ナナシは何で動いてる

そんなに理屈のない話です

 ナナシは給料を貰っていない。それじゃあなんで動いている。人間にしたってHANOIにしたって、動かすにはそれ相応のエネルギーがいる。
「ナナシはコーラル・ブラウンの先回りをして、浮いた分のコーラル・ブラウンで生計を立てている」
 報道用HANOIの結論はこうだった。
 報道用HANOIからの報告を聞いたデスクは思わず「ばかじゃねぇの」と言った。
「ほんとにばかしかいないのか? パワハラじゃないからなこれ」
「いやばかにいくらラベル貼ったってパワハラですよ。中身変わってないですから」
「まあ、パワハラはいいや。とにかくどういうこと? 何があってどうなったの?」
「ナナシはコーラル・ブラウンのやりたいことを先回りして片付けるんですが」
「ウン」
「それです。そうすると使うはずだったコーラル・ブラウンが節約できるんです。どうやらそれで食ってます」
「何が”それです”だよ適当なこと言いやがって、製造工場でネジからやり直してこいよ。とっととあの雑務用がなんで動いてるか突き止めてこいよばか。
どっかにはHowとかWhyとかあるだろ、機械なんだから」



 報道用HANOIは「なんかHANOI保護施設の弱みを握ってこいよ、あわよくばスクープでも持ってこい」、みたいなノリで送り出されてHANOI保護施設、TOWER of HANOIにやってきた。
 諜報用よろしく心機一転、下っ端用HANOIになってせっせとHANOI保護施設に出入りする毎日。玄関から牛乳瓶を取り込んでいくと、施設長がぴょっと伸びてナナシを呼ぼうと予備動作をする。
 ナナシはホウキを持った手を止めた。
「ナナシ」
「ハイ」
 ナナシは音に敏感だ。とくに名前を呼ばれるのにはものすごく注意深く反応する。施設長が「ナナシ!」、と呼べば、「あ、いないや」ときょろきょろした後、ナナシが結構離れた給湯室からやってくるような、HANOI保護施設では、そんなことがたびたび起こった。
 この速度がおそろしいくらい速い。
 たぶん、ナナ、と呼ばれたころには「なんですか?」と言っている。いっそナ、くらいで動き始めている。もっと前、ナ行、歯茎鼻音[n]、施設長の舌端と歯茎が閉鎖を作った瞬間にすら、認識している節がある。
 やばいですよあれは。よくわかんないけど。
 休憩室に逃げ込んできたら、職員が「あああれ、すごいですよね」と風物詩を紹介するような様子でお茶を飲んでいて、ここではどうもあんまり珍しいことじゃないらしい。
「もう~スッゴイからね、コーラルちゃんは♥」
 すごいのは施設長なのだろうか?
 キャシーと取り巻きのキャシーボーイズがきゃあきゃあと休憩室を占領している。キャシーボーイズというのは、雑務用でありながら法曹界のスターに輝くかっこいいキャシーに憧れて法曹界を目指す熱心なHANOIの群れである。「いついかなるときも自分を磨くのよ」をモットーに、忙しい中にちんまりしたお弁当を自作してきていて熱心にカメラを回している。その一人が言った。
「僕も心がけてみたんですけどあんまりうまく行かないです。僕のスコアは0.5秒74ってとこかな。上の人はもっと上手ですよ。施設長やさしいから、ゆっくりの方向に進化する人たちもいます。こっちの方が難しいとも言われています。
あ、もっと運が良ければもっとすごいの見れますよ」
 なんかそういう競技があるのも初めて知ったし、競技性には興味なかったし、ホエールウォッチングみたいなノリですごいこと言われて、潜入している下っ端用は「ほへー」、みたいに返すしかなかったが、記者の本分を思い出して一応は「どうやるんですか?」と聞いた。
「施設長の様子をよく観察して、予備動作、つまりなにかしたいときには筋肉が強ばるとかちょっと緊張するとかそういうところを見るんですけど、まあムリです」
「世の中には考えてもムダなことがあるわっ、なんにでも理由があるわけじゃないのよ。結局はまあ、ナナシちゃんだからってことかしら」
 キャシーとキャシーボーイズの議論は四季のように次々と移り変わり、HANOIのありかた、それから判決文の要約をデータベースに載っけるアルバイトの話という真面目なのか俗なのかわからんところまで飛んでいった。
 結局はまあ、ナナシだからという答えで、肝心の仕組みはうやむやのブラックボックスに入った。

