ユカタ・前
ユカタは世界にごくありふれている。
だから、たとえユカタがいたとしても、ぼくにとってはさほど驚くべきことではない。ユカタは二酸化炭素のように、日常に息を潜めてじんわりとあたりにとけ込んでいる。
どこに行ったって、ユカタはいる。少なくとも、この夏の間だけははっきりとしたことだ。
ぼくは短い夏休みのあいだ、水族館の水槽でも眺めるような気持ちで、息をとめてユカタを眺めていた。視界のあちこちでちぎれたユカタはぼくのまわりをくらげのようにたゆたっている。
ような気がした。
まるで、ユカタはどこにでもいる。いた。いたのだ。世界のどこかに。両手で数え上げても足りないほどにユカタはいた。ぼくの世界は、ユカタでよく満たされている。
じめっとした湿気が頬に張り付く。ユカタがぼくに手を伸ばしてきた。ユカタの手のひらには水掻きがうっすらと浮かんでいた。考えても無駄だ。と、ぼくは思った。ユカタがなんであるのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。答えが喉元でひっかかっているようなおさまりのわるさがきもち悪い。
まるでずっとピントが合わないメガネをかけているような気分だ。
水槽に酸素を組み上げるポンプだけがポコポコと作動音を鳴らしている。夏祭りの金魚はもうずっといない。空っぽの水槽だけがなんとなく部屋の隅に残っていた。
水槽の側面にはぼくの間抜けな顔が映っていた。ぼくはつまさきまでひどくずぶぬれで、やっぱり眉間にしわをよせて不思議そうな顔をしていた。
「わかるさ」
とユカタは言った。
ユカタの声の調子には、いつもよりも同情が滲んでいるのだった。ユカタの声はガラス一枚隔てたように遠く、ユカタの顔はいつもよりもぐにゃりとゆがんでいる。
何でそんな顔をするんだろう。それで、やっぱり少しおかしいな、と、ぼくは思う。ユカタはぐったりとしながらおかしそうに笑った。
ピシピシと、水槽のガラスが暑さで妙に不快な音を立てて曲がり、窓枠が曲がり、足下の床板が曲がる。ポンプの音はユカタのぼやけた声に比べてやけにはっきりとしている。そこでようやくぼくは気がつく。気がついた頃にはもう忘れている。カチ、カチカチ、と、ユカタの正体について、考えていることがめまぐるしく切り替わって、どうにもくらくらとする。明滅する電気のスイッチが、切り替わるようだ。景色が飴細工のようにでろりと溶けてゆく。線と線がしゅうしゅうとぶつかったところから煙が巻きあがる。
すべてとある夏の日のことだ。
暑い。とてもじゃないが暑い。むしろ――熱い!
ぼくはむせかえる。太陽がゆっくりとこちらめがけて落ちてくる。逃げても逃げても太陽が追いかけてくる。恐怖に身が震えてなにもいえない。ぼくはあんぐりと口を開けてガタガタとその場にへたりこんでいる。
でも、ぼくを見おろして、ユカタが何か言う。
「な、”おれ”たち兄弟だろ」
現実と考えていることの境界線があいまいになって、ぼくは、世界に溶けていってしまうようになる。
あくる日の午後。ユカタの首から上はどっぷりと化粧台にのめり込んでいた。ぼくはためいきをついた。ユカタといったら自分のことが好きで好きで仕方がないのだ。ユカタはこちらに視線をやって鏡の中でもぐもぐとおかえり、と言うと、ほころびた事務イスに座って台を蹴って時計の針みたいに回った。鏡台はユカタにくっついて一緒にぶんぶん回った。ぼくはどっと畳みに倒れ込んだ。
たまったほこりがぼさっと舞ったが、ユカタは気にもとめなかった。ユカタはなおもくるくると回っていた。
ぼくはため息をついた。
「英二郎ぉ、ガラスは液体なんだってさ」
鏡を少し持ち上げるとユカタは言った。鼻から上はあいかわらず鏡の中だ。
「おい見ろよ」
その声で、ぼくはしかたなくユカタの方を見た。ユカタが鏡に鼻をぶつけるたびに、ユカタの鼻は僅かに鏡面にひっついて泡立てた生クリームのようにつんと上向いて、丸く側面がおちくぼんでいくような気がする。と、ユカタはそんな気がしたらしい。 ユカタは鏡から鼻を離し、見ろよ、とこちらを鼻先を向けた。なるほど、彼の鼻のさきっちょは少し赤みを帯びて伸びている。ユカタは努力のたまものとうそぶいたが、ぼくにはそうでないことがよくわかっていた。ユカタの鼻は高慢っちきのうそつきの天狗っ鼻だ。やい、うそつきめ。うそつきめ。うそつきめ。
