まずいワイン

 いくら長生きするエルフであっても死とは一度しか経験できないものである。
 ロマンチックさなど長生きの最中にほとほとすりきれてしまってはいたが、私はまだけなげに信じていた。
 いざ、自分の死に直面するときに駆け巡る記憶は、さぞかし美しいものであろうと。
 長い年月を経て厳選され、楽しかった輝かしき良き思い出であろうと。

 なぜならば、すべての生命体が享受するべき死は、侵しがたく、それゆえに深淵であり、神の意志に満ちているからだ。
 当然そうだと思っていた。
 最後にいつくしむべきなのは、例えば亡くした妻の顔とか、そういうものであるべきだった。

 それがなんだ? 私の記憶に浮かび上がってきたのは、あの悪夢のような飲み物のことばかりだ。
 考えれば考えるほど、むせ返るような青臭さが口いっぱいに広がる。

***

 突然の火事において、我々はかなり無力だった。

 そもそも、準備なしに魔術師のできることなど限られているのである。定例会の最中であったから、結構な腕前の魔術師がそこにいたはずだが、というよりも、むしろ熟練の魔術師たちがいたせいで事態は悪化したといってもよい。
 どうにかしようとして書きかけた魔方陣は焦げ、詠唱は煙に巻かれてうまくいかない。ほうきに乗って飛び出す魔術師もいれば、気分を悪くして別室で寝込んでいたせいでうっかり逃げ遅れた魔術師もいた。私である。
 なんだか熱いなと思ってドアを開けようとしたところで、ドアノブが溶けるように燃えていたのを私は生涯忘れないだろう。

 方々の体で部屋からすり抜けたは良いが、燃え盛る天井が落ちてきて、道をふさいだ。
「くそっ……」
 酸素が薄いせいで、頭がくらくらとする。
 もう少し粘っていれば、部下であるギッコが助けに来るかもしれない。
 なんとか天井を避けたは良いが、その代わり、大きく煙を吸ってしまった。ゆるゆると杖を持っているはずの右手を振り上げたが、そこに杖はなく、代わりに、がれきの隙間に30年来の相棒の杖がはじけ飛んでぱちぱちと音を立てているのが見えた。
(ああ、なんだ、おわりか?)
 何か持っていなかったかと、ローブの縫い目を探る。なにもなかった。
 私の頭の中を、今までの思い出がぐるぐると駆け巡る。
 遠い故郷アーデンベルクの雄大な海。靴底のすりきれた双葉の匂い。祖母の作ったクッキーは、いつもゴマの香りがしていた。
 生涯で唯一といってもよい友。
 焦げ臭いにおいが鼻を衝いて、記憶を瞬く間に塗り返した。
「なあエルン」
 今は亡き友人の在りし日の思い出は、突如としてむせ返るような青臭い匂いを発する。私は思い切りむせ返った。
「やめろ!」
 それは、ほとんどうわごとだった。

***

 今思えば、その酒はばかみたいにまずかったのだ。

「レミヤンド、例えば私が酒場で口汚く争っている客を見たとしよう。そんなとき、私が手に取るのはまず間違いなくこのワインだ」
「エルン……」
 このワインなら、脳天に一本食らわせてやったって惜しくない。もちろんエルフにだって食べ物を無駄にしない美徳くらいある。が、他人が飲んでいるほうが楽しい酒など、私は200年生きてきて生まれてこの方味わったことはなかった。
 あらんかぎりこき下ろしたつもりだったのだが、レミヤンドの脳裏にはいさかいを起こす酒場の客たちをを仲立ちしそっとグラスを差し出す友の姿が見えたらしい。
「ありがとう」と照れくさそうに言うだけで、それ以上は何もしなかった。
「はんっ」
 偏屈で人嫌いの私がレミヤンドと友人になれたのは、まず間違いなくレミヤンドがお人好しで、底抜けのほど楽天的なせいである。
 彼曰くワインの一種だというその液体は、瓶の色がうつったのではないかと心配になるような深い緑色をしていた。近くに置いてあるだけで、夏野菜をそのままかじったような苦味が絶え間なく鼻先をかすめ、舐めてみれば奇妙になにか薬品が取りされていないような金属味がするのである。はっきりした嫌な味であるにも関わらず、奇跡的に輪郭はぼやけている。
 友人への義理を質に入れてようやく液体を飲み込めたかと思うと、喉元に悪夢のようなえぐみが追い打ちをかけた。
 これを飲み切るくらいなら、消毒用アルコールでも舐めるか、小石でもかじってたほうがましだ。
 私は心から思った。
「信じられないな、この世にこんなものが存在しただなんて。明日からの食事が楽しみだな……」
「ああ? ああー、たぶん相性がいいんじゃないか、シチューなんかと。うん、そういうことなら、ぜひ持って帰ってくれ」
 自分ではせっせと戒律を守り、アルコールを摂取しないレミヤンドのことである。たぶん、味見はしていない。禁酒を戒律に加えるなら、製造も禁止してほしかった。
 とはいえにおいだけでも相当なはずではあったが、友人は生のブロッコリーをかじるのが好きという、私にとっては不思議な味覚の持ち主だった。
「別の飲み物とまぜてもいいかな?」
「ああ? ああ、もちろん。もちろんだよ。水を持ってこようか」
 水で割ると、そのワインはまた違った顔を見せた。ましになるかといえばそうではなく、すっと味の薄い部分とものすごくまずい部分に分割されて、形の違う二段階の困難が襲う。
 際立った刺激臭に、エルンまで涙を浮かべていた。
「エルン、お前がいなければ、俺はこれほどのものは作れなかった」
「やめろ。私に責任を負わすな」
「謙遜なんてしないでくれよ、エルン」
「やめてくれ。ほんとにやめてくれ。私のせいだなんていわないでくれ。すべて君のせきに……功績だ。私は関係ない」
「レミヤンド、聞いてくれるか? このワインの名前はだな」
 もし万が一にも自分の名前がイニシャルですら入っていたら、私は瓶をたたき割って自分の名前を変えようかとすら思っていた。
「<アクセラ>というんだ」

