ノートを取るのがだいっきらいなエヴァーリンのはなし

 エヴァーリンは、ノートを取るのが大の苦手でした。ひとつひとつとってみれば読めないこともない字ですが、それがつらつらと文章になると、軸が定まらずにふらふら飛び回る文字の列は目も当てられないほどひどいものでした。頭の芯からくらくらするような文字の羅列。そのくせエヴァーリンは、見る目だけはひどく几帳面だったものですから、じぶんのノートを見るのがとても嫌いでした。
 エヴァーリンのノートの内容はさまざまでした。一冊のノートに、幾何学やら、詩やら、平気な顔で書き連ねてありました。エヴァーリンは、しょっちゅうなくしものをするのです。エヴァーリンは妙なところで寛容で、そのせいでノートの内容がまちまちになるのでした。まったく、エヴァーリンは困った気取りやでした。
 一方、オーパールはノートなんてなくてもへっちゃらで、一度聞いたことは絶対に忘れないというまれにみる才能の持ち主でした。たしかにオーパールには多少嫌味なところがありました。しかし、オーパールはいつももったい付けては快くエヴァーリンに忘れ物を貸し出しました。エヴァーリンは、エヴァーリンなりにオーパールのもちものを、いっしょうけんめいに扱いました。それで、二人は友だちでした。彼はよくエヴァーリンとの引き合いに出されましたが、エヴァーリンはきまり悪そうににこにこするばかりでした。そんなとき、オーパールは嫌そうな顔をしました。けれど、口ではいろいろ言いつつも、内心はまんざらでもありませんでした。オーパールは、エヴァーリンがオーパールとは違うクラスをとったことで、忘れ物を借りにくるのに便利だ便利だと騒ぐのが不愉快でなりませんでした。エヴァーリンとオーパールでクラスが違うのは、至極とうぜんのことです。オーパールは数学が得意でした。エヴァーリンは、なんというか、おおらかで、のびのびと、元気な少年なのでした。

「ぼくときみとで、同じBってことがあるものかい」
 春のとある日、オーパールがむくれていました。博物学のテストで、ふたりはBをとりました。エヴァーリンがBのマイナーで、オーパールがBのダッシュでした。エヴァーリンはこっそり嘆息しました。
「きみが少しも課題を出さないのだもの。ライオネル先生はさぞかしお怒りだと思われるよ」
「あんなつまらないもの!」
 オーパールは、テストできちんと満点を取っていました。それでも、授業へのぞむ態度は、控えめに見積もっても良い物ではありませんでしたので、先生は、オーパールにAを与えませんでした。
「きみはいいなあ」
 エヴァーリンはしみじみとしたようすで言いました。Bのマイナーは、エヴァーリンにとっては上等でした。
「もとから、頭がいいんだもの。ノートなんか、とらなくたってさ」
 オーパールはぴたりと黙り込みました。エヴァーリンは、急にオーパールとの距離が遠くなったように感じ、彼の努力を無にするようなことを言ってしまったのを悟り、あわてて天気のはなしをしました。一応の会話はぷつり、ぷつりとスターカットを挟んで続きました。
 エヴァーリンは、帰ってから自分のノートを机の上に乗せ、ほおとため息をつきました。ノートが嫌いでした。――オーパールのせいで。
 エヴァーリンは、ちょっぴり、自分のことまで嫌いになりかけました。オーパールのことは、ちっとも嫌いじゃあなかったのですが。

 それから長い冬休みに入り、白樺は霜を付けて凍りました。歩くたびに踏みしめる雪は行き交う人々の足跡をかたどり、クリスマスを控えた街並みはにわかに活気付いていました。その間、エヴァーリンはオーパールと、ずっと口を利かなかったのです。オーパールは、親元を離れて寮住まいでした。エヴァーリンは、オーパールの姿をプラットフォームでそっと探すことがありましたが、出くわすことは一度もありませんでした。しかしながら、エヴァーリンにしたって、わざと、オーパールのいなさそうなところを選んできょろきょろしていたわけです。はっきりと喧嘩をしたわけでもないので、仲直りの方策もないのです。エヴァーリンがまごまごとしているあいだに、オーパールはひとつもふたつも上の学年をあっというまに飛び越しました。オーパールはほんとうに優秀でした。

