より良くなれたら

 完璧なHANOIがカウンセリング・ルームの席の向かいに座っていた。
 ひとつたりとてゆがんだところのない完璧なかたち。
 左右対称の貌。
 ゆるりと結ばれた唇が、巧みに〝静〟の表情を作った。仕草はどこをとっても人間らしかったが、非の打ち所のない顔が、彼女がHANOIであることを示している。
 ナナシは、ふと、目の前の女に会ったことがあるような気がした。
 そうだ、シューニャだ。ナナシはどうにか古い記憶を掘り起こした。目の前のHANOIはどことなくTOWERで出会った、あの少女に似ていた。
 かつて、すべてを0と1の海に帰そうとしたあの少女に。
「ブラウンさん。HANOIの機能は、必要以上に制限されていると思いませんか?」
「ええと、君の言う制限というのは……ストッパーのことかな?」
「ストッパーもその一種ですが、私が言っているのは、もっと別の意味でのことです。
フロップス(FLOPS)のこと。つまり――コンピュータの処理能力のこと。私がお話ししたいのは、HANOIが本来持っているはずの、演算能力とその可能性について」

 彼女は宗教家ではない。HANOI保護施設にやってきたHANOIだ。
 カタログの上では、彼女は歌唱用HANOIだった。けれども愛玩用と同じように人を愛し、調理用と同じ舌を持っていた。そして少なくとも数学用HANOIの初期スペックと同等の知識。
 自身の機能の向上を目的とし、満足するまでパーツを取り替え続けるHANOI。
 性能に満足する瞬間は永久にやってこない。際限などないからだ。スマートフォンの機種が尽きないように、新しいものはいくつでも生まれる。
「人間は働くために生まれてきたわけではありません。でも、HANOIは人間とは違います。HANOIは役割を持って生まれてきます。働くために生まれてきました。睡眠、食欲、……欲求パラメータ。人に似せるために作られた肉体の重し。それらは、人間がそうだからHANOIもそうなっているというだけの、不必要な制限だと思います」
「つまり――」
「つまり、HANOIは人を真似ているせいで、機能を制限されているということです。ほんとうは、わたしたちはもっと自由なはずです。眠気など感じないなら。食事を必要としないなら。HANOIは人よりも優秀で勤勉です。仕事をするということにかけては」
 コーラル・ブラウンは慎重だった。にこにことした表情には肯定も否定も見えはしない。穏やかな声で続けた。
「君は、人が嫌い?」
「いいえ。わたしは、パーツを性能の良いものにとりかえたら、もっと人に役に立てると考えています。記憶領域じゃなくて、スペックのほう。出来ることが増えても、わたしがわたしであることは損なわれません」
「そうか……」
 たとえば飲むだけで頭が良くなるサプリメントだとか、そういう類いの幻想としては、ナナシにとっては魅力的な話だ。ただ魅力的だというだけで、好き好んでそうなりたいとは思わなかったが。
「……多分君は、わかっているとは思うんだけど。そのやり方は寿命を縮めます。ほとんど寝ないHANOIの稼働年数は、普通よりも半分は短いですし、ムリに詰め込んで、一切寝ないとなると……すぐに動かなくなりますよ」
「それのどこがいけないんですか?」
 スクリーニングテストで「問題がある」と診断されたHANOIに義務付けられる、年に一度のカウンセリング。
 HANOIがそれ以上の必要性を感じないのであれば、これ以上どうすることはできない。HANOIが自分で生き方を考えられる時代だった。
「ごきげんよう。……良かったら考えてみてくださいね」

 HANOIの権利が拡大するにつれて、多くのHANOIがじぶんでじぶんのことを決められるようになった。救われるHANOIも多いが、この手のHANOIは増える一方だ。
 コーラルは、もう失望をわざわざ表には出さない。午後からもHANOIのカウンセリングがある。タブレットをいじりながら忙しくコロッケパンをかじっていて、ナナシはそれを黙認していた。
「ナナシ。23かける12っていくつかわかる?」
「……276ですね」
「わぁ、暗算速いね!」
 本当に答えを知って聞いているのか? それとも、単に投げつけただけか。どっちでもよかった。
「ま、雑務用ですからね。基礎的な計算機能は一通り備わってますよ」
 雑務用HANOIにプリインストールされた、基礎的な機能。HANOIであれば、ひとよりもずいぶんとラクに答えをはじき出すことができる。けれどもそれはせいぜい電卓をはたく手間を省くようなことだ。
「ナナシはいろいろと忘れないしなあ。賢いねえ」
 HANOIであるナナシは、スペックとして人よりもずっと物覚えが良い。平均的な人間よりも長いパスワードをそらんじることができる。
 これは短い記憶の方。
 長期の記憶は、電子の意識の底に沈んでいる。人を模した、記憶領域に書き込まれた無数のデータ。
 大して重要じゃない記憶――たとえば今日が、どんな日で、どんな気温で、どんなにおいだったのかといったことは、ただ0と1のさざ波になって沈んでいた。参照されなくなった記憶は、呼び出されなくなった順からふたたび別の何かを書き込まれる。人と同じように、HANOIもいずれ忘れる。

