とらのあなときつね

「ひとには言いにくいことなのですが、実は、私、落とし穴に落ちるのが趣味なのです」
 ぽつり、と、向かいに着席したスーツの紳士がそう言った。
 喫茶店はあくまでも静かだった。どうしてそういう話になったのか、俺には全く掴めなかった。今話していたのは、株価とか、精神とか、そういう話だったと思ったが。
 かといって目の前の紳士は、不用意に距離を詰めてくるタイプにも見えない。ついでに言えば、紳士の態度には照らいといったものはない。悠然と連なる山々のように、俺なんかよりもよっぽど自信に満ち溢れたものだ。
「あなたはお分かりになりますか、あの痛快を。素通りするのはただの人でなし、単に不注意で引っかかるのものはそれ以上に無い無垢、包み隠さず、有り体に申し上げればのろまの阿呆でございます」
 紳士はケーキの生クリームを掬い、のろのろと口に運んだ。点々としたクリームが星のようにあご髭にまみれた。俺は紳士の口元を注視するばかりだった。
「落とし穴と言っても穴だけじゃあないんですよ、例えば蜘蛛の巣、そして漁網。 出来たてほやほやの天然ものはピリリと辛く、目的があれば全体が引き締まったような、ええ、あくまで心地ですが」
 紳士は、砂糖もミルクも混じらないコーヒーをスプーンで掻き混ぜすすって一息ついた。
 そして妙な沈黙が流れた。
 俺は、そこではじめて呆気にとられていたことに気が付いた。話がつかめない。いったい、なんのことなのか。
「それは、」俺は唸った。俺は何か返事をしなくてはならなかった。「変わった趣味だと思いますが」
「ええ、変わっているでしょうね」
 紳士は別にこっちの答えなど気にしちゃいないようだった。
「子どもの無邪気さをせせらわらうような、大人げなさ。贅沢でしょうね。人を二つに分けてかっ食らうような不作法ですから」
 何と言ったら良いのか分からなかった。
「で」
 紳士は口髭を指で拭った。
「贅沢をしているとですね、舌が肥えてしまうわけです。ありがたみが薄くなる。いまの時代、そういったユーモアこそが貴重だっていうのに。たまに苦いのも食べたくなります。ね、でしょう?」
 俺は、向かいの相手が何が言いたいのかを察した。
「あなたが私に下さった絵。これは、たいへん良い買い物だったと思いませんか」
 紳士は茶紙に包まれた絵画を抱いた。妙な笑いを浮かべていた。


『とらのあなときつね』 お題 計算ずくめの馬鹿