 下っ端用HANOIは思った。
 もし施設長が、
「ナポリタンが食べたいな~」
 と発言したいときは、いったいどうするんだろう?
 お昼の休憩室、テレビの3分クッキングの番組、上手にできあがったナポリタンが画面に大きく映っている。ちょうどよく施設長が入ってきて「やあみんな、お弁当がカワイイね」とお弁当を口説きはじめ、キャシーボーイズの一人が「手抜きなんです、手抜きなんですほんとこれ」と頬を赤らめていた。眼鏡の奥の瞳がテレビの方を向いた。
「ナ」
「次の休みの日に作ってあげますよ」
 ナナシはものすごくめんどくさそうに言った。
 この世の全ての[n]がナナシのものであるはずもあるまい。
 施設長には、夏休みがありナイアガラの滝がありないメガネがありなんかさあ~という枕詞があり泣きたくなっちゃうんだけど、この年になったらさ涙腺緩いのかな~みたいな豊富なディクショナリーが備わってるはずだ。それでもナナシは謎のリスニング能力を発揮して施設長に返事するしそういうときはほんとうにナナシが呼ばれているっぽいのだった。
 もちろんぜんぶに気がつくわけじゃない。そんなに万能じゃない。「ナナシー、あれ?」と言って施設長がどっかに消えてしまって帰ってこないこともある。そういうこともある。施設長はよく室内でも外でも消失する。そんなときはあとからやってきたナナシに「施設長どこ?」と聞かれたときは右とか左とか上とか下とかそれらしきキーを入力するとだいたいわかったナナシがどっかにいって、消えた施設長が戻ってくるのだった。
 それでなんでもなかったかのように日常が回り始める。



 デスクはHowとかWhyとか気にしていたが、もしかするとジャンルが違うのかもしれない。キャシーの言うとおり、ぜんぶに理由なんてない。世の中には考えても無駄なことがある。
 ナナシの超能力じみた挙動は、ときどきは施設長と一緒にいるときばかりでもなかった。
「ナナシ! あれ? あそっか、今日はいないんだった……」
 何かに導かれるように、施設長の電話が鳴った。
「ああ、ナナシ? ちょうどよかった。うん。そうなんだよ。この前の決済のコトなんだけどね、アレと一緒にしまった申請書ってどうしてたっけ。どうもしてない?
あ、そう、はい。はい。はーい、梨をね、そう。とっておくからナナシの分もあるよ、差し入れ、シャリシャリしててすごく美味しいんだよ、これが」
 施設長に盗聴器なんてつけてるんじゃないだろうかという疑問は「そんな暇あるかよ」の一言とともに一蹴された。
 暇。
 とにかくHANOI保護施設は忙しく、しばらく暇になりそうにない。もしも暇になってしまったら、その隙間がいったい何で充填されてしまうんだろうか。
 表側に出ていない以上、あんまり中身って覗くべきじゃない。ソファーのふわふわのところとか開けてみたらスポンジがすごい配色だったりする。人だって中身は基本的に血まみれだけど中身だから中身で無傷ってことですんでいる。人とかHANOIには内側と外側を分ける膜がありその中に収まっていればよし、完璧に自分でいられるはずだった。
 その境界がでろでろ溶けてるなら恐ろしいコトだ。あんまりやるもんじゃないと思う。