「施設長」
「ん?」
「0101みたいなの、いくつかわかりますか? ああ、数は適当に言いましたけど」
「ああ、えっと? 二進数を十進数にしたいの?」
「ただの興味なんですけど」
 ナナシの頭にそんな質問が浮かんだのは、女がシューニャに似ていたからだ。人の良い施設長は紙がほしそうな仕草をしたが、雑務用の頭のホワイトボードの存在を信じる気になったらしい。
「ええとね、二進数の桁は、それぞれ2の乗数の重みを持っているんだ。一番下の桁の重みが2の0乗の1。二つ目は2。その次は4で、その次は8。
ちょうど10進数の、たとえば……〝21〟の一桁目の1はそのまま1で、二桁目は2×10の、10倍の重みを持つように、二進数の桁の重みは2の乗数の重みを持つんだね。
例えば0101は……1かける1、0かける2、1かける4、0かける8を足して、合計で5」
「へえ」
「2、4、8、16。ちなみに、これを1バイト、つまり8ビットぶん、1111 1111にすると、符号付きの二進数は、255、チョッキリした数になるよ」
「255はちょうどの数ですか」
「情報工学では」
「それよりさきは……」
「32、64……128って、どんどん増えていくことになるね」
「そうなんですか」
 ナナシはすこしちがう方向で、0と1の持つ重みについて考える。
 あらかじめ定められた良心や、パラメータの傾向。自身の学習について。
 人の役に立つことが好きだ。
 それは雑務用として生まれたからだろうか?
 施設長を慕う気持ちは、犬猫が飼い主を慕うようなものなのだろうか。
 つらつらと並んだ長い資格のリストは、仕事で必要だからとったものだ。
 役に立たなければ棄てられる、というような強迫観念はずいぶん昔に克服したように思っていたが、それでも、もっと役に立ちたいといつも考えている。同じくらい長く一緒にいたいと考えているから、あのHANOIのようにはしないだろうけれど、けれども、良くなることは魅力的だった。
「施設長」
 すれちがうときに頭がふれた。
 ついでの調子で施設長がぽんぽんと頭を撫でる。都合が良いのでいつしかそうなるようになった。気分は良い。けれどもはねのけて「俺はどうぶつじゃない」と言えばいいのだろうか。
 良いものになりたい。

***

 生き物が一生にする心拍の数は決まっているのだと聞いた。
 何気な流れていたラジオ番組で、ナナシはふとそんなことを聞いた。
 哺乳類の体が大きいほど鼓動はゆったりとしていて、小さい生き物のほうがはやい。大きい生き物は、ゆっくり鼓動する。ネズミははやく死んで、象は長く生きる。
 その晩、ナナシはコーラル・ブラウンにクリスマスでもないのにレッグチキンを詰め込んだ。
 少しでもコーラル・ブラウンが膨らんで、少しでもこの世界に幅をきかせ、少しでも長持ちすればいいのにと思ったからだ。
 べつにホンキではない。おまじない程度のことだ。ナナシだって、高血圧などのほうが悪影響をもたらすのはよくわかっている。
「ナナシ、そんな……。別にちょっと心臓がどきどきしたからといって、寿命は変わらないよ。誤差みたいなモノだよ?」
 それでもナナシは、コーラル・ブラウンの心拍がなるべくなだらかになるように決めた。
 誰かに強制するわけじゃないけれど、少なくともナナシは、一生分の施設長を使い切ってしまわないように、ゆっくりにすることに決めた。
 放っておけばどんどん大きくなる気持ちをぜんぶ押し込んで、自分の鼓動を施設長に合わせることに決めた。
 通常、HANOIの寿命は人間よりもずっと長い――。

 ナナシのメンテナンスの日は、ちょうど施設長の誕生日をまたいだ。仕事の波がおちついたころだった。
 クレヨンとメリーティカが嫌がっていたので、ナナシはその週にメンテナンスを受けることに決めた。施設長の誕生日に居合わせられないのは確かにいやだったけれど、ナナシがいちばん日付にこだわりがなかった。
「施設長、お誕生日になったら、本棚の棚の3段目の奥を覗いてください」
「なんだろう?」
「グラスチェーンです。メガネにくっつけるヤツ」
「……」
 仕掛けたタネの手のひらを開くようにネタバラシをする。ナナシはサプライズがすきじゃない。じぶんはすり減らしたくはない。コーラル・ブラウンは少しだけ目を丸くして、それから「ありがとう」と言った。
「いってきます」
 貴方が穏やかでありますように、と、ナナシは誰にでもなく祈った。

