンはなんにもできなくなる。
『レディース・エンド・ジェントルメン! 今宵、お集まりの皆々様』
 この声は、
 団長の声だ。
「ヒデェ怪物だな」
「これは、クレヨンの奥に、……封印されている記憶、ですね」
「行くの? 引き返す?」
 サーカスの残骸が、寄り集まって巨大な象の形を作る。その上に、でっぷりと太った人形が乗っていた。手には、焼きごてを持っていた。
 ジュウジュウと何かが焼けるような音に、クレヨンの歩みは止まる。
 喉を焼いた音。
 この先には進めない。見えない壁があるかのように、動けない。
 パントマイムのようだった。
 ぴしゃりと、頬を雨粒がうつ。



「それじゃあ、クレヨンは直らないんですか?」
「まだ、可能性はあります」
 改めて座り直すコーラルに、技師は言った。
 ジュラルミンケースに集められたパーツは、1ケースにつき1ダース。それが三つ。けれども、適合の確率は1%もないのだという。
 コーラルは手の平をぎゅっと握りしめる。
 みんなが。
 HANOI教のひとたちが、軍事用博物館のローランドが、家政婦協会のミラが――TOWERで苦労をともにしたHANOIたちが、クレヨンに心を寄せる様々な立場の人たちが、クレヨンが声を取り戻すことを応援してくれている。
「……深刻になりすぎたっていいことないですよ」
 ナナシがぽん、とコーラルの背を叩いた。
「なるようにしかなりませんよ。まだ、合うパーツがあるかもしれない。そうでしょ? 今日がダメだって、次が……」
 クレヨンの手術を報じるためにやってきていた記者は、見るからにがっかりした顔をしている。
 世間は、劇的な絵を求めていた。人に傷つけられた悲劇のHANOIが、奇跡的に声を取り戻す融和の図はとても分かりやすい。上手くいかなそうだ、ということを聞いて、ほとんどは荷物をまとめ始める。
「露骨ね」
 メリーティカが嗤った。
「……ほんとうは、こんなこと、正しくないのかもしれない。彼女を広告塔みたいに……表舞台に引っ張り出して、そんなの……」
「利用するものはなんだって、利用するって決めたでしょう――クレヨンだってそう弱くないです」
「そうよ。なるようにしかならないもの」
 次の本を、メリーティカは手繰り寄せる。でもほとんど読んでいるワケではない。缶を開けた瞬間、ぷしゅ、と泡が飛び出し、メリーティカはしかめっ面を浮かべる。
「……間違って買っちゃったわ」
 もし、だめだったら――?
 不意に、場違いな曲が手術室から漏れてくる。一瞬だけ硬直したコーラルは、思わず吹き出した。
 クレヨンのたっての希望で、手術中にはシンディのアルバムを流すことになっていた。オリコン一位を記録したシンディのベストアルバムは、やたらと耳に残るテクノポップスである。
「あはは、夢に出そうだ……」

 ◇

 団長が嗤う。
 男はげたげたと笑っている。
 ムチを振るうと、思い出の絵本が吹き飛び、引き裂かれる。
『人魚姫は、一歩一歩踏み占めるたびに、ガラスを踏んだような痛さを感じることになりました』
 けれど。
――それでも、人魚姫は歩きたかったのだ。
 クレヨンは覚悟を決めて一歩を踏み出す。
 嘲笑。怒鳴り声。それから、サーカスの人形たちが、団長の指揮で襲い掛かってくる。突き飛ばして先へと進む。ジャグリングの球が飛んできた。
 クレヨンが失敗するたびに歓声が上がる。
「へっ、人の失敗あげつらってるなんて余裕じゃねぇかよぉ!」
 清掃員Ⅱが嘲笑する客たちに中指を立てる。
「……これは教育上、よろしくねぇなあ」
 声。
(こえ)
 じぶんは、どんな声だっただろうか。戦わないとならない。このステージの上で。引っ張り上げられたステージでも、ここに来ることを望んだのだ。
 戦う。
 覚悟を決めるとナイフはそこにあった。クレヨンは太ももに括り付けていたナイフを抜き取り、投げつける。取り巻きの人形に当たり、砕け散る。
「よし、ビンゴ!」
 観客席からのため息。そして、ブーイング。
 クレヨンが失敗することを望んだ、冷えた舞台。聴衆はただ不幸を待ち望んでいる……。
「……幸せなんて、どこにもないのかもしれませんよ、クレヨン」
 シューニャの声は、残酷でほんとうにナイフみたいだ。けれども、団長の、エンリケのあざけっているものとは違う。透き通ったナイフみたいな、手術のメスだ。
 癒着した神経を取り除くような、手さばきに近い。
 ただ、シューニャには「もうおしまいだ」、と思ったら。いらないものの箱に入れたら、無常にすべてを削り取られていく容赦のなさがある。
「意地悪を言ってごめんなさい」
 クレヨンは狙う。
 ここには、音が溢れすぎている。
 キンキンした声。罵声。その中にも口笛みたいな音が混じっている。

