用紙のおかわりは無料

「あっ」
 コーラル・ブラウンは恐怖した。
 ボールペンの先がひっかかって同意書が破けたことについてもだが、なによりも間髪を置かずに、目の前に新しい紙が置かれたことに恐怖した。
「どうぞ」
「え?」
「どうぞ?」
 まるで手品のように、目の前には同じ相対死同意書があった。
 今更ながら、やめておいたほうがいいんじゃないだろうか。そうはいってももう引き返せないところまで来てしまった。
 左手にボールペンを握らせてくるナナシの力は柔らかく、あくまで添えている手はそっ……としていたが、なんというか、これは、闇金業者のにこやかさだ。
 この状況で「怖じ気づきました」と言ったら、即座に窓から投げ落とされるような気がする。ついでに、間髪をおかずに上からナナシも降ってくること請け合いだ。
 ……どうにもこの書類は〝厄〟の類に入るようだ。

 一か月ほど前のことである。
 HANOI保護施設からの、ちょっとした外出。「そろそろ僕も腹をくくるべきかなあ~」と言った瞬間、コーラル・ブラウンは自転車でずっこけて利き腕を折った。
 おかげで業務には結構な支障が出たし、多方面に多大な迷惑をかけた。
 自転車からべしゃっと落ちてから、甲斐甲斐しく「介護」する間、ナナシの表情はすんとして変わらなかった。だから、コーラルはひそかにこれは聞こえていなかったものとしよう、……なんてことを思っていた。ご先祖様が〝やめておけ〟と言ってるに違いない。
 具体的に『僕は相対死同意書にサインします』、と言う意思を表明したわけではなかったから、「ナナシ君。いやだなあ、ダイエットの話だよ?」という逃げ道がないでもないのである。ナナシも、そのあたりは追及しなかった。
 なんたって人の、というか一体のHANOIの人生を決める書類だ。
 コーラル・ブラウンがこれはいっそまた一年くらい時間をとって、ゆっくり考え直そうかな、と思っていたときのことである。
 お見舞いに来たアダムスのあとに、ナナシがギプスに何かラクガキしていると思ったら、『コーラル・ブラウン』だった。
 恐ろしいほど、じぶんと似た筆跡だった。
 ナナシは耳が良かった。ものすごく覚えていたのだった。

 それで、コーラル・ブラウンは覚悟を決めた。
「書くよ」
 恐怖に負けてしまったのかもしれない。
 お医者様から、ギプスを外していいですよ、と言われた次の日の朝食のときである。コーラルはちゃんと宣言した。星座占いの結果が流れていった。『優柔不断なあなた! 勢いで決断して後悔しがち、大きな決断は避けましょう……』
「いややっぱりまたこん」
 ナナシがテレビを殴りつけるように消した。
「信じてますよ」
 退路を塞がれている。

 一枚目は、緊張のあまりミルクティーをこぼした。二枚目は、筆圧が強すぎてべりっと破いてしまった。それから扇風機が首を振って、シュレッダーに吸い込まれていった。慌てて何とかしようと押したり引いたりしていたら、床に落っこちた欠片を、ルンパが吸い込んでどっかへとやった。
 もはや呪われているというレベルではない。何らかの世界の抑止力が働いている。
 三度目の正直……。書き終えて互いに脱力したところで、ぴゅうと突風が吹いた。
「あ」
「あ」
 反対側の窓から飛んで行った同意書を追いかけて、ナナシは単独で窓から落ちかけた。必死に止めて、書類を拾いに行くと、中庭でヤギが書類を食んでいた。ヤギが。
「あっ、すみません! 芝生の管理にヤギがいいっていうんで借りてきたんですけど……! コラ!」
 落っこちた書類は水たまりに落ちていたようで、泥水につかってべしょべしょだった。
「はは……」
 ここまでくるともう乾いた笑いしか出ない。
「美味いんですかね」
「そうだよ、紙を食べちゃダメだよ! 薬品とか……。多分体に良くないよ」
「いや、……ヤギって美味いんですかね?」
「だめだよ! あのヤギは!?」
「羊皮紙ってありますよね」と続けるナナシの目はすわっている。ホンキが見え隠れする。

 やっぱり、やめておいたほうがいいんじゃないだろうか。運命から良心から、なにからなにまで「やめとけ」と言っている。
 けれども、3分の1ほどムシャられた用紙、ちぎれた用紙をナナシが一生懸命に伸ばしている様子があまりにも気の毒で、思わず言ってしまった。
「ナナシ、サインはするよ」
「あ、そう? それじゃお願いします」
 即座に四枚目が出てきた。

2021.07.02

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