薄氷の上を往くが如し・後

「今日は晴れてますね」
「降らせますか?」
「……」
 カイネが言うと、冗談なのかわからない。頼みの綱の魔力の鎖は、カイネの前ではなんとも頼りないものである。
 マジカル・アイズを寄越されてから、ルドゥインはたまにカイネと言葉を交わすようになった。カイネと話していると、憧れを取り戻すようなむず痒い感覚がなんとなく心にうずく。
「しかし、こんな雑誌がお好きだなんて、ちょっと意外でした。なんていうか、もっとカイネさんは……」
「嫌いです」
「……カイネさん」
「なんですか」
「うそをつくのって、どう思います?」
「別に、どうとも」
 定期購読しておきながら、「嫌い」はないだろう。こうしてみると、カイネもとんだヒネクレものである。ルドゥインは膝に視線を落とすと、背伸びをして今週のマジカル・アイズを開いた。

Q:
うそをつくことはいけないことですか?
J:ロビンス
私にはよくわかりませんね!
ただ、うそをつくと、うそをついたことを覚えていないといけません。長引くとだんだんとちりがつもったような状態になります。
善いとか悪いとか以前にそういうものです。掃除したり、埋め合わせてみたり、そのちりの上に座る芸当もあります。向き不向きですね。
自分で何を言ったのか、そんなことちっとも覚えていやしないような人もいますけど。

(おお、ホントに載った……)
 ルドゥインはだらしなくにやける頬を押さえられない。顔を上げると、カイネがルドゥインを不気味なものを見る目で見ていた。目が合うと視線を逸らす。


◇◇◇

 帰路についてから、ルドゥインは深く深くため息をついた。新しい便箋を引き出しから取り出すと、机に向かう。ルドゥインは眉間にしわを浮かべる。ペンはくるくるとまわり、次第にゆっくりと動きを止める。まばゆい青春の憧れがいっそう焼き切れるような錯覚が暗く胸を焦がす。ペンを走らせたかと思うと、報告書をぐしゃぐしゃに丸めた。
 カイネは一向に魔術を行使する気配はない。それとなく促しても、首を横に振るだけだ。
 おそらく、カイネは実際に魔術が使えないのだろう。魔力の気配が全くしない。

 あっというまに季節は秋になる。ツンツンとした針葉樹がピシりと背を伸ばして太陽を受けている。陽だまりの外はほんの少しだけ肌寒い。
「カイネさん、お引越しのご予定は?」
「ありませんが」
「じゃあ、なんでそんなに片づけるんですかね?」
「いけませんか」
 リビングはいつもよりも殺風景だった。必要以上のものがないのに加えて、家具がだんだんと減っている。ところ狭しとひしめいていた魔術書が消え、ほうきが消え、大なべが消え。カーペットがとりはらわれた床はわびしさを感じさせる。
「ルドゥイン」
「!」
 不意に名前を呼ばれて、ルドゥインはたじろいだ。
「もう、ここに来るのはおしまいにしませんか」
「い、いや、僕のほうも、お仕事で……」
「みじめになりますから」
 ルドゥインは沈黙した。
 否定してくれればよかったのに。そうしたら、たとえカイネが魔法を行使できないとしても頑として「できないのではない、しないのである」と言い張ることが出来た。

◇◇◇

 報告を済ませると、自分の中のなにかが脆くも崩れ去っていくような気がする。
 形式的な報告は、ほんの数分余りで終わる。結論から言えば、カイネの謹慎処分は除名処分にとって代わった。とうとう、カイネは、魔術師としての権利を失ったということだ。魔術師連合会はは実力主義ではあるが、それゆえに非情である。
 たいそうな雨が降っている。外出するのに、これほど億劫なこともない。

 カイネの屋敷の扉が開いているのに気付いたルドゥインは、思わず中へ駆けこんでいた。
 扉という扉が明け放されており、轟々と風の音がする。窓が風に揺れて雨粒がなぶるように降りそそいで屋敷中を濡らす。
「みじめな魔法使いだと思っていたでしょう」
 窓際で佇むカイネは一見穏やかなように見えた。しかし、それは見せかけだけだということをルドゥインは思い知る。黒髪が風雨で乱れていて、べったりと額にはりついている。それすら意にも解さないという調子だ。
 カイネの気迫に、ルドゥインは思わず身をひきつらせて固まった。しんとした部屋には物音ひとつ立たない。ざあざあと雨が窓枠をたたく音だけが他人ごとのようにやけに大きく響いている。
 不意に、ルドゥインの頬にガラスの杯が押し当てられる。
「いっそ、一緒にいきますか?」
「え?」
「死んでしまいませんか、と、一緒に」
 さきほどよりもはっきりと通るカイネの声。
 ルドゥインはカイネの方にぎこちなく顔を向けた。ローブ一式をまとったカイネは、つま先からてっぺんまでいかにも魔法使いといった出で立ちをしている。カイネが魔法使いのような格好をしていたのは、それが初めてだ。青い鎖がだらりと引き摺るられるようにして床を這っている。
 カイネの視線はルドゥインの頬にあてがわれたグラスに注がれていた。カイネがゆったりとグラスをくゆらせると、カップの中身がふらふらと揺れた。カイネの唇は真一文字にきっと引き結ばれていて、なにかが紡がれる気配はない。
 ルドゥインは震えながら、まっすぐカイネを見据えた。かつてのカイネと今のカイネが重なり合って、妙な感覚になる。思わずルドゥインは手を伸ばし、カイネの手首を錠前ごとつかんでいた。
 カイネがびくりと身を震わせ、きっとルドゥインを見返した。カイネのことを正面から見据えたのは、これがはじめてだったかもしれない。痛いような沈黙が無言の押し問答を続ける。息を吸い込むと、ルドゥインは声を張り上げた。
「あのね、僕だって、もしもカイネさんがホンキでそう言ってるなら、世界の果てまでお付き合いいたしますよ!」
「……」
「カイネさんの場合は本気だとは言いません。本気ではないはずです。カイネさんみたいに”あわよくばうっかり死ねたらいいなー”みたいなのは本気のうちに入りません。カイネさんがその気になれば、世界なんていくらでもひっくり返せます。だって、カイネさんは」
 カイネはふっと息を吐くと、手に持ったフラスコを放った。投げ出されたグラスが重力によって落下する。
「冗談ですよ」
 カイネはそう言うと、ルドゥインの胸に顔をうずめた。ルドゥインはフラスコの割れる遠い音を聞く。おそるおそる背をさすってやると、思ったよりもカイネは細いのだった。どくどく心臓が動いているのが分かる。カイネのものであるのか、自分のものであるのか、混じりあって判然としない。小さくすすり上げる声がした。恨みがましいカイネの視線を避けるようにかがみ、気が付けば、ルドゥインは当たり前のようにカイネに口づけを落としていた。
 1秒、2秒。
 沈黙が糸のように張りつめ、時が移る。
 フラスコの飛び散った周辺から、しゅうしゅうと煙が上がる。ルドゥインははっと我を取り戻す。液体が付着した床はみるみるうちに真っ黒に焦げていた。