***

「<アクセラ>はやめてくれ!」
 私は知らず、悲鳴を上げていた。
 遠くで瓶がはじけ飛ぶ音がして、私は意識を取り戻した。
 いや、意外に近い。瓶は目の前で割れている。
 信じられないことだが、気絶しているうちに名前を呼んだらしい。心の奥底に眠る無意識が忌々しい名を呼んだのだろうか。鼻をあのつんとくる青臭さがかすめる。何もない空間から、ワインが落ちていた。
 そういえば。エルンは次元のはざまに友からのワインを棄ててしまったことがある。こんな風になるまで、エルンはそのワインを忘れていたのであるが、これもまた自己防衛本能のたまものだろう。

(すまないが瓶をなくしてしまったようで)
(ああ、もう飲んじまったのか。いやいや、まだまだあるんだ。ぜひ飲んでくれ)
「げふっ……」

 こんなところで死んでたまるか。
 燃え盛る火の中で、アルコールは悪手だ。エルンの肝は冷えたが、不思議なことにアクセラは全く燃えず、火すらもじり、じりと後退している。
(はあ? あいつ、いったい何を作ったんだ?)
 あれはアルコールなのか?
 くらりくらりとまた意識が遠くなる。友人の顔が脳裏に浮かぶ。
(エルン、もし天国なんてものがあるんならさ……)
 人間であるレミヤンドはなぜか当たり前のように私より長生きすると思っていたし、私も何となくそうだと思っていた。
 結局、50年もしたところで友人は天寿を全うしたのであったが。
(お前とこの酒で乾杯したいよ、エルン)
「やめ……やめろ!」
 どばどばと墓にアクセラを注がれる様子を脳裏に浮かべると、おちおち寝てもいられなかった。なんとか立ち上がって階段を転げ落ちると、思い切り手すりにぶつかった。
「エルン様、ご無事でしょうか?」
 勢いよく吹き込んだ風が扉を吹き飛ばすと、紫髪のさきっちょをこがしたギッコがやってきた。
「うわっ、無事だった」
 うわっとは何か。

「まさかこいつに助けられるとは……」
 一生の不覚。だがしかしギッコは「さすがですね」とほうとため息をついた。
「人間ってのも、なかなか捨てたものではありませんね。こんな薬品を生み出すのですから」
 生産者曰く薬品ではないが、エルンはあえて訂正せずにいた。
 ギッコはぐるりとワインを向けると、ラベルを読んだ。
「アクセラ? 加速ワイン?」
「ああ」
 アクセラ。それすなわち、微生物の働きを活発にし、発酵を速めるワインである。たいていの人間は不老不死を求めて<減速>に行きつくが、レミヤンドは億万長者のほうに興味があった。修道士が金を稼ごうとたくらんだとて、とくに後ろ暗いことはない。当時の修道士は金を稼ぐことではなく、金を浪費することが悪徳とされていたので。
 これも詭弁だ、と私は思う。
「これをこなせば億万長者だ」
 レミヤンドの自信満々の言葉を、エルンは鼻で笑ったのだった。
 そも、発酵と熟成は違う。たとえ味が良かったとして、せいぜい安っぽいワインとして珍重されるのが関の山だろう。
 失敗に終わるのはわかっていたが、私はそれを言わないでおいた。むろん、たくさん失敗するのは経験の浅い短命種族の特権であるからだ。
 ようやく助かった、と実感すると、急に暑さが襲ってきて、どばどばと汗が出た。
 地面に転がったアクセラの液体は、二層に分離していて、もうかすかにもにおわなかった。友へ、と書かれたタグが燃えさしになっていた。


2017/7/29
文字書きさんチャットにより、お題はBcarさんより『かれい』でした。
(加齢、ということでワインです)