ユカタはガラスからザパアと顔を出してげふっと息を吐いた。ぼこぼこっと鈍いねっとりした泡が鏡面を揺らした。ユカタの伸びたぶんの鼻は、鏡の中であっけなくへし折れた。
「母さんに怒られるよ」
と、ぼくは言った。鏡をのぞけば鼻を中心に少しだけ前のめりに見えるような気がする。ユカタの顔はぼくに似ている。母さん、と聞いてユカタはにやりと笑った。お子さまだなあ、とでもいうように。
ぼくはユカタを無視することに決めた。机の上には置き手紙があった。「適当に食べてね」と、父からだ。ユカタは鏡台をもとの位置に戻すとやっぱり椅子でくるくると回った。ぼくは冷蔵庫からサンドイッチを取り出して食べた。
ぼくの父さん……庄一は料理が上手い。
庄一は滅多に驚かない。
秋風が身に染みて心地よかった。庄一はきちんと靴をそろえて、ゆっくりとフェンスに歩み寄って行った。柵によじ登ると、気の遠くなりそうなほどに地面は遠く見えた。
靴下とスーツ姿でフェンスにへばりついているのは場違いで、なんとなくおかしかった。こんなの中学校、いや、へたをすると小学校以来だったかもしれない。両腕を突っ張ってフェンスの向こうを眺めると、手のひらにじっとりと汗がにじんだ。アスファルトの地面は遠く、向かいのビルはここよりももっと高い。
遺書は一行も書けなかったので、とりあえずそのへんにあった書類を三つに折って添えた。
庄一は、特筆すべきことがないような人生だったものだ、と、しみじみと思い返す。まあそうだろうなあと思った。たぶん、自分がここから飛び降りたら、理由は仕事とのトラブルだということになるんだろう。
ほんとうのところは庄一自身にも分からない。
作法がさっぱりわからなかったので、適当に買ってきた菓子折りを革靴の横に添えた。ついでに花も買ってこようかと思ったが、やめた。代わりに、庄一はさきほど屋上の自動販売機で缶コーヒーを買った。
屋上の鉄の扉がギイギイと開いた。
庄一がそちらに目線をやると、真由子がいた。真由子は地味な女だった。とりあえず目があったので庄一は会釈した。真由子はあきれた。
干物みたいに緊張感のない男だと思った。
「降りるつもり?」
と、真由子は聞いた。
「努力してみたけれど、どうにもならないことってあるんだ」
庄一は言った。
「そうよね」
真由子は睨むようにしていた。庄一は振り返って、「じゃあ」というような気持ちになったのだが、真由子はこんなことを言った。
「たとえばお腹に子どもがいるわ」
不意をつかれたように庄一は止まった。意識がぐらりとして手を離しそうになったので慌ててつかみなおした。ひんやりとした鉄は手のひらに張り付いた。
いまさら、この高さが怖くなった気がした。どっと汗が噴き出す。真由子は笑った。庄一の喉元で「そうなのか」と「おめでとう」がぐるぐると混じって、結局、庄一は中途半端な格好でフェンスにぶらさがったまま、「結婚しようか」とだけ言っていた。こんどは真由子がびっくりしたように目を見開いているところだった。
のけぞると太陽がじっとりと額を焦がし、こちらを睨んでいるような気がした。
はじめて逆上がりをしたとき、こんな気持ちだったかもしれない。
英二郎は、太陽が怖くて怖くてしかたがない。
「紫外線は女の敵よ」というのが英二郎の母親の口癖だった。
夏休みの間、英二郎は出かけたりなんかしない。
ずっとそうだったので、教室の後ろに張り出されていた友だちの絵日記を見たとき、すごくびっくりした。「きょうは、海にいきました」と太陽の下でサングラスをかけている。
「どうしてお外に出ちゃいけないの?」
「行ってきます」
そうして、お母さんは仕事に出かけていってしまう。
玄関先のポストから新聞を掴みとると、ぼくはドアを開けた。へばりついたドアがへりから離れ、むわっとした熱気が安アパートのへりを通り過ぎていった。
このまま外に遊びに行っても良いなあ。
そんなことを考えたとき、うしろ4歩ともいかないところにユカタはいた。