――新しいHANOIを買う方が、いくらかお安いですよ。
――やらせってほんと? ほんとはしゃべれるのにって。
――感動の演出なんだよ。あの人間が、喉をつぶしたんでしょ。

 心のない言葉が、クレヨンの歩みを止める。
 外れたナイフを打ち返し、人形はけらけら笑った。
 クレヨンがピンチになるたびに、観客は沸いた。
「ねっ、ちょっと聞いていい?」
 IVはクレヨンに包帯を巻いて、声を潜めた。
「アンタは監察官の手伝いしてて、ひどいモノたくさん見たんでしょ? ひどい扱いされて、壊れたHANOIだって、何体も見たんでしょ。……人間が嫌にならないの? ああ、いいんだけど。返事しないの前提で話してるから」
「……」
「きっと、声を取り戻したことで、ひどい目に遭うわ。元通りになんてならない。幸せになる対価をよこせって言ってくる。世の中はね、不幸は自分のものとは思わないくせに、幸せになるには理由が必要だって言ってくるのよ」
「……」
「バカみたい。マイナスが、元ゼロに戻っただけなのに。きっともてはやされて、話してくれって言われて、何度も思い出すことになるわ。サイアクでしょ?」
「いいだろ、別によォ! ちょっとくらいちやほやされて、天狗になったってよ」
「全員がアンタみたいに馬鹿じゃないのよ。アタシが言いたいのはね……消えてしまうってのも悪くないってコトなの」
 クレヨンは立ち止まる。焼きごての匂いがする。クレヨンの投げナイフの狙いは逸れて、嘲笑があたりを震わせる。
 でも。
 でも。



 誰もが諦めかけていた、そのときだった。
「ねぇ、みんな、お待たせ!」
 ばあんと、病院の扉が開いた。
「アダムス?」
 HANOI教の教祖、アダムスの姿がそこにある。
「聞いたよ。ピンチなんだって~?」
「そうなんだ……残念だけど、今回はあまり良い結果にはならなさそうで、でもね」
「でも、諦めてないんだろ?」
 コーラルは顔をあげた。アダムスの目はきらきらと輝いている。誰かの燭台に火をともすろうそくみたいだ。
「うん」
「捨てる神あれば拾う神アリってね! いいかい。奇跡ってのは待ち望むものではないんだよ! それで、キョウダイに、お土産があるんだ」
 アダムスの後ろから、ばたばたとHANOI教のHANOIたちがやってきた。衣装はどれもばらばらで、あまり団体様という感じがしない。
 ただ、一様にケースを抱えている。
「急いで準備して! 麻酔も、まとめてやっちゃったほうがラクだろうからさ!」
「こ、これは?」
「声帯パーツだよ。キョウダイたちが……HANOIたちが提供してくれたんだ。
今はもう生産されてないパーツだって、ある。もしかすると上手くいくかもしれないよ!」
 強引なセールスマンみたいに、ぱたぱたとアタッシュケースをあけていった。
「これはね、歌唱用HANOIのイザベラ。こっちはね。救助用HANOIのオリンポス! それでもってこれは、ああ、逆だったかも!」
「アダムス、ねえ、あなた、最高だわ」
 メリーティカが感嘆して抱き着いた。アダムスはけらけらと笑う。
「でしょ? ほんとうはね、提供者のコジンジョーホーは言わないことにしてるんだ。だから、半分くらい嘘っぽい名前じゃない? あ、いいんだよ。この辺はね、ちょっとワケありで声を変えたいなってHANOIたちからの提供で――」
「大丈夫なんだろうな、それ?」
「大丈夫大丈夫。クリーンな奴だからさ! 少なくとも逮捕なんてされないし」
「これは……こんなに……助けてくれるHANOIたちがいる、なんて」
「何言ってるのさ。君のおかげじゃないか!」
「僕が?」
「君たちがHANOIの自由を認めてくれただろう。それで、僕たち、自分の体を、だいぶ好きにできるようになっちゃったんだもんだから――これは、ええと、自称――自称、飼育用HANOIの――ああこれは、動物園とかの――HANOIで、名前は確かね」