 そして、すっかり雪解けをくりかえし、何回かの秋が過ぎたころ、ノートを抱えて、エヴァーリンは途方に暮れていました。
「どうしたんだい、エヴァーリン」
 久しぶりのオーパールでした。久々に聞いたオーパールの声は、神経質さはなりをひそめ、親切そうなぬくもりがこもっていました。エヴァーリンは、不意のオーパールに多少驚いた顔をしました。オーパールは愛想よく微笑しました。棘のような剣呑はなりをひそめて、眉のあたりに大人びた人の良さが漂っています。エヴァーリンは、それでちょっと縮こまりました。彼は背も伸び、たくましくなっていました。エヴァーリンにしたってそれは同じだったのですが、オーパールの方ががっしりとした体形でした。オーパールはエヴァーリンの持っているノートに気がつきました。
「はっはあ、さては、期末考査だな」
 オーパールは口の端でにやりとしました。その仕草は、昔のオーパールそのままでした。それで、エヴァーリンは少し安心してぎこちなく笑いました。
「まったく、そのとおりだよ」
「きみの字はじつにひどいが、ぼくはきみのノートが好きだな」
 オーパールの丸っこいものいいはくすぐったく、懐かしく、エヴァーリンは不意をつかれてすくみました。
「なぐさめなんか要らないさ」
 エヴァーリンはなんとか弱々しく言いました。
「なぐさめる義理も道理もないさ、ぼくが一度でもそんなことに時間を費やしたことがあるものか。エヴァーリン、きみのノートを貸したまえよ」
 オーパールはそういうなり、エヴァーリンのノートを取り上げました。エヴァーリンはぽかんとしていました。オーパールは、そのままエヴァーリンのノートを持って、たちまち鞄にしまい込んでしまいました。
「借りるよ」
 かわりに、オーパールはきれいなノートをエヴァーリンに突き出しました。数学のノートでした。エヴァーリンがぱらぱらとめくると、公式が美しく網羅され、きっちりと要点がまとめられていました。まるで参考書じゃあないか、と、エヴァーリンは舌を巻きました。エヴァーリンがノートに魅入っている間に、オーパールはすたすたと歩いてゆきました。
 オーパールとはそれっきりだとエヴァーリンは本能的に思いました。エヴァーリンは立派な制服を着ていました。それでふと、エヴァーリンは今日が八年生の卒業式だと言うことに気がついたのです。
「おめでとう」
 エヴァーリンは叫びました。
「おめでとう、オーパール!」
 オーパールははじめて笑いました。
「きみのノートはめまぐるしくて、まるで何かのものがたりのようだ」
 オーパールは叫びました。 「エヴァーリン、ぼくはね、ほんの少しだけ、劇場(こや)の役者になりたかったよ!笑うかい?」



 そして二十年と、すこしが立ちました。エヴァーリンは曲がりなりにも卒業し、タイプライターをたたく職業に就きました。タイピストです。たんたん、たんと、きれいな活字が勝手に織りなす文章は、エヴァーリンにとって痛快でした。エヴァーリンの字がきたないのは相変わらずでした。ただ、エヴァーリンは、自分の字を、憎めない字だと思うようになりました。
 オーパールは結局、親にならって軍隊に入ったとエヴァーリンは風の噂で聞きました。エヴァーリンは、薄情にも、彼の事をそれっきり思い出さなかったのですが、エヴァーリンが地方の新聞記事を打っていたとき、懐かしい名前を見いだしました。エヴァーリンは目を見開きました。それは、戦死者を伝える死亡記事でした。
 それで、エヴァーリンははっきりとノートのことを思い出しました。そのまま飛んで家に帰り、がさごそと棚を漁ると、少し色あせたノートが確かに出てきました。オーパールのノートです。エヴァーリンはぽたぽたと静かに涙をこぼしました。

 オーパールが約束を破ったのは、あとにもさきにもこれっきりといえるでしょう。自分が渡したノートがどんなものかは、エヴァーリンにはもう思い出せません。けれど、オーパールがほめたものなら、オーパールのノートと引き替えなら、きっとすてきなものだったと、エヴァーリンは確かに思うのです。ですから、そのことをたまに思い出すために、エヴァーリンは、オーパールの伸びやかなノートを、いまも大切にしまっていますし、そればかりか、万年筆を買って、とうとう、じぶんでこんな個人的な文章を、書くようにもなったのです。


そうかつまり君はそんなヤツだったんだなの系譜を感じます。