「ナナシさん」「ちょっと待ってろ今これを終えたら行くから」
 別にナナシはいつだってエスパーってわけでもない。
 そのへんに寝っ転がっているようなフツーのコミュニケーションがてん、てん、てんと無限に転がっていった。「暑い」とかそういうプラスでもマイナスでもないが、コミュニケーションをとった、というシグナルを互いに発し続けて敵意のなさを証明し続けている。
 車の下に滑り込み、ジョッキで持ち上げた車からナナシの半分がはみ出している。神がかり的な超聴力は、施設長以外のときはとくには発揮されないらしかった。
「最近どうだよ」「何がですか」「仕事だよ」「お給料貰ってます」「当たり前だろ仕事なら」
「あれどうやるんですか」
「あれってなんだよ」
「ほらあれ、施設長早押しクイズみたいな」
「は?」
 おっとこれはHANOI保護施設の一部の職員だけで言われているやつだった。下っ端用は口を慎んでボールを転がした。
「ほら、ナナシさんって施設長に呼ばれてたらすぐ反応するじゃないですか。あれ何?」
「何って……何? やりたいの?」
「いやエントリーはいいです予選落ちしたんで書類で。どうやってあれ読み取るんですか?」
「すぐ返事しねぇとぶん殴られるところにいるとだな、だいたい5割は殴られるから鍛えても意味ねぇしあれはやめとけホントにムリだからキツいし得るものなんもねェよ。……何の話だ?」
「でもどうやるんですか?」
「さあ? いやできてねぇよ、何の話だ……」
 下っ端用があーっこれは何の助けにもなれないなと思って、反射の色あいに混じっている虹色を追いかけていると、車の下からナナシの全体が出てきた。
「あーダメだな、ぜんぜんわからねェ、無理。業者呼んでくれ業者」
 業務用のタオルを放り出す。
 おっ雑務用と普段の仕事ぶりからは結構無能でなんかギャップが面白いな……と思いながら工具を集めていると、「なんですかぁ!」とナナシが声を張り上げてびっくりした。
 そんでもって施設長が埋め合わせるみたいにあとからやってくる。
「あーごめんごめんナナシ今ちょっといい?」
「ええ。ハイ。いつでもどうぞ? でももうちょっと待ってください。ホントに間が悪いな……汚れますよ」
 あきらかに速い。
 あるいはナナシが「なんですかぁ!」と言ったから、事象とかをねじ曲げて、施設長が現れるのかもしれない。ナナシが呪文を唱えることで時空がゆがみ、後払いで施設長が生じ、てってってと走ってくる施設長がやってくるのである。
 車の下に魔方陣でも書かれていやしないだろうなと思って覗いたが暗くて見えなかった。可能性は0じゃない。
 ナナシが先で施設長があと……馬鹿なことを考えていたら指示を聞き漏らしていたらしくてバケツに水を突っ込みそこねていてじゃばじゃば流れて「オイしっかりしろよ、…………まあいいけど」と言われ、施設長がのこのこやってきて「うわぁ顔真っ黒だね君達ところでアイス食べる?」と言った。コンビニの袋にゴミを回収しながらだったが、それをナナシが横からかっさらって室内に戻る。
 施設長はゴミが溜まってたりしたら威張り散らさずに「あ~いいよそれ僕がやっておくから~」と言って結構やっていくタイプだった。それを先読みして前にやっちゃってぜんぜんそういえばゴミが一生貯まらねぇ~とか思っているとナナシのおかげだったりする。
 1回休み。
 もしここがなんか営業的なこうきらびやかな店で、施設長が無限に威張っていたらたぶん「灰皿」って言う前に灰皿が出てくるし、施設長のグラスがあくことはないし、便利だし快適で室温とかは完璧だ。しかし施設長は煙草を吸わず、酒もほどほどで、灰皿って見当たらない。室温は25℃。室温だけはホント。でもこれはエアコンの功績だ。ナナシのおかげではない。
 もうほとんど記憶の彼方くらいの頻度になったデスクは言った。「HANOI保護施設の職員が給料受け取ってないって明らかにヤバいだろ。どうしてなのか聞いてこい、さもなくばすっぱ抜いてこいよ、あれはなんだ?」
 あれはなんだ?
 そっちについてはもう諦めた。じゃあ何? なんで?
 ナナシは損するタイプだなあ、ぜったい10のうちの1も気がついてない。
 どこに献身を投げ捨てているんだろう。橋の下か?
 献身はとても繊細な生もので、気がついたらでろでろしたモノに変わることだってある。気分でぐらつくような天秤で返してくれと迫りたくなるくらいなら、金に換えておく方がまだマシだとデスクは言う。HANOIは乾いてるねーそんなに人が嫌いですか、と思う割りにはまあ、それなりに健康的だなとも思う。
 いずれ爆発してどっかなんかいやになってぱーっといなくなったりせんのかな、と思うのだが、どうにも、どっかで帳尻があっているらしい挙動があった。
 確かに施設長の「いっつもありがとー」は結構な嬉しさだが、さすがにそればっかじゃ補えないような気がするのは同意だ。
 どっかで大量の恩が粉飾している気配があった。消えていく[n]の言葉と何か関係があるかもしれない……。
 問題はHowでありWhyである。