「おかえり」
ユカタを見ると、なぜだかほっとして、涙が溢れそうになった。お外に行こうという気持ちはどこかに失せた。
庄一が真由子と籍を入れてから3年が経った。3年経ってもお腹の中の子どもは生まれる気配がなかった。そんなものか、と庄一はのんびり待っていた。
庄一はエプロンをつけて朝食を用意していた。いつのまにかスーツは真由子だけのものになった。
けれどある日、真由子がお腹をさすりながら言った。
「3年と3ヶ月だわ」
庄一は驚きもせず、新聞紙をめくって天気予報をみていた。なぜか庄一はそのときの朝食をよく覚えている。トーストと目玉焼きとウーロン茶だった。パンにはハムが乗っかっていた。食卓には真由子の皿と平行に目玉焼きが二つ並んでいた。黄身が二つあったので、庄一はお、ラッキー、など思って一つの卵を二つの皿により分けたのを覚えている。新聞には「晴れ、快晴」と書いてあった。風が窓枠を揺らしていた。
庄一はなんとなく台風が来そうな予感がした。真由子は、ウーロン茶をすすると、
「じゃあ、行ってきます」
と言ってドアノブに手をかけた。
「嵐が来るんじゃないかな」
庄一は言った。
「なんで?」
「おめでたいから」
真由子は怪訝そうな顔をした。庄一は呑気そうに笑った。
夏休みのはじまりの日、母さんはやっぱり「じゃあ、行ってきます」と言ってドアをガチャリと閉めた。その前に「チェーンロックも閉めてね」と言い聞かされていたのでぼくはドアに寄っていって苦労してチェーンロックをしめた。そのとき、振り返るとユカタがいて「やあ」と朝顔の鉢を抱えたぼくに言った。
「やあ、英二郎」
それがユカタだった。
あたりまえのようにユカタはやってきた。ぼくはユカタを見ると、すぐに彼がユカタだと分かった。直感と呼ぶべきものかもしれない。
ユカタは、夏休みの間だけ、紫外線を遮るようにしてぼくのそばに現れる。
「ただいま」
と僕は言った。
「おかえり」
と、ユカタも言った。ユカタはおかまいなく、といったふうにひらひらと手の平を振ると適当にカラーボックスから雑誌を引き抜いて読み始めた。
「ねえ、もしかしてさ、」
「ん?」
「見張りにきたの?」
「なんで?」
「お外に出ないようにって」
「ああ、いんや」
ユカタはにやりと笑った。
「お前に会いに来てるまでだよ。うれしい?」
ごく普通の日常だった。「トクヒツすることもないな」と、ぼくは絵日記の前で考え込んで、「おるすばんがよくできました」と書いた。
真由子のお腹はだいぶゆるやかなカーブを描いていた。なんとなく急いでなくて良いカーブだと庄一は思った。
「子どもの名前か、ユカタだな」
庄一は少しだけ考えるそぶりをしたが、心はもう決まっていた。
真由子は返答の速さにちょっと不意をつかれた。
「ちゃんと考えてる?」
「3年あったからね」
「女の子なら?」
「そうだなあ……」
庄一は少し黙った。
「女の子よ」
と、真由子は言った。庄一は苦笑した。真由子の自信にはいつも根拠がない。
「そうだなあ……」
庄一はやっぱり考えるそぶりをした。
「おかまいなく」と言いながらユカタはうちの棚を器用にもごそごそやると、新しい歯ブラシを取り出して歯磨き粉のチューブを眺めてくるくると回していた。
ユカタは歯磨き粉のバーコードを眺めながら、不意にぼくに聞いた。
「なあ、英二郎、これはどっちが前だ?」
「歯磨き粉が? 口の部分じゃないの」
ぼくはたいして考えもしないで言った。
「奥の歯磨き粉は先に入ったわけだから、後から出てくる方が先だろ?」
「……そうかもしれないけど」
なんだか、そう言われてみるとそんな気もする。
「なんのはなし?」
「別にどうってことないんだ」
と、ユカタは言った。
「英二郎が、どっちが好きかってはなしなんだ」
「べつにどっちでもいいよ」
「鶏が先か卵が先か、よくわからないことだらけだ」
ユカタは考えてる風だ。
なんとなく空を見ている。ムズカシイ話だ、と、ぼくは思った。歯ブラシを左右に動かす僕と鏡越しに目を合わせると、ユカタは歯ブラシを頬から引っこ抜く。
少年アリス的なお兄ちゃんを書きたかったんだと思います。