◇◇◇

 コポコポと曖昧な音を立てながら、ポットがお湯を沸かしている。ルドゥインの淹れたお茶は、どこまでも微妙な味がした。
 なんとなく気恥ずかしくてルドゥインはカイネと目を合わせることができない。黙っていると、カイネはぽつぽつと口を開いた。
「謹慎処分を喰らったとき、杖とローブを返上しました。あれほどの屈辱はありません」
 そう言われてみればカイネのまとうローブはカーテンの暗幕である。ルドゥインは、なんだか馬鹿らしくなって笑った。
「いっそとっとと教えてくれれば良かったのに」
「あなただって聞かなかったでしょう。なんだか私ごときに真剣にびびっているあなたを見るとおかしくってですね、昔を思い出すというか……ついつい先延ばしにしてしまいました」
「お役にたてたなら結構ですよ。魔公安職員としてお聞きいたしますが、これからどうするんです?」
「無論、私に魔力は残っておりません。魔法使いとしての権利は、全て返上いたします」
 カイネはどこか含みのある笑顔だ。考えはもうほとんど決まっているように思える。声を潜めると、ルドゥインはカイネに再び問い直す。
「それでは、可愛い後輩としてお聞きしますが、これからどうなさるおつもりで?」
「どう、と言われましても。生まれついての魔法使いは、決して辞められるものではございませんよ」
「でっしょうね! カイネさんは根っから魔女ですから。辞めるなんて、とても。薬草煮詰めて一生を過ごすのも悪くないんじゃないですか」
 カイネはすっと射抜くような視線をルドゥインへと向ける。ルドゥインは咄嗟に縮みあがるような恐怖を覚えて沈黙する。手元のコップを覗き込んでなんとなく黙っていると、カイネの唇がふっと緩む。どうもこの人には敵わないな、とルドゥインは思った。
「まあ、薬草師をやるのも悪くはありませんが。魔法使いというのは、他者の認識によって生まれるものです。あなたが私を魔法使いとしてみるのであれば、このまま魔法使いとして存在するのもやぶさかではないかと」
「でも、クビになったんでしょう。存在するったってどうしようもないじゃないですか。ロビンス先生の受け売りですか?」
 カイネは一冊の雑誌を机の上に置いた。
「それ、ほんっとにお好きですねえ、先生」
「私がロビンスです」
 ルドゥインは思いっきりむせっ返って、それから、あんぐりと口を開ける。カイネがロビンス? なんだかおかしくなって、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
 話が出来過ぎている。
 どんな経過をたどっても、カイネが魔女じゃなくても、結局はルドゥインはカイネに惹かれずにはいられないのだ。

◇◇◇

 役目を終えた魔力錠はいっそ粉々に砕け散ってくれれば始末が楽だ。不良品はゴミ箱へ。ルドゥインが手を加えると、ぱらぱらと青い鎖が粉になって掃除機に吸い込まれていった。
 カイネは旅行鞄ひとつを手にあっさりと新天地へと発っていく。つてを頼って、しばらくはロビンスとして過ごすらしい。汽車のチケットとともに見覚えのある数枚の便箋を取り出すと、馬車の窓からルドゥインにひらひらと振った。
 ルドゥインは遠ざかるカイネの後ろ姿を見送ったあと、ウェスト・ストリートの石畳をコツコツと歩く。途中、書店で黄色い見出しの雑誌を一冊購入するとカバンに突っ込んだ。
 仕事に飽きたら、こんどこそ魔女モドキの弟子になりにゆくのも良いかもしれない。ルドゥインの鼻歌は、流行を外してどこか滑稽染みている。
 今度は、ロビンス先生に分厚いラブレターのひとつでも書いてやろうか。もはや若気の至りを言い訳に出来なくなったそれはおそらく無防備で、どっちに転んだとしても彼にとって恐ろしい傑作になるような気がする。
 ルドゥインはそんなことを夢想しながらにんまりとほほ笑んだ。


最強魔術師が好きなんです。