「今俺を呼ぼうとしましたか?」
「あ、うん、」
 それでもって、いよいよナナシの反応は音速を超えた。持て余された「ナナシ」の部分が抜け殻みたいに落っこちる。下っ端は「あわわ……」と言ったが誰も驚いてなかった。もうそんな季節だねえ、とばかりにゴト、と落っこちた「ナナシ」の部分を拾って集めていた。
「ああっ、クレヨン、ぺってしてぺって」
 クレヨンちゃんがひょいひょいとあまった吹き出しを拾ってあろうことか口に含んだ。
「? 食べれる」
 ぺっ、と舌を出すともうそこには「ナナシ」はない。メリーティカがふうっとため息をついてスカートの裾でころころあまった吹き出しを拾っていった。
 ないはずのものをキャッチしてしまうとどうなるかというと、施設長の「ナナシ」があまるわけだった。完璧に実体のない、空っぽの卵の殻。生まれる前の発声を先に借りてきてしまったのだからそうなる。施設長の「やろうと思ってましたけど……はい、すみません、今からやります」が積み上がった信用ならない負債である。
 Null Exception。透明で透き通った「ナナシ」の抜け殻だった。強制終了したばかりに解放されないリソースはずーっとその場に残り続けている。
「かさばらないし、冬場は良いのだけどね」
 メリーティカは可愛らしく首を傾げた。夏場にはあまらせすぎるとどうしようもなくなって冷蔵庫を占領する。
 捨てようとしたらすごく睨まれるし、いや、顔が怖いのはいつも通りなんだけどあまりに個人的のものなので誰もどうしようもなかった。
 プリンにくっついた他人の筆跡の付箋みたいなもんだ。付箋そのものだけど。
 なるほど、こうやって施設長を節約するのか。
 施設長の「ナナシ」、という部分は丸っこくもちもちしている。
 あまった発音は職員みんなで揚げてもそもそ食べることにしたのが2、3回あり、それでもあまった分は、HANOI教のバザーで売った。高く売れた。
 ナナシ未満、ナナシの声、瓶、あるいは現象としてビニール袋に詰め込まれた「ナナシ」は当人以外には価値のないものだとは思うのだが、買っていった人曰く、どうしようもない郷愁を感じるのだという。「いいですね」と言ったら、知り合いに送りつけるらしかった。他人に送りつける郷愁爆弾としての「ナナシ」だった。あわよくば嫁いだ孫娘が帰ってこないかなって思うのよ。
 デスク、これが、Whyです。
 空っぽの瓶なんて知るか、なんのつもりだと返ってきてうわまだあっちに自分の席があるのかよと思った。「郷愁? なにそれぜんぜん感じねえよ。っていうかこの瓶はなんだ? 仕事してるのか? 何を言ってる? お前コーラル・ブラウンに影響されてばかになってきてるんじゃないだろうな?」
 それからデスクは付け足した。
「飯食べてるか?」
 ああ、これが郷愁というやつか。故郷なんてないはずのHANOIは思った。



