スクリプトドクター

 ドクターは行間の血だまりの前でふと足を止めた。
 可哀想に。欠落している。あるべき場所に伏線がなく、唐突に話が飛び出している。だからこの血だまりは不自然に見える。作者は横っ面を不意にはたくような衝撃を与えたかったのかもしれないが、これでは唐突すぎて意味が分からない。
 ドクターは注意深く行の隙間から血痕を少し掬い取ると、ぽた、ぽた、ぽた、と、逆向きに垂らしていった。ヘモグロビンで香りをつければ、そう突然のことには思えないだろう。開け放たれた扉を悠々と区切ると、登場人物らが扉をどんどんと叩いている。ドクターは再び、行間をさかのぼった。
 すべての物事に、とは必ずしも言えないが、物語には予感がなくてはならない。とりわけ、推理小説には。
 青白い顔、咳、強がり、――不吉。そういったものが。
 ドクターは丁寧に文章を縫い合わせると、矛盾している描写を小手で削り取った。おや、背中越しに手元が見えている。銀の結婚指輪。悩んだ末、これは必要なものだと判断して、屋敷にぴかぴかに磨き上げたガラス戸を配置した。少し無理があったが、これでいくらかマシにはなるだろう。
 ぽろりと涙のように読点が剥がれ落ちた。ドクターは、それを大切にしまい込む。読点はなんにでも使える。

 。

 。

 。

 後は3分の1ほどか。
 ポケットが読点でごろごろとしてきた。死んでいった人々が生き返り、さかさまに喋り、結末が分かっている今は、一度目よりももっと予感めいたことを口にする。
 ページの後ろから最初のほうへと、逆向きに少しずつ行間を歩いて行った。時系列をさかのぼって、物事は逆流していく。いけ好かない御曹司がこぼした失言を拾う。ぎすぎすした空気が唐突に和らいで食事のシーンへと。
 また、矛盾だ。ナイフとフォークの向きを直す。同時に二か所に存在した社長夫人を二階へと集め、夫を配置する。人々は一人、また一人と客船を去ってゆき、探偵は足早に後ろ向きに事務所に帰っていく。受話器を下ろす。電話が鳴る。探偵が新聞を広げる。ソファーに座る。

 最初のシーン。探偵の登場シーンだ。

 探偵が扉を前にして、依頼人に、もったいぶって――帽子を脱ぎかけ、やあ、と迎える。室内で帽子は不自然だった。だが、たしかに帽子をかぶっているほうがそれらしくもあった。どちらにしようかと迷って、読者の想像にゆだねようと、とりあえず、頭から取り上げて、手に持たせた。外から帰って来たばかりであれば、これで構わないだろう。


『縫い合わせ』
お題 小説家の医者