ハイルヒルトは雪を待つ

(雪よ雪よ、どうか降りつもってくださっていますよう)

 ハイルヒルトはとっくの昔に神に祈るのをやめていた。代わりに乾いた掌をすり合わせ、国の父祖たる白き竜へとただただ天気を乞う。

(どうか白い雪を私めにお使わしくださいますよう……)

 クータは島の中でも基本的にはあたたかい地方だ。冬のほんのわずかなきわどい時期には、2、3日の間だけ雪が降ることがある。
 それがクータ式の暦を紙に書き、四つ折りにしたころの、ちょうど真ん中。今ごろになる。

 クータに雪が降り積もるとはいったものの、山々の登頂が粉をはたいたように白くなるのみである。
 望みが薄いと知りつつも、ハイルヒルトは、塔のてっぺんから誰よりも雪を待ち望んでいるのだった。

 ハイルヒルトは息を吐いた。
 白髪と対比してハイルヒルトの頬と眉間に色濃い陰影を施し、気難しさを際だたせるような陰は、ハイルヒルトのかぎ鼻を下ると、そのままローブのドレープに吸い込まれて行って、角ばったスリッパのかかとで直角に曲がって伸びていた。影はインクをこぼしたように真っ黒で、その先には細い杖が刺さっていた。そんなものでも、ハイルヒルトをその場にとどめておくには十分なものだ。

 塔の一室のあちこちには、こまごまとしたものが転がっている。雨乞いに使うような木偶人形から霜のついた真空管。壊れたネックレスとひん曲がった指輪。
 幽閉の身になる前、貴族として暮らしていたころのオカルティックな趣味は、ハイルヒルトの心の慰めくらいにはなったようである。
 ハイルヒルトはそれらを踏み越え、うろうろとしながら天気を乞うた。
 目を閉じて開けて、覚悟を備えて塔の上部にある換気用の窓を見る。

「おお……」
 見上げると、塔の上部にある窓から、やわらかそうな白い欠片がこぼれるように降り注いでいるのが目に入った。
「……おお」
 だが、それだけでは足りない。

(父祖たる竜よ、私を哀れと思し召しますれば、どうか白い雪を地面へと遣わしてください……)

◇◇◇

 狂太子ハイルヒルトは長らく幽閉の身である。

 ハイルヒルトの腕には、びっしりと霜ついたように鱗が生えていた。背骨は腰でぐらりと曲がり、石の床には尻尾がはねている。
 国の礎を作り上げたという巨竜の面影が、王家の血にはたまにこうやって先祖返りで色濃く出るらしいと聞いている。ハイルヒルトには詳しいことは分からない。
 この祝福と呪いと一体になったような血が、ハイルヒルトを苦しめるのだった。

 ハイルヒルトが竜となり、幽閉されるようになったのは、およそ17の頃だったろうか。早い結婚が功を奏して、それまでに子をなしておいたのが心の慰めであったかもしれない。妻を亡くしたのは悲しかったが、息子は元気でやっている。それだけが心のよりどころなのだ。

 ハイルヒルトは乾いた布で身を清め、更に念入りに祈ると、夕食の代わりに白湯を飲んだ。それから材質ばかり豪華な織の服の裾をより合わせて、一度だけ身震いする。
 扉のすぐそばに見張りがいないのをいいことに、ガラクタを一心に積み上げ始める。胡乱な雑貨の山が積みあがると、椅子をかぶせて、よじ登って天井近くの小窓にすがる。
 影を縫いとめる杖が動きを制限するが、塔で動き回る分には問題がない。
 それでなんとか傾斜をつけて、目を凝らして塔の下を見る。
 ハイルヒルトは再び白い息を吐くと、気の遠くなるほど高い塔から下を見下ろした。

 雪は積もっていなければならない。

 目を開ける勇気はまだなかった。
 がっくりと肩を落とすと、ずるずると服の裾を引きずって魔法陣の部屋へと舞い戻る自分の姿を幻視した気がした。ガラクタを投げ、戻し、ひとしきり暴れるとおとなしくなって、そして再び、妙なルールに則ったインチキじみた狂気を繰り返す、ばかげた自分のすがた。

 今日こそは、と思いながらも、やはり今日も、とも思う。

 息子と顔を合わせたことはない。父が竜となってこの塔にいることも、息子は知らないだろう。
 日ごろはおとなしく幽閉の身に預かるハイルヒルトであったが、ただ望みがあるとすれば、やわらかい雪に足跡が付けば、ということなのである。