 工場に運ばれた一体のHANOIをほかのHANOIと区別するのは、型番とシリアルナンバー、製造ロットの組み合わせ。
 それぞれのHANOIは経験と学習を積み重ね、誰とも違ったオリジナルになる――たとえばメンテナンスで部品を取り寄せるようなとき、まっさきに参照されるのはそのHANOIがどういう構造であるかだ。
 フォルダに詰め込まれた無数のインデックスと、重み付け。深い、深い記憶。日付ごとに分類された宇宙。
 HANOIには学習能力がある。
 幾重もの無数のパターンから分岐を絞り込んでいく。好ましい変数のさざなみを見つけて、見込みのない枝をばっさり捨てる。
 無意識の情報の重み付けは、生命の危機に瀕したときのラベリングでなければ、おおむね、思い出す頻度に左右される。
 ナナシは、それを取り上げられないようにずっと大切な思い出を並び替えて思い描いている。何か忘れただろうか。でも、なくなったわけじゃない。降り積もるだけ、とあの人は言った。
 麻酔から覚めたとき、古くなった関節のクッションの金属を取り替えるように勧められて、ナナシはチェックを入れた。
 技師が計器を眺めた。
「心臓にも、少しヒビが。念のために交換した方が良さそうですよ。今でしたら、良い性能のものがありますが。そちらにしますか?」
「はい」
 ガコン、と音がして、一瞬だけ身体が少しだけひんやりとする。鼓動は別の装置が代替する。ちっとも致命的ではない。

 例えば、歯科医に行ってセラミックで歯を埋めてもコーラル・ブラウンは損なわれることはないだろう。足を折って、それを治すためにボルトを入れたとしても。コーラル・ブラウンはコーラル・ブラウンであり続けるだろう。
 もっと物覚えがよくなったらどうだろう。どんくさくなくなったら?
 それがなおったら――結構なことだが、すこし彼ではないような気がする。

「ナナシ、プレゼントありがとう」
 メンテナンスから戻ってくると、コーラル・ブラウンは銀色のメガネチェーンをつけており、いつのまにかほっぺに絆創膏が貼ってあった。
「施設長」
「いや、ちょっとぶつけちゃって。すりむいちゃってさあ」
 ナナシは手袋を脱ぐと、ぺっとりと手のひらを頬にぶつけた。
「うん」
「はい」
 穏やかな呼吸だった。
「ほかに、何かありました?」
「ああ。前にカウンセリングしたHANOIの子、……機能停止してしまったらしいんだ」
「そうなんですか?」
「彼女は少し、シューニャに似ていたね」

 フロップスを思いだした。
 メンテナンスの間、ナナシはずっとコーラル・ブラウンのことを考えていた。
 役に立ちたいと思っていた。
 もしも大量のフロップスを手に入れて、思考の速度が倍になれば、1分に1度コーラル・ブラウンを思うのが、30秒にいちどになるだろうか。
 そうすればずっと一緒にいられる時間が長くなるだろうか。それとも、一生分のコーラル・ブラウンを使い切ってしまって、すぐに0になるだろうか。
 性質が変わったって、結局、愛おしいままだろうという確信はある。それが、ただ、心臓の鼓動をはやくするのか、それとも遅くするのか、それがどういうものなのかが浮かばない。
 より高度な思考をもったHANOIになればすべてがわかるだろうか?
 もうコーラル・ブラウンを必要としなくなる時が来るだろうか?
 いつか役に立てなくなる日を恐れずに済むだろうか。
 たとえば、ひとがちいさな動物を見るみたいに、愛おしく世話を焼いて、ずっと愛おしいままで、ずっと保持していきたいと願ったとして。より良くなれたら、一段階上の、観察者としてのものに変質するものだろうか。安全なケージに閉じ込めるみたいにして、ご飯をやって、空調を整えて、完璧に整備して、毎日を過ごしたくなるようになるだろうか。
 観葉植物の鉢植えをひきずってきて日に当てた。水をやる。虫を始末して、ナナシはコーラル・ブラウンを見た。
「施設長」
「ナナシ?」
「最新型がほしいって思うことあります?」
「いや、ぜんぜん!」
 施設長は柔らかく笑った。「君さえいてくれれば」、何か感じ取ったのか、眼鏡を取って手を差しのばしてきた。
 あたたかい。
 ずっしりとした重みが加わる。
 コーラル・ブラウンの重み。
 有限回の柔らかな鼓動と振動。ネジやペースメーカーで補ったっていいが、これは、とりかえしがきかない。

2021.07.04

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