「いや、あれはあんまり……」
 意外だった。
 施設長はというと、ものすごくきょろきょろしたあと言い辛そうに椅子にもたれかかった。
 ナナシの反応速度について、施設長にインタビューを試みている。
 実はやめてほしい、実は困っている、先回りされると、まるで舌打ちで呼び出すみたいで、ちょっとかわいそうなんだ、という。
 それにちゃんと用意してるんだよ、ナナシの分はいつも出せるようにしてるの。惜しんだことはないのに、ぜんぶ先に勝手に持って行っちゃう。
 どうせナナシの分だからぜんぜん、先に持っていくのはいいんだけどね、あれはまだ出来てないんだよ。ちゃんと放っておいたら使えるようになるのにね、ナナシは「置いてたらそのうち熟すでしょ」ってぺいってとっちゃうんだよね。合理的だから。
――いやですか?
 ずっと顔色をうかがってるみたいじゃない。そんなの。
 呼んでから来てくれればいいのに。そのくらいの手間は惜しまない。
――呼んでも来なかったらどうしますか?
 施設長はおめめをパチパチして、「まあ、ナナシは来るよ。必要なときにはね」と言った。
 実際ナナシは来るのだった。
 施設長の紅茶のカップが空になったときに、ナナシがおかわりを持ってやってくる。
「必要なときには。来なかったことは一度もないんだ。来なかったときはね、いらなかったときなんだ、ナナシの助けが」
 施設長はいらなかった、の響きを重く見たのか早口で最後を付け足した。HANOIの存在意義とかアイデンティティーとかを土足でそーっと踏み荒らさないようにするばかりか巧みにかわしたその仕草に、HANOIの部分がちょっときゅんとする。
 あ~、これ? こういう塵も積もればみたいなのがもしかするとちょっとした嬉しいお小遣いになってるのかもね~と思ったのだけれども、やっぱりまだ粉飾の気配がある。
「これはね、ナナシがいなかったときの、僕がハンソン家にお仕事に行って、広大な屋敷で迷ってたときのことなんだけど……」
 施設長の声は落ち着いていて優しい。
 ハンソン家というのはものすごいエライ人で、とってもお金持ちだ。HANOI保護施設のいちばんのスポンサーでもある。ぶっちゃけHANOI保護施設は大部分がハンソン家からの定期的な継続寄付(コヴェナント)でまかなわれている。クローゼットが10個以上あるらしいし、フェルミ推定(難しい)をするとしたら32個はあることになるらしい。ほへーっと思いながらでも施設長だしな……と思って話を8割に差し引いて頭の中でクローゼットを解体していたら施設長がにこにことお弁当箱を開けながら熱っぽく言った。
「でも、すごくご飯が美味しいから、行く価値はあるよ。いい人だしね、HANOIには」
――HANOIには? 施設長には?
「あの人達は、人には厳しいよ。いや、違うな。HANOIは基準を満たしてるんだ。きっとみんな、性善説というか、良いモノでありたいと思いながら生まれてくるでしょう。そう作られてるからね。
人はもうちょっと自覚的に頑張らないとならない。結局基準は同じなのかもしれない。きっと人はもうちょっと頑張らないとならないね、君達みたいに」
 いいじゃんとちょっと儲けた気分になってしまったのでいけない。
 施設長はにこりと微笑んで続ける、
「で、そのときに限って庭にワニがいて」
「え?」
「ナナシは来なかったけど、ワニには首輪が付いてたし、とにかく大丈夫だったんだ。噛まれてすらいないし。ほら、クローゼットがたくさんあったからね……」
 この人も大概よく分からない場所でよくわからない目にあってよく分からない助かり方をしている。
 大丈夫だったんだろうか。
 知らないところで施設長が食べられたらナナシはどうするんだろう、ワニにパンチして施設長を取り出すんだろうか。これは想像がつかない。
 また無から有を生み出すんだろうか。貰うべきだったはずの「ナナシ」をありったけ飛び出して風呂敷に包んで家出するんだろうか。ナナシがいないと施設長はワニに遭遇してしまうんだろうか……。
 もしかしてからかわれた?
 またまたー、と思って施設長の顔を眺めると施設長は困ったような笑みを浮かべて、どっちなのか分からない。「さてと」と言って施設長はあまったナナシを丁寧にガラスの扉にしまい込むと簡単な鍵をかけてしまった。