 雪を待ち望んでいるとき以外は、ハイルヒルトの生活は無味なものになる。後は読書をしたり、慰めに歌ってみたり。
 立場がものを言って、好きなものはそこそこ手に入った。息子の肖像画だけはもらえなかった。理由は分かっている。ハイルヒルトの目はルビーのように真っ赤に染まっていて、それがうつるのではないかと恐れている。
 それでも絵具をどうにかして調達すると、想像の息子を描こうとしたが、どうにも母親の顔が思い出せない。鱗に覆われた自分の顔を見るのはきらいだった。キャンバスを白く塗りたくって、それで満足してしまっていた。しまいには書き物をするが、これはついに完成したことがない。
 ハイルヒルトは雪を、足跡を待ち望んでいた。

 そのようにして、太陽が7つは廻っただろうか。
 あくる年もあくる年も、雪は降り積もらなかった。

(今年こそは……)

 ハイルヒルトは下を見ずに、まずは空をにらんだ。雪はもう止んでいる。

(願わくは、願わくは堅い根雪を――作物がどうなろうと知ったことか)

 この年が終われば、いよいよ息子は即位の準備をするために、この地から島の中央部に居城を移すことになる。滅多なことがなければ、もう庭に出ることもなかろう。庭で転げまわる幼い王子の声に、一目でも見れたらと思っていたのだ。

 この年ばかりは、と、ハイルヒルトは渇望していた。
 しかしながら、このクータの地に雪が降るのはほんのまれであり、それが残っているとなると、やはり神頼みの領域に入るのだった。

(雪よ雪よ、どうか降りつもってくださっていますよう)

 震える手でハイルヒルトはガラクタをよじ登る。ゆっくりゆっくりと、勝手に左右に振れてバランスをとる尻尾がハイルヒルトの意思とは無関係にガラクタをぶちまける。それでも何とか体を支え、身を起こす。
 頑丈な木枠がはまっている窓から痛くなるほど首を伸ばした。

 ハイルヒルトの目に飛び込んできたのは、まずは刺すような光、そして銀化粧だった。

 雪が降り積もった白の庭には、目を刺すような白銀が薄く均一に降り注いでいる。職人がクリームを付けたナイフをパンの上に二度三度と振ったように、どこもかしこも、城の庭は太陽をまぶしく反射して滑らかに輝いていた。
「おお……」
 ハイルヒルトは飛びつかんばかりにして木組みの格子を掴んだ。
 ハイルヒルトが望んだのは、この雪景色に他ならない。目を凝らせば小さな足跡が見える。
 それは、生まれたっきり会ってはいない息子の陰影だった。
 それこそが、ハイルヒルトの見たいものだった。

 長く塔に住むハイルヒルトにとっては、足跡のみが息子の息災を知らせてくれる唯一の指標である。
 ハイルヒルトは再び息を吐く。涙が出そうだった。
 点々とまっすぐに進む足跡は、右足と左足とが交互に、ブーツのかかととつまさきがはっきりと押しつけられている。
 歩幅は大分広くなった。去年よりずっと。王族らしく、威張って胸を張って歩く姿が瞼に浮かぶ気がした。
 息子がてくてくと歩いた跡がある。その隣に従者のものらしき大きな歩幅が付き添っている。どうにもやんちゃをしたらしく、足跡は蛇行して途中で転んでいた。
 ハイルヒルトは思わず青ざめて顔を覆って息を飲んだが、次の足跡は勢いよくはねあがり、千々に乱れて、裸足になって元気よくスキップを踏んでいた。
 足跡は、それから、正面からアーチを描いて、中庭の花壇を突っ切って視界の隅に消えていく。それを追いかける大人の足音も、途中で尻もちをついているようだった。
 暖かい満足が胸に満ちた。いつまでも見ていたいような心地がしたが、夜のとばりが降りてくる。
 ハイルヒルトは首を振りながらきつい枠から首を抜いて、夜の闇をにらむと、再びまた楽しみのない暇な生活に戻るのだった。

「雪よ雪よ雪よ」

 ハイルヒルトは歌うようにつぶやく。

 喜びをかみしめると、あとはもう乾いたさみしさしか残らない。それが引いていくと、妙な満足感と失望感がないまぜになったような心地を覚えた。
 木々の周りから雪は溶けていく。城の周りの切り株がきっかりと雪を溶かしていく。そんな光景が瞼の裏に浮かぶようだった。

「雪よ」

 ハイルヒルトはため息をつくと、この光景を忘れまいと反芻していた。

 足跡に加えて、余計な引きずるような三本目の足跡はなかった。息子は人間なのだ。それを確認すると、やはりほっとするようなものがある。
 この身体は祝福と言い切るには、失ったものが多すぎたのだ。
 ハイルヒルトは満足をして、散らかったあれやこれやのなかから、ようやく籠の中の果物に手を伸ばした。


2017/8/12
冬の童話祭に参加したもの。
サイトのほうにも乗っけることにしました。
※小説家になろうとの二重投稿です。