あの日見た花の名前は私はまだ知らない


目の前で、鮮やかに伏せられたトラップ・カードをひっくり返された時があるだろうか?
私はある。つい先日のことだ。
私は、先ほど道端に咲いていた花が、いかにヘンで、いかに紫で、いかにデカかったかを友人に説明していた。
それを聞いている友人は、いまいち要領を得ない顔をしていた。
そこへ、知り合いのおばさんが現れ、にこやかにスマートフォンの画面を見せてくれた。
今まさに話していた紫の花の写真が、画面には映し出されている。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。花について説明しあぐねていた私は、救いを得たりとばかりに、「そう、このお花です!」と叫んだ。
同じ場所で、同じ花を見たのだろう。それほどまでにその花は奇妙な存在感を放っていた。
花の説明にいまいち自信のなかった私は、同じ感性を持っている人間がいることに感謝した。
しかし、おばさんが次の文節に入った瞬間、鮮やかに画面は遷移し、画面はおばさんの孫息子の写真にスワイプしていたのだ。

ホグワーツ。超電導。トランジション。樹状突起。
「村」からの「鍛冶屋」、さらに+1購入。

いくつかの言葉が、私のありふれた脳裏をこだました。
何の接続詞もなしに、手品のように話題はすり替わった。
たしかに私のターンだったはずだ。あのスピード感。何が起こったのかまるで分らなかった。
数ミリ秒前までは、おばさんのスマートフォンが映し出していたのは、たしかに私が説明したかった花の写真だった。
だが……だが、ひとたび画面をスワイプすると、孫息子の写真があったのだ。
全ては仕組まれていたのだろうか?
これを見越して、彼女はスマートフォンにデッキを構築していたのだろうか?
一体どこからどこまでが計算だったのだろう?
私の人生は、すべては彼女の掌の上だったのだろうか?
ピースがかち合うような一瞬。
私はこの瞬間、狐につままれるという慣用句のニュアンスを、雷に打たれたように理解したのだった。

彼女は孫息子のお産がいかに困難なものだったか、また、彼女がいかに娘を勇気づけたか、また、旦那がいかに役に立たなかったかということについてとうとうと語った。
私は頷きながら、次の瞬間、何を言えばいいか理解していた。
「可愛いですねー。名前、なんていうんですか?」
あの日見た花の名前は私はまだ知らないが、おばさんの息子の名前は知った。