『諦めちゃダメっスよ、クレヨンちゃん!』
 不気味な不協和音は、聞きなれた音楽に塗り替えられる。
『ボクの得意な曲は、二番! そおれっ』
 シンディの曲が流れ出す。リズムを失った人形は倒れていく。
 嘲笑はぴたりと止んで、それからリズムは変わっていった。
 ステップを踏んで。
 くるっと回って!

 クレヨンの答えは決まっていた。
 それでもこの先に行こうと決めたのだ。
 クレヨンは決意して、一歩前に出る。
 そうだ。みんながここまでしてくれた。信じられるようにしたのは彼らだ。びっくり箱の底には、小さな希望が残っている。
 みんな、応援してくれたから。
「そうね。ここまできて投げ出したりはしないのよね。……聞いてみただけよ。それじゃあ、気を付けて」
 IVは分かっていたように笑った。
『やってみろ』と団長があざ笑った。
「わたし、きらいにならない」
 誰かの声。
 いや、これは、きっと自分の声。
「サーカスも、みんなも、応援してくれる人だっている」
 スポットライトが当たっている。
 クレヨンは呼吸を整えた。
「悲しいこともたくさんあったけど、今はちゃんと笑って泣けるの」
 ナイフを振りかぶる。
 太った人形の、上。狙いは糸だ。人形を引っ張っている糸だ。
 団長じゃない。投げナイフを構えて、振りかぶった。崩れ落ちるように人形が動きを止める。歓声が上がった。ばらばらとガラクタが溶けていく。
「めでたし、めでたしまであと少し。
でもその維持は、ちょっとたいへんかもですよ」
 とん、とシューニャが背を押した。

 音がする。小さい音だ。かすれた声。
 クレヨンの仲間たちは、耳を澄ませてじっと黙っていた。
 ずっと、その声を待ち望んでいたのだ。長いことずっと。
 小さな虫の声を聞き逃さないように、その音は誰も聞き逃さなかった。ずっと待ち望んでいた声。
 それぞれにどういう音なのかあれこれそれぞれ考えていて、そのどれともよく似ていて、違った。
「いい。てんき」
 たしかな音を聞いたとき。
 メリーティカは膝の上の本をお構いなしに立ち上がった。コーラルは泣き出し、ナナシは珍しいことだが、小さくガッツポーズをした。
 アダムスはけらけら笑った。笑いころげている。笑い転げながらなぜかスマートフォンで写真を撮って、「絵でどうやって伝わるんだよ」と呆れられていた。メッセージはそのまま送信されて、花開くように通知がぽんぽんと舞い込んできた。クレヨンの声を信じていた記者がばたばたと駆け込んできて、ナナシが「ほら、施設長」とティッシュを渡している。笑いながらイスからずり落ちていったアダムスは、ひっくり返ったまま、まだけらけら笑っている。
「やあ、春の訪れだぁ!」



 クレヨン。

 人が簡単に「奇跡」と呼ばわるそれは多くの人たちの努力によって成り立っているものだけれど、舞台裏での練習の回数や、比喩でなく血の滲むような苦労など観衆は知らない。
 それでも、悲劇よりも、出来すぎた話を待ち望んでいるには違いない。

 ここは舞台だ。
 君の舞台だ。

 マイクの前に、なめらかな音声が響いた。
「わたしはクレヨン。今日はとても良い天気」

2021.10.06

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