「は? 何? 何が目当てで働いてるかって?」
 ナナシは粉飾疑惑についてしらをきった。給料を受け取ってないことについてはやや負い目であるようだった。ほとんどの職員は知らないだろう。
「っていうかよく知ってたなお前……」
 資料庫には緊張感が漂っている……と言いたいが、棚が奥三つをはさんで鼻歌を歌っている施設長がいるため、お財布を差し出して助かりたい気分にはならなかった。
 施設長なしでどうやって生活していたのかと問うと、生活はしていなかったという。つまりは死んだように生きてたのであり、それは生きてたとはとうてい言えない。ナナシの人生はコーラル・ブラウンのところによこされて始まったのかと聞くと、完全に終わっていたところにコーラル・ブラウンのほうが強引にナナシをとってきたのだという。あとメリーティカとクレヨンもとってきたのだという。ほーん、ロマンチックね、と思ってたら登場人物が急に三倍になったので、三体のHANOIが微妙なバランスで絡み合ってクレーンゲームで釣り上げられる風景を想像する。
 でも施設長は「ナナシにはものすごく頼み込んできてもらった」という。無理やり連れてくることと、頼み込んできてもらうことは両立しないので、どちらかが嘘をついていることになる。善良な施設長がうそをついているとも思えない。
 ごとん、と足下にあまったナナシ、呼ばれるはずだったナナシのNullが落っこちてきて顔を上げたらナナシがもういなかった。施設長との話し声があとから追いかけてくる。
 やはり時空がねじれていて、粉飾の気配があった。



 最近思い始めた。粉飾決済の反対側に[n]があるんじゃないだろうか。
 つまり見えないうちに先回りして消えてしまっているから引き出せないのであり、ナナシは無から有を作り出してるのだ。
 錬金術か?
 ナナシは、無限に支払えるクレジットカードで永久に買い物しているようなものであるのかもしれない。利子は? わからない。先物取引した「ナナシ」とか工夫して節約してあまらせた施設長でたんまりと精神的にもうけている気配がある。
 これが報道用HANOIの出した結論で「コーラル・ブラウンの先回りをして、浮いた分のコーラル・ブラウンで生計を立てている」ということになる。
 いずれにせよ常人には理解できない理屈で生きていて、何らかの等式が成り立っていて、ナナシの中ではそれはもう当たり前のことになっているんじゃないだろうか。なんか今すいすい謎の理屈ですいすいと飛んでいる人に「実はソレは成り立たないんです。おかしいですよ。飛べてないんじゃないですか?」って言ったら、「あれ?」と思って落っこちたりしないだろうか。
「え、あれ? 呼んだ?」
 ついに施設長までもがあちらの世界に行ってしまった。
 誰も何も言ってない。
「呼ばれた気がして」
 施設長がナナシを振り返る。
「ハイ、お呼びました」
 ナナシは嬉しそうな顔をしていた。けれども施設長のほうは常人でそれ以来ナナシを先回りすることはなかった。HANOIが具合を悪くするとレントゲンみたいにわーっと気が付くのだけれども、施設長は音速を超えたりしない。
 細やかな気遣いで音速を超えるのはいつだってナナシだ。
 でも、待てよ。施設長の方が先だとナナシは言っていた。施設長がいるからナナシがいるのかもしれない。この場合はこう。「施設長が呼んだからナナシが呼ばれた」。
「ナナシ、呼んだ?」
「呼びましたとも」
 あまったはずの施設長が落ちてくるのを待って天井を見上げたが、何も起こらなかった。
 ほんとうはナナシはべつに施設長を呼んでなかったのかもしれない。あるいはずっと呼んでるのかも。そういうことにしたかったのかも。
 イエスと答えたら呼んでることになって過去に遡って、ナナシが都合の良い方に書き換えてしまって、施設長を呼びましたと言っている。
 都合良く施設長を引き出してせしめて先払いして着服して銀行に預けて利子を得て、それでもってやりくりした施設長を少しばかり自分のモノにしている気配がある。本当はぜんぜんそんなことないのに、「あなたに会うために生きてきました」って人生を振り返って、あとから勝手にラベルを貼るのだ。
 報道用HANOIはレポートをまとめる決意をして頷いた。

